●島原の乱と原城跡遺構【初期の弾圧】

江戸時代、多くのキリシタンが関わった大事件として知られる島原の乱。「島原・天草の乱」、あるいは「島原・天草一揆」ともいわれるように、島原地方のみならず海を隔てた天草地方、両地域で領民らが一斉に蜂起しました。寛永14年(1637)10月の終わりのことです。島原地方では、村々の代官を次々に襲撃し、森岳城(島原城)を攻撃。また、天草では本渡城や、富岡城などに攻め入りました。各地でそれぞれ大規模な反乱を繰り広げた一揆軍は、その後島原で合流し、廃城となっていた原城に集結。天草四郎時貞を盟主とし、12月から翌年2月までの約3ヶ月間、原城に立て籠り幕府軍と対立しました。そして、最終的には圧倒的な幕府軍の攻撃を受け乱は鎮圧されました。


南高 原城跡の天草四郎像(南有馬町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」


原城跡 原城本丸大手門跡
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

原城がある島原半島南部は、もともとキリシタン大名・有馬晴信の所領でしたvol.2伝来初期の布教の地、日野江城跡と口之津港【布教・繁栄】。領内には南蛮貿易船が往来する口之津港があり、拠点であった日野江城の周辺にはセミナリヨが置かれるなど、キリスト教信仰の中心地の一つ。一方、天草地方も修道士アルメイダによる布教でキリスト教が広まり、かつては島原同様に信仰の盛んな地域でした。

しかし、慶長17年(1612)、有馬晴信は岡本大八事件によって死罪、慶長19年(1614)にその子・直純は日向延岡(宮崎県)へ転封となり、有馬氏による島原半島支配は終わりを告げ、代わりに有馬氏の旧領に入部してきたのは大和五条(現奈良県五条市)の領主だった松倉重政でした。

島原、天草共にキリスト教の盛んな地であったことから、島原の乱は禁教に反発を覚えるキリシタン達による一揆だともいわれてきましたが、現在、その原因は、重政やその子松倉勝家らによる過重な年貢負担や苛政、キリシタンに対する過酷な取り締まりや迫害、そして連年続いた凶作・飢饉などが複雑に絡み合ったものと考えられています。

一揆軍の数約3万7,000人(約2万7,000人ともいわれます)に対し幕府軍は最終的に約12万人の軍勢を動員。一揆軍は原城において約3か月に及ぶ籠城の末、幕府軍の総攻撃により寛永15年2月28日(1638年4月12日)に陥落、老幼男女の別なく皆殺しになったといわれます。一方、幕府軍側も約8,000人の死傷者を出しました。一揆軍の中には、有馬晴信や天草一万石を所領していたキリシタン大名・小西行長の家中であった者達もいました。また、幕府軍側にはかの宮本武蔵が参戦していたと伝えられています。

近世最大の一揆・内乱へと発展した島原・天草の乱は、その後の幕府の政策に大きな影響を与えます。禁教令の徹底が取り組まれ、キリシタンではないことを仏教寺院で証明させる寺請制度(檀家制度)の導入などにより宗門改が強化され、対外関係では、オランダと中国以外の国との通商を閉ざす鎖国体制が整備されていったのです。

日本初のセミナリヨの創設、天正遣欧少年使節のヨーロッパへの派遣と彼らの活躍vol.4禁教令にはじまる弾圧の歴史と遺構【弾圧の歴史】。かつて、キリシタン文化の花が開いた島原半島は、日本をヨーロッパに紹介した少年達を育て、日本人が世界へ踏み出すことに大きく貢献した地でした。しかし、その後、鎖国政策という世界との繋がりを制限する方向へと進む、江戸幕府を揺るがすほどの大事件が起こった場所でもあります。それを思うと、島原は当時の日本の国際社会への関わりに大きく関連していた場所だといえそうですね。

原城跡の調査は、平成4年度から本丸地区を中心に継続的に実施され、これまでに築城当時から乱により幕府軍に破却されるまでの様子を物語る多数の遺構と遺物が出土しています。なかでも十字架、メダイ、ロザリオなどのキリシタン関係遺物が人骨と共に出土しています。乱に参加したキリシタンが最期の時まで肌身離さず大切にしていた証ですね。


原城跡発掘出土品展示室
〈原城文化センター〉(南有馬町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」
 
★その頃の長崎★
島原の乱でポルトガルとの関係が悪化すると、幕府は翌年、ポルトガル人の日本渡航を一切厳禁。そのため、幕府の命を受けてポルトガル人収容のために築かれた「出島」は無人の島となりました。島原の乱において、幕府軍の総大将だった板倉重昌の戦死後、後任を引き継いだのは、老中松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)。兵糧攻めの実施や、籠城する一揆軍に対しオランダ船のデ・ライブ号、ベッテン号に援護射撃を要請するなど、原城攻略の指揮を執り鎮圧した人物です。信綱は、乱を鎮圧し帰途に着く際、平戸に立ち寄りオランダ商館を見聞したといいます。その際、堂々と建ち並ぶ商館や倉庫、阿蘭陀大筒の試し撃ちの正確さなどに第二の「島原の乱」を危惧。平戸オランダ商館の天領長崎(出島)への移転につながったといわれます。日本で唯一西洋に開かれた窓口として独自の文化を築いていった長崎の町の運命は、もしかしたら島原の乱を間のあたりにした信綱の鶴のひと声によってもたらされたものだったのかもしれません。
 
★キリスト教人物伝★ 山田右衛門作(1575(?)-1657)
島原の乱ただ一人の生き残り
落城時まで残っていた一揆軍の参加者は、女性や子どもも含め全ての者が討死、もしくは捕えられ処刑されました。そんな中、ただ一人生き残った人物が南蛮絵師・山田右衛門作(やまだえもさく)です。右衛門作は有馬直純に仕え、その後松倉家に召し抱えられました。一揆軍の中では天草四郎に次ぐ副将で参謀格としての役割を果たし、幕府側との矢文のやり取りを担当。しかし、一揆勢の幹部でありながらこの矢文を通し幕府側に内通。結果、一揆軍の中でただ一人生き延びることになります。乱の後、幕府の取調べにおいて、右衛門作が語った原城での籠城の様子は、口上書として残されており、その生々しい供述は、375年も昔の出来事を今に伝えてくれます。その後、右衛門作は松平信綱に伴われて江戸に行き、絵筆をふるう傍らキリシタン摘発の仕事をさせられたといいますが、晩年は再びキリシタン信仰に戻ったともいわれています。中央に描かれた聖杯に向かい祈りを捧げる天使--籠城の際に一揆軍が掲げた「天草四郎陣中旗」は右衛門作の描いたものといわれており、「綸子地著色聖体秘蹟図指物」(りんずじちゃくしょくせいたいひせきずさしもの)として国の重要文化財に指定されています。この旗の表面には范点状の血痕と刀や槍による裂傷と思われる傷が残り、右衛門作の口上書と共に乱の凄まじい戦いの様子と、一揆軍の信仰の姿を私達に教えてくれます。

参考文献 『検証 島原天草一揆』大橋幸泰(吉川弘文館)、『蘭風蛮歌』寺本界雄著(長崎文庫同人会)、『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』神田千里著(中公新書)、『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』長崎県南島原市監修(新人物往来社)




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