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平成27年度第5回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2017年7月18日 ページID:029029

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成27年度第5回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成27年9月17日(木曜日)9時00分~10時42分

場所

長崎原爆資料館 2階 会議室

議題

1. 第二次城山国民学校確認調査について
2. 前回会議での意見・指摘等への対応について
3. 調査報告書について
ア 目次構成
イ 第1章(長崎原爆遺跡とは)
ウ 第2章第3節(浦上天主堂旧鐘楼) 

審議結果

【会長】
第5回長崎原爆遺跡調査検討委員会を開催いたします。まず、(1)「第二次旧城山国民学校確認調査について」の事務局の説明をお願いします。

【事務局】
資料1「第二次旧城山国民学校確認調査について」に基づき、調査結果の概要を説明。

  • 炭化物層(「昨年度調査土層図」5層)の西端・南端が確認でき、昨年度調査も含めると炭化物を南北方向に12.6m、東西方向に11mの範囲に確認できた。深さは地表面から21~24センチメートルのところで検出された。下層の状況から見ても、炭化物層が被爆時の地表面である可能性が高く、炭化物が何に由来するものなのか、骨片等が含まれていないか分析するため、土壌のサンプリングを実施した。分析結果は10月に判明する予定である。
  • 炭化物層の放射線を測定したところ、他の層の数値と差は認められなかった。
  • 炭化物層とほぼ同じ高さで遺物を検出し、白い縁石のようなものを5か所確認したが、調査範囲の図面と被爆直前の空中写真を対比した結果、被爆直前の運動場の縁石である可能性は低いと思われる。縁石は全て上向きで、1か所を掘って調べたところ、基礎は約20センチメートル、地山近くまで埋設されていた。
  • 遺物は瓦片が最も多く65点。コンクリート片、レンガ、釘、ガラス片、陶磁器片など合わせてパンコンテナー2箱分を検出した。
  • 今後、委託業者が平面図・土層図・出土状況図を作成する。今回の調査の成果としては、火葬跡の写真と炭化物層の範囲の形状が異なることがわかった。昭和20年10月以降、茶毘跡の片付け時に不定形に広がった可能性がある。
  • 瓦片自体に被爆瓦特有の火ぶくれがあるものは見られなかった。直接、熱線の照射を受けたものではないようだ。
  • 土層の状況として「昨年度調査土層図」6層は調査区全域に広がっており、かつその下層(「昨年度調査土層図」7層)は地山である。6層が被爆当時のグラウンドである可能性が高い。従って、その直上に堆積している炭化物や瓦礫は、原子爆弾被爆もしくはその後の復興の過程により堆積したものと考えられる。

【会長】
白い出土遺物の現物がありましたら、直に見せていただきたいと思います。

【事務局】
縁石は、取り上げることはしておらずそのまま埋め戻しております。

【会長】
わかりました。他に何かございませんか。

【委員】
6層が被爆当時の層という理解でいいのでしょうか。

【事務局】
被爆したときの層が6層で、その上に炭化物層の5層がのっていると理解しております。

【委員】
今回の調査は、6層よりも上にあるものの分析ということですね。

【事務局】
はい。

【会長】
前回の調査よりも更に下の地山の層も土壌のサンプルを採っているのですよね。被爆のときの熱が走ったということであれば、今回採られた黒色のものが入っている層とその上下の層を土壌分析することによって、例えば、被爆以前に土壌にあった元素と何らかの異変の中で変化を受けて消滅した元素が明らかになれば、熱による影響の差というものが出てくるかもしれませんね。それからもう一つ、出土したものはいずれも瓦礫片みたいな小さなものですか。

【事務局】
はい。概ね小さいもので、ほぼ全ての遺物が同じような大きさに収まっておりました。大きいもので15センチメートルくらいでした。

【会長】
今まで見てきた写真からすると、荼毘を行った跡に残った大きなものはおそらくかき集めてどこかに移したのでしょうね。現場を見たとき、残っているものが非常に小さいので、そのときの取り残しみたいなものという感じでした。

