 |
 |
寛永14年(1637)の島原・天草の乱の後、寛永16年(1639)ポルトガル船の来航が禁止され、キリシタンに対する弾圧措置が徹底されていきます。秘かに信仰を続けている信者達は、ひとたび発覚すると次々に捕えられ、多くの殉教者が出ました。代表的なのものが明暦3年(1657)大村藩で起こった郡崩れ(こおりくずれ)ですvol.4禁教令にはじまる弾圧の歴史と遺構【弾圧の歴史】。それ以降、大村藩のキリシタンへの取り締まりは厳しくなっていきます。そんな中、同じ大村藩の中でも大村城下から遠く離れた目の届きにくい外海地方には、秘かに信仰を続ける人々が多数存在しました。外海は平地が少なく土地はやせ、暮らしていくにはとても困難な土地でしたが、佐賀藩の飛地が多いことから領境も複雑な地で、秘かに信仰を貫くには都合のいい場所だったのです。また、同じく平戸、浦上地区などでも、キリシタン達は、幕府の弾圧が残酷さを増す中、表面上は仏教徒を装いながら代々伝え聞いた信仰を守り通していきました。 |

サン・ジワン枯松神社 |
外海・黒崎教会の南側の丘にサン・ジワン枯松神社(かれまつじんじゃ)があります。日本でも珍しいキリシタンを祀った神社であるこの地は、禁教中に潜伏していたという宣教師サン・ジワンゆかりの地で、外海の潜伏キリシタン達の聖地であったという伝説が残されています。祠の下方には、祈りの岩と呼ばれる岩が残り、潜伏キリシタン達は、夜中にここへ来て「祈りの言葉」であるオラショを唱えていたと伝わります。また、「県民の森」から約2kmの山中には、日本人宣教師・トマス金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ)が宣教の際に潜伏していたとされる次兵衛岩洞窟、牧野地区「岳の山」の地には、バスチャンと呼ばれた日本人伝道士が身を潜めていた場所とされるバスチャン屋敷跡があります。いずれもキリシタン関係伝承地として、全国はもとより海外からの巡礼者は後を絶ちません。トマス金鍔次兵衛神父は、方々に潜伏しながら、キリシタン達を励まし、ゆるしの秘跡を与え、ミサを捧げるという日々。弾圧で弱くなった多くの背教者を改心させ、新しいキリシタンには洗礼を授けました。禁教下に次兵衛神父によって洗礼を授けられた信者は実に500人を下らなかったといいます。 |

次兵衛岩
|

バスチャン屋敷跡 |
そして、バスチャンにはこんな逸話が残っています。牧野「岳の山」に移る以前、深堀にいたバスチャンは、迫害が厳しくなると身の危険を感じ、外海に程近い三重村の樫山赤岳で秘かに布教活動を行っていました。そのため、迫害時代、樫山の赤岳は、バスチャンの神山として潜伏キリシタン達に崇敬されていました。 |
浦上のキリシタン達は、長崎市北部にある岩屋山に登り、
三度岩屋山に登れば、
樫山(赤岳)に一度巡礼したことになる。
三度、樫山に巡礼すれば、
一度ローマのサンタ・エケレンジャ(教会)に巡礼したことになる。
と、樫山の赤岳に向かって祈りを捧げたといわれています。 |

樫山赤岳 |
|
★その頃の長崎★
寛政11年(1799)、諏訪神社の神事、長崎くんちに初めて奉納されたコッコデショは、樺島(椛島)町が誇る演し物です。長崎の海外貿易で輸入された貿易品のうち、生糸・絹織物・薬種などを専門で上方(大坂・堺)へ運ぶ船は、糸荷廻船(いとにかいせん)と呼ばれる堺船でした。当時、樺島町には堺船頭連の定宿があり、彼等が伝えた堺段尻がコッコデショのルーツだといわれています。さて、そんな上方の男衆は、
長崎に丸山といふ処なくば 上方の金銀無事に帰宅すべし
と井原西鶴が言ったというように、日本三大花街の丸山でお金を落として帰っていった人も多かったようです。花街・丸山は、寛永16年(1639)あるいは寛永19年(1642)に、市中の遊女屋をすべて一箇所に集めた遊郭。隣接する寄合町とともに「傾城町」とも呼ばれました。そんな、花街にも禁教時代を反映する行事がありました。寛永年間頃からキリシタン検挙のために行われるようになった絵踏みです。長崎では毎年正月に絵踏みが行われ、市中では4日から9日にかけて行われました。病人には病床で踏ませ、動けないものには足に絵板をあてるという徹底したものだったといいます。丸山遊女達の絵踏みは、きらびやかな衣装で踏み絵を踏み、見物人が大勢つめかけるとにかく華やかなものでした。その日の遊女の衣装は絵踏衣装といわれ、馴染みの男たちは競って美しい衣装を遊女に贈ったのだといいます。 |
|
|
★キリスト教人物伝★ トマス金鍔次兵衛(1600?-1637)
神出鬼没!伝説の日本人宣教師
入牢していたアウグスティノ会日本管区長であるグチレス神父を探すため、長崎奉行所に馬丁(ばてい)として潜入。昼は馬丁として忠実に働き、夜はキリシタンの家を訪れるという不眠不休の二重生活を行っていた日本人宣教師トマス次兵衛。「金鍔次兵衛」の異名は、彼が役人になりすましていた際に差していた刀の金具、金鍔に由来しているといいます。1600年頃、現在の大村市に住む敬虔なクリスチャン夫婦のもとに誕生したトマス次兵衛は、有馬のセミナリヨ(神学校)vol.2伝来初期の布教の地、日野江城跡と口之津港【布教・繁栄】で、神学はもとより語学など熱心に学びましたが、1614年、禁教令vol.4禁教令にはじまる弾圧の歴史と遺構【弾圧の歴史】により宣教師と共にマカオに追放されました。一度日本に戻りましたが、再びマニラに戻りアウグスティノ会に入会。その後セブ島で司祭に叙階され、フィリピンで始動しますが、迫害に苦しむ日本の教会に戻る決意をし、1631年、侍に変装しての密航により帰国を果たしました。長崎地方の方々で活動を続けたトマス金鍔次兵衛神父でしたが、間もなくその存在を奉行所に見破られ大捜索がはじまることに。次兵衛神父は2年もの間、追っ手を逃れながら伝道を続けましたが、寛永14年 (1937)、密告者によって捕縛。奉行所は援助者の名前を自白させるため、また捜索に長い時間を費やした恨みを晴らすため、水責め、焼き鏝(こて)など、あらゆる厳しい拷問を試みましたが、次兵衛神父は恩人を一人も裏切ることなく苦しみに耐えぬいたといいます。そして2度のさかさ穴吊りという最も過酷といわれた拷問によりついに殉教。勇気と熱意ある信仰心に満ちた生涯を終えました。外海の「次兵衛岩」のほか、女神大橋から程近い戸町の裏山の一帯に、次兵衛神父の潜伏場所と伝えられる「金鍔谷」と呼ばれる地名が今も残っています。 |
|