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江戸時代に出島を訪れた人は多いといわれますが、その記録が公刊されたものは、数少なく、限定された情報しか残されていないのが現状です。vol.2「カピタン部屋の移り変わり」で、文人画家 春木南湖(はるきなんこ)や司馬江漢(しばこうかん)などが出島を訪れ、描いた記録からカピタンと呼ばれたオランダ商館長の部屋の変遷をご紹介しましたが、これも、商館長宅へ上がった日本人は相当数なものと考えられていますが、そのような人々みんなが訪問記やスケッチを残しているはずもなく、やはり文化人が残した記録が大半のようです。※出島370年物語 vol.2「カピタン部屋の移り変わり」参照
司馬江漢は、徳川後期の代表的な洋風絵師で、蘭学、物理学者としても著名な人物。vol.2「カピタン部屋の移り変わり」でも紹介したように、彼は天明8年(1788)、長崎で遊んだついでに出島の中に入っています。しかし、当時“オランダ屋敷”と呼ばれた出島に入るためには、総髪、いわゆる長い髪では許されず、僧侶に姿を変え、名も“江助”と改め入ったといいます。
吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作らとも交友のあった幕末の志士・香川県琴平町出身の日柳燕石(くさなぎえんせき)は、弘化元年(1844)、自身が28歳のときに、友人の富山凌雲(とやまりょううん)と四国から九州を巡る旅に出ました。彼は、その旅の出来事を『旅の恥かき捨ての日記』という旅日記にまとめています。4月26日、熊本、島原を経て日見峠から長崎に入った燕石らは、はじめ唐人屋敷を見学しようと考えましたが、警備が厳しく断念。そして、出島について以下のように記してあります。 |
折節、涼み棚場のやうな高き処にて、阿蘭陀人酒みいたりければ、其下江舟さし寄てつくづく見れば、顔白く鼻高けれど、髪はちぢんであかき事、南蛮黍(きび)の毛の如し。其側に丸山の女郎と思しき者二三人並居たり。…… |
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どこまでが実際に見たことかは定かではなく、もしかしたら知り得た情報を元にでっち上げた光景なのかも知れません。しかし、燕石が、もし記した通りの光景を目にしたのだったら、出島の中に入ったのではなく、出島の南側の海上から舟で近寄ったと思われます。“涼み棚場のやうな高き処”とは、お察しの通り、カピタン部屋2階、海に面した涼み処と呼ばれたベランダのことに違いありませんね。
司馬江漢も日柳燕石も、いわば物見遊山的に出島を眺めていますが、次の人物は、お役目を持って来崎した人物です。
それは、幕末きっての有能な官吏として名高い川路聖謨(かわじとしあきら)。彼は、嘉永6年(1853)12月、ロシア使節の海軍中尉、プチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎港に来航し、開国を迫った際、交渉人としての来崎でした。有能なだけではなく、誠実で愛情深くユーモアに富み、和歌にも造詣が深いなど文化度の高かった川路は、やはり当時のことを克明に日記に記しています。
12月8日、日見峠を越えて長崎入りし、13日、長崎奉行西役所へ出向きました。そこは、現在の長崎県庁のある場所の地。眼下には出島が見えました。 |
この御役所は、紅毛夷(こうもうい)出島の旅宿に附きたる所にて、目下におらんだ旅館を見わたし候。高サ十間ばかりもこれ有るべく候旗竿立てこれ有り候。これへ佳節其外の時、旗をあげ候事也。其外は瓦屋根みえ候計(ばかり)、外に相変わり候事なし。 |
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オランダ人が宿泊するので“おらんだ旅館”という表現がオモシロイですね。実際はもっと低いはずの出島のシンボルである旗竿を、高さ20mと見誤ったりもしています。上から見下ろすと、日本瓦の屋根ばかりしか見えず、いたって日本風だというのです。翌安政元年正月6日には交渉が終わり、8日に使節は帰国。大仕事を終えた川路は、13日に長崎奉行一同と西山の御薬園や東上町の武器庫、東中町の長崎会所などを見学。最後に出島内を巡見しています。 |
目の玉をくり出して、切さき腐れぬ薬をかけて、こまごましき血しお滴るままビイドロ器の内に入れたる、又は五臓六腑まで手にとるがごとく腑わけをなしたる図等有り。月のうちの世界をうつしたる有り。人のすむやと問いたるに、冷気にて物の生育は有るまじ、と答えたることなどもこれ有り候。 |
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医学関連の図書、おそらく「解剖図」を見せてもらったのでしょう。また、月が描かれた図も……。川路の「人は住んでいるか」という問いに、「寒くて生物はいないだろう」の返答をもらったとか。見るもの聞くもの、オランダ人の進んだ知識のすべてに、さぞかし興味をそそられたことでしょうね。 |
『出島図』/長崎歴史文化博物館所蔵 |
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★出島ワールド人物伝★
イギリス船が貿易交渉に那覇へ。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる軍艦4隻が開国を迫り浦賀へ。同じく、前述のロシア使節プチャーチンが長崎へ・・・・・・幕末、外国船がしきりに日本に来航。そんなこんなで、日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約が結ばれ、安政2年(1855)には、長崎の町中を外国人が歩くことも許されるようになりました。そんな新しい時代が幕を開けてから5年の1860年、スコットランド生まれのプラントハンター(未知の植物を採集する専門家)ロバート・フォーチュンが長崎に上陸。幕末期の長崎、江戸の印象を『幕末日本探訪記』に記しました。その頃、もちろん出島への往来も自由になっています。――湾の少し奥まった所にある出島は、遠望すると、長崎の前面にある小規模の要塞が砦の用に見える--出島と長崎の町をつなぐ古い橋は、由緒ありげに残っていたが、幾分破損した様子だった――。そして、出島の中で、シーボルトが建立したケンペル、ツュンベリー顕彰碑を偶然発見。同じ植物学者であるフォーチュンも感動したことでしょう。こう記しています。
――日本の人々や天産物に関して、われわれに知らせるために、多くの仕事をした尊敬すべきこの両科学者の名を、後世に遺しておくことは喜ばしいことである―― |
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