【委員】
ここで荼毘が行われたであろうことは恐らく確実ですが、重要になってくるのは物証面から出せるかどうかというところになるので、10月の分析結果待ちというところが大きいと思います。

【会長】
では、分析結果が出ましたら事務局から連絡をよろしくお願いいたします。次に、議事の(2)「前回会議での意見・指摘等への対応について」の事務局の説明をお願いします。

【事務局】

  • 前回会議において、これまでに議論した4つの遺構に加え爆心地についても調査・研究の対象とするようご意見をいただいた。その新たな名称として委員から「長崎原爆・爆心地とその遺跡群」や4遺構と同じように「長崎原爆遺跡(爆心地)」とするのはどうかというご意見をいただいたので、委員の皆様のご意見を伺いたい。
  • 爆心地に関する今後の調査としては、現在下の川の護岸で展示している地層を測量し現況を把握したい。また、現在のどの場所に地層があるのか図面におこしていきたい。
  • 今後のスケジュールとして、報告書の今回審議いただく以外の部分の原案を、10月末を目途に作成し、11月中旬に委員会でご審議いただきたい。その後、いただいたご意見やご指摘を踏まえて原案の修正を行い、12月中旬に次々回の会議を開いて確認をお願いしたい。

【会長】
ただ今、事務局から説明がありましたこの事につきまして、特に大きなテーマが爆心地の名称ですが、「長崎原爆遺跡(爆心地)」とするということでいかがでしょうか。

[委員了承]

【会長】
それでは、このことにつきましては以後、提案どおりの名称でお願いしたいと思います。

【事務局】
事務局で今後資料を作成する上で、爆心地については「長崎原爆遺跡(爆心地)」という名称を使わせていただきます。

【会長】
よろしくお願いいたします。

爆心地を原爆遺跡に入れていただくということで、前回申し上げたようにできる限り爆心地自体の現在の環境と景観その他等は崩さない形で存続させていく。よくこれを機にモニュメントが建ったりしますが、できる限りそういうことはしない。現状のままで保存してもらいたいというのが基本。ただし、川の側に出てきております被爆したときの地層の断面ですが、これを見る限りにおいては少し整理をしなくてはいけないのではないかという気がします。

まずは、現在ガラス越しに見せているものが、現状のまま今後耐えうるかどうかです。果たして、よく地層を見せるときにやっているような、例えば樹脂加工や除湿をした上で見せているのかどうか。遺構の露出により生じているのは、例えば、サント・ドミンゴ教会の土層を見てもおわかりのように、かなり湿度が高くてカビが生える。カビが生えるというのは、土の色を変えると同時に、長い目で見ると土を破壊するということですから、どうしてもそういう面が出ます。ただし、土ですから完全にとはいきませんので、いろいろな方法で今後手だてをここでやっておく必要があるのではないかという気がします。大きくは、現在の土層をもう少し正確に切りなおしていくということと、この層が原爆層ということで見せるということ。もう一つは、これを機会にレプリカを作る、土層剥ぎ取りをやっておく必要があるのではないかという気がします。

まずは、そのような科学的な処理がされているのか確認して、されていなければ樹脂、その他等でやっていく必要がある。順序では、その前に切りなおしてやっていくというのが一番いいのではないかと考えております。

この上については、文化財課の方も出席していますのでいかがですか。

【事務局】
一つは、その土層の切りなおしですね。いずれにしても、今回土層図を作成するということになりますので、恐らく現状の物自体をきれいに清掃というか精査するというのは必要ですので、ある程度新鮮な面を出した上で土層図を作成する必要があるとは考えております。

また、その際にご指摘ありました、例えば土層の剥ぎ取りですとか、レプリカを作成するとかいうような形での対応をするとすれば、この時期でなければなかなか機会がないのかなと思っております。

【会長】
今、文化財課のほうからもそういうご指摘がありましたので、すぐにというわけにはまいりませんが、この辺りは事務局で実行していただくようお願いしたいと思います。

【事務局】
今、ご指摘やアドバイスをいただいた中で、今後の段取りやどの時期にどういうことをやっていくのがより適切なのかというのを踏まえながら、またスケジュールとか今後の手法についてもいろいろ研究させていただきたいと思います。

【会長】
どうもありがとうございました。他に何かございませんか。

【委員】
おそらく、爆心地という名前自体は長崎でもこれまで使われてきて、多くの人がそのような言葉でおそらく呼んでいたのであろうと思いますし、用語としても適切だろうと思います。ただ、報告書をまとめる過程で、一つは爆心地というものがどのように整備されてきたのかという問題と、もう一つは、こちらで所蔵されている写真を見ますと占領軍がやってきた直後に爆心地であるとされていた場所があって、そこから修正されてきた経緯があるわけで、そのあたりも含めて整理をしておく必要はあるかと思います。

昨日、報告書の原案を読みながら浦上天主堂の経緯をこのようにきちんとまとめておくというのは大変重要な感じがしまして、今回爆心地についても是非その辺りはまとめ直しておいていただくのがいいかと思っております。

【事務局】
ただ今の委員のご意見について、私どもも今回ご説明する報告書の中で浦上教会の歴史を切り出して皆さんにご覧いただくような形でまずご提示させていただいておりますが、同じように爆心地についても、確かに当初の爆心地の位置の測定、位置決めにあたって米軍の調査、それから文部省の調査と変遷がございました。実際のところ爆心地がどこにあったのかいろいろ議論しながら辿った経過なども重要な内容になると思いますので、爆心地の歴史的なものを、ご意見をいただきながら入れていきたいと考えております。

【会長】
他に何かございませんか。今後のスケジュールですが、かなり厳しい状況下にありますが、基本的に事務局が示した今後の作業スケジュールで頑張ってやっていただきたいということで私たち委員は了承いたしますので、今後これで進んでいただきたいと思います。

【文化庁調査官】
先ほどの爆心地の地層の断面のことですが、その調査はいつ頃できそうでしょうか。11月にも委員会が開催されると思いますが、その会議との関係がどうなるのか。まだ決まってなければそれで結構です。

【事務局】
現段階ではまだいつ頃できる、いつごろ実施するというのはまだ決まっておりません。

【会長】
今、調査官からのご指摘にありました日程につきましては、今後事務局等がスケジュールの中に入れ込んで実施する形で進めていくようにお願いしたいと思います。断面の調査の詳細につきましては、事務局の方で一応案を作って進めていただきたいと思っております。

次に、議事の(3)「調査報告書について」の、アの目次構成について事務局からの説明をお願いします。

【事務局】

  • 報告書の目次構成について、変更したい。大きな変更点として第2章第1節に爆心地を入れている。もともと爆心地は第3章として独立して章を設けていたが、他の原爆遺跡と同列に節として位置付けた。その他は、第1章の「第1節 遺跡の位置と環境」など一般的な報告書の体裁に則ったものにするなど細かな修正を行っている。

【会長】
ただ今の事務局の説明について、何かございませんか。引き続きまして、イの第1章について事務局の説明をお願いします。

【事務局】

  • 報告書第1章「第2節 長崎市への原子爆弾投下」では、「1 経過」でアメリカの爆撃機が飛び立ってから長崎市に原爆を投下し、炸裂するまでを記述。「2 被害概要」として、原爆の爆発の状況、火球と熱線、衝撃波と爆風、放射線について記述している。また、全焼、全壊、半壊の家屋数、死者数といった物的、人的被害の状況について述べている。

「3 原子爆弾被害の特質」では、先行研究で分類された特質を引用し紹介している。

「4 長崎市における原子爆弾被害の特質」において、この分類を踏まえ長崎市における原子爆弾被害の特質を押さえている。1点目に奇襲性、2点目に瞬間性、最後に無差別性を論じている。

  • 報告書第1章「第3節 長崎遺跡とは」では、まず、原子爆弾被爆者との直接対話による被爆の実相の継承が困難となる中で、それを補完しうる可能性を持つものとして遺構や遺物などの物的証拠の意義を述べている。そして、長崎市における「被爆建造物等」、国における登録記念物などの制度でこのような遺構等の保存・活用を図ってきた経緯を説明している。一方で、被爆し破壊された状態のまま保存することや、鉄筋コンクリートのような耐用年数が存在する遺構を保存することの難しさにも触れ、これまでに解体された主な被爆建造物等を表で載せている。

原爆遺跡の範囲の問題として、長崎市における原子爆弾被害の範囲は、南北約5キロメートル・東西約2キロメートルにわたり、その範囲であれば至る所に地中の焼土層や被爆した跡の瓦礫が存在する可能性が高いと思われる。極言すれば長崎市全体が原爆遺跡たりうるが、どのような遺構であれば長崎市における原子爆弾被害を総体として語ることができるか検討するため、まず登録記念物となった4つの長崎原爆遺跡、加えて爆心地の調査検討を行うことになった経緯を説明している。

【委員】
まず、この報告書自体の位置付けを教えていただきたいのですが、この報告書の中身は誰に向けたような書きぶりで書くのかその前提を教えていただければと思います。

【事務局】
この報告は、国の補助をいただいて作成しますので文化庁に提出しますし、各都道府県等の文化財研究所などにも配付しますので、学識者向けの専門的なものがかなり含まれた報告書として作成することになります。

【委員】
今この報告書の性格についてご質問がありましたが、専門家向けということでもあり、長崎の被爆した遺跡に関する資料としてこれから恐らくかなり多くの人がこれを参照するものと理解しています。その意味では、多分に専門的なものであるだろうと思います。

その上で気になったのが、被害概要が非常にあっさりし過ぎていないかということです。放射線による被爆の部分は後でまた別途出てくるし、遺跡の関わりで言うと放射線というのはものとして大変出しにくい部分も出てくるとは思うのですが、かなり公的な性格を持っている報告書ですので、なにも難しいことを書けということではなく、もう少し書き込んだほうがいいのかなという感覚を持ったのが一つです。

もう一つは、これはまたいろいろなご意見があるだろうと思いますが、第3節の「長崎原爆遺跡とは」の位置付けのところで、これも今ものとしての重要性にかなり絞った書き方をしているのかなと。それはもちろん文化財ですので当然といえば当然なのですが、被爆遺跡はそもそも何なのかということを考えてみると、爆心地というのはもちろん原爆が投下されたということをかなり端的に示して、多くの人が原点として考える、そういう場所であり、ものであると考えております。それ以外のそれぞれの遺構について考えていくと、原爆の被害というのは基本的にものが残らない、つまり破壊され尽くすと考えたほうがいいと思うのです。そうなったときに、今まで我々が目にしてきた被爆遺跡とは何なのかというと、破壊されつつも何がしか元の状態を留めている。その、ある種壊れかけたところから原爆の破壊ということを考えていこうという、そういうことになってくると思います。そのような非常に原則的な位置付けのようなことが少しあってもいいという感じがしています。

今回対象になっているそれぞれの被爆遺跡というのは、旧長崎医科大学は建物全体ではなく門柱に留まるわけですが、被爆後の風景の中で多くの人が被爆後のランドマークとして、長崎で多くの人が見ていたものの一部であるわけです。これはいずれもそうだと私は考えています。当時の写真を見ると、やはりこれがかなり際立った形で目に入ってくるわけです。

その点も含めて、最初に言った被爆遺構というのはそもそも何なのかということと、その被爆遺構には恐らく被爆後に多くの人がランドマークとしてそれを認識していた。そこからもちろん記憶を呼び起こしたくないという時期もあったでしょうし、後でまた思い起こしたこともあるでしょうが、そういう対象でもあったというような抽象的な位置付けがあっていいかなという感情を持ちました。これは、もう少し具体的なアイデアを出してと言われたら私のほうでも考えてみますが、ご検討いただければと思います。

【会長】
ただ今、委員からご指摘がありましたけれども、関連としまして私のほうからも。通常報告書と言われるものであれば、そのものを今までどのように考えてきたかというような経過というのがあるのです。今回の場合は、経過の流れがどこへ出てくるのだろうか。研究の部分ではいわゆる研究史というような形のところですが、この流れにおいては、後のところで浦上天主堂の鐘楼はこうなったとかいうのは個々の記録の中で出てきますが、いわゆる全体の中では研究史とか長崎原爆をどのように考えてきたかというところを骨子として入れなくてはならないのではないかという気はしております。どう考えてきたのか、あるいはどう見てきたのかということの生き様は中に入れていただきたいと。研究史やそれに関連するような年表といった形のものが必要であれば、やっていただきたいと考えております。

今までのブロック的な個々の調査というのはすごくいいなと思うし、こちらで出されている被爆建物等の報告書というのはすごく立派なものです。それからモニュメントの冊子にしてみても、すごいことをやられているという気はします。だから、そういうのもどこかで出しながらこういうことをやってきたという生き様で出されて結構だと思います。そういう意味での研究史をもう少し加えていただけたらという気がしております。

他何かございませんか。ないようでしたらウの「第2章第3節 浦上天主堂の旧鐘楼」について、事務局説明をお願いたします。

【事務局】

  • 「第2章第3節 浦上天主堂の旧鐘楼」については、第1項で浦上天主堂の歴史、第2項で旧浦上天主堂の調査について記述し第3項で小括としている。
  • 「第1項 浦上天主堂の歴史」について記述内容を説明。
  • 第2項「1 旧浦上天主堂関連被爆写真の分析」では、浦上天主堂旧鐘楼に関する歴史的な背景及び土地利用の変遷を明らかにすることを目標に原爆資料館所蔵の写真を分析したことを説明。

写真1 現在の天主公園の位置から撮影されたと思われ、被爆前の浦上天主堂西面の石垣の有り様が注目される。

写真2 天主堂敷地内正面から撮影されたもの。写真1と比較すると右側の建物は共通だが、左側にも木造トタン屋根の小屋状の建物があることが確認できる。

写真3 長崎医科大学グラウンドから浦上天主堂を見た写真。当時の浦上天主堂南側の状況を考察できる。天主堂より一段下の台地左端にある小屋はトイレと思われる。その右側で天主堂と同じ台地上の建物が司祭館。右側は旧庄屋宅を教理学校にしているもの。

写真4 浦上天主堂の北西から天主堂正面を見た写真。鐘楼があるので1925年以降に撮影したもの。参道の形状が現在と異なっているため、参道は被爆当時と多少付け替えられている可能性がある。また、1925年より前の写真には見られない特徴として、天主堂2階部分が白い外見となっている。

写真5 向かって右側の2階部分も白い外見である。

写真6 しかし、この写真を見ると天主堂の翼廊より濃い色味である。この写真は1937年に長崎市内の小学校の連合運動会が行われた際の優勝記念写真であり、長崎医科大学のグラウンドから撮影されたもの。写真3と比較すると、トイレや司祭館があった部分に木造一部3階建ての建築物が建っている。

写真7 1942年11月8日の大詔奉戴日の様子を撮影したもので、遠景に浦上天主堂が見える。この写真からも浦上天主堂の側面2階は白色ではないことが確認できる。

  • これらの写真から、浦上天主堂2階が白い色の外見であったのは1925年から1937年のうちのいずれかの時期と推定できる。
  • 浦上天主堂に関する被爆写真は林重男氏や小川虎彦氏、松本栄一氏らが比較的早く被爆から1か月から2か月のうちに記録を残している。これらの写真をもとに、浦上天主堂の各方向からの被害を検討している。

写真8 正面のうち北側鐘楼部は完全に崩壊して原型も見られない。南側鐘楼部もドームは落下しており、わずかに柱部分を残すのみとなっている。正面の玄関部は中央から亀裂が入り、柱部分と壁部分は崩壊寸前のような状況。また、玄関部の側柱も爆心と反対方向に倒れている。

写真9 浦上天主堂を南側から見たもの。写真3や写真6と比較することができる。木造建物は全て破壊され、翼廊南側部分の南壁のみが残った。また、堂内には南側鐘楼が落下している。

写真10 浦上天主堂を東北東方向から見たもの。浦上天主堂東部の堂壁がほとんど全て崩壊していたこと、北壁は辛うじて残っている部分も多いが傾斜していることも確認できる。

写真11 浦上天主堂を北側から撮影したもの。天主堂正面北側の鐘楼部分の瓦礫が北側の1か所に堆積しており、その一部は聖堂のある台地から北側に崩落している。

写真12 1945年11月23日の合同慰霊祭の写真。

写真13 1946年、仮聖堂建築中の信者の奉仕活動の様子を撮影したもの。

写真14 仮聖堂ができあがって廃墟となった天主堂と並んでいる。仮聖堂ができたのは1946年であり、被爆から1年以上が経過しているものの旧天主堂の遺構にはあまり手がつけられていないことがわる。転機となるのは1949年に開催されたフランシスコ・ザビエル渡来400周年の記念行事である。浦上教会の沿革史に「昭和21年から始めたあと片付け作業は、昭和24年のザベリオ祭までに完了した」とあり、写真からもそのことが明らかになっている。

写真15 フランシスコ・ザビエル渡来400周年の記念行事に際して米軍が撮影したもの。遺構は遺物の展示施設となっていた時期があった。

写真16 1950年に浦上天主堂を訪れた米兵の記念写真。南東側の遺壁と考えられる。展示物は石像の頭部、瓦などで、全て原子爆弾により破壊されたもの。

写真17 旧鐘楼は昭和25年に下の川の河川改修により埋設されたと言われており、埋設後の状況を示した写真。側に植えられている木は永井千本桜と呼ばれる桜で、昭和23年から永井隆博士の著書の印税を基に植樹されたもの。

写真18 天主堂内部の礎石の形状を知ることができる。浦上天主堂の旧聖堂の遺壁の撤去及び天主堂の再建は1958年3月に始まった。

写真19 1971年に旧鐘楼が地中から発掘される作業の写真。この時点で鐘楼は左上部分に欠損が認められる。鐘楼の左下部の石垣の立ち上がりを見ると鐘楼は石垣内に収めるために切断された可能性も考えられる。

写真20 発掘中の鐘楼を南側から撮影したもの。この写真から、鐘楼を囲う石垣内部には瓦礫が多く入れられていたことを知ることができる。

  • 第2項「2 浦上天主堂の現況調査」について、浦上天主堂全敷地の地形・地物を計測し、縮尺500分の1で地形図を作成した。旧鐘楼部分については、3次元レーザー計測も行った。また、現況の記録として空中写真を撮影した。被爆前の航空写真を図化する作業も行い、現況の平面図に被爆前の航空写真を重ね合わせ、旧天主堂及び旧鐘楼の想定線を図示した。作成した図を観察すると、天主堂自体は被爆前と被爆後の位置関係に大きな違いは見られず、特徴的な十字形の天主堂が確認できるが、戦後に再建した天主堂は戦前の天主堂より東へ10mほど長くなっている。また、旧鐘楼跡が露出している部分について河川の流路が北へ移動していることが見て取れる。浦上天主堂は被爆後、移転せず現地で再建されているが、北側の旧鐘楼部分を除き天主堂の位置及び敷地の範囲も被爆以前とほぼ同じである。

写真21 被爆直後の旧鐘楼。

図11・12 旧鐘楼については、浦上天主堂旧鐘楼の現況立面図を基に3次元レーザー測量の結果から取得した標高値を用い、旧鐘楼から現在の河床までの簡易的な断面を加筆した新たな現況立面図を作成した後、写真21から旧鐘楼のおおよその寸法を算出し、埋没部分を書き加えた推定立面図を作成した。浦上天主堂旧鐘楼の外枠の寸法を算出すると約6.7m四方の正方形だったと推測される。

写真25・26 比較すると写真の右側、南側の外枠と内部の格子状の梁が1月4日ほど残存していることがわかる。また、格子状の梁が現在の地表面からは上部1月4日のみ確認可能であることも理解できる。旧鐘楼北側の外枠と梁が欠損した理由は写真資料からは推測できないが、被爆時に旧鐘楼が崩落した地点に流れていた川の流路を現在の流れに変更した際に埋められたことがわかっており、その際、流路側の石垣にかかる北側の外枠及び梁を切断した可能性が考えられる。今回作成した旧鐘楼の埋没状況推定図で、鐘楼が川床の高さと数十cmしか変わらない地点まで埋没していることが推定された。

写真27~30 旧鐘楼南側については、現地で旧鐘楼と石垣の接続部分を観察したところ鐘楼を切断した痕跡は確認されなかった。むしろ接続部にセメントを貼り付けたような痕跡が確認されたため、石垣の内部に残存している可能性が高い。

  • 浦上天主堂の石垣のうち長崎市道に面した全長約70m、高さ3~4mの部分については、原爆被爆の前に撮影された写真31と原爆被爆の後に撮影された写真32、現況写真(写真33)を対比することで、この石垣は同一のものであると言える。
  • 第2項「3 浦上天主堂関係者へのヒアリング調査」について「(1) 調査概要」を説明。
  • 「第3項 小括」では以上の旧浦上天主堂の調査から、1現在まで原位置に存在する旧浦上天主堂の遺構は西側石垣のみであること、2鐘楼左上部の欠損は昭和25年の下の川の護岸の改修によるものである可能性があること、3天主堂再建は歴史的経緯を考えると元の位置以外に場所は考えられなかったことを考察した。

【会長】
先ほども委員からご指摘がありましたが、例えば文章の流れの中で少し専門的に入り過ぎているという感じがないわけではないです。詳細になると、あとは構成の問題だろうと思います。例えば、「祝別される」という言葉はキリスト教信者の方だったらご存知だと思いますが、それ以外の人には果たしてどういうことかわかりません。これは別の言葉で一般的な表現にするか、あるいは注意書きを加えるということが必要はないかという気がしました。

それから、時代区分で「江戸時代」と「江戸期」のように「時代」と「期」の両方が使われていますが、整理して使い分けたほうがいいのではないかと思います。

西暦年号と日本年号の記載については、西暦が前にきて日本年号が後にくるというのは全面にわたって守られているという感じがします。

それから、報告記録になりますので、例えば2頁の中ほどの「久松侍従に上呈された長崎市長の言上書」では、市長名をきちんと書き込む。

それから、次の3頁の真ん中下の「再建説明が信愛幼稚園で行われた」というのは信愛幼稚園を知っている人でないと理解できない。こういうものも後で検索や場所確認するためには地番名を書いておくのが良心的です。

とにかく、見る人々があちこちで確認に手間取らないように配慮はしていただきたい。

【委員】
今のお話とも若干通じる指摘が私もありまして、長崎のことを知らないとわからないことが随分とあるかどうかは、あまり詳しくないので読んでもらいながら話をするようなことが必要なのかもしれないと思います。

それから、長崎に対する知識の有無という問題と、それとは別にわかりにくいところがあって、例えば第1章第2節の4項目、6頁の真ん中にある表の「生存」の列で50年9月30日の50年は西暦なのか昭和なのかというところが大変わかりにくい。他にもそういう細かいところはもしかしたらあるのかもしれません。西暦と昭和の区分名とかくらいだったような気がしますが、ちゃんとチェックしないとわかりません。そういう部分が出てこないようにしていただきたいということと、それから時々引用元がわからないというのがあります。「~とされているが」とあってもどこにそのように書かれていのるのかわからない部分はきちんとわかる形にする必要があると思います。そういう細かいところは、これから手を入れていかなければならないだろうと思います。ただ、西暦と昭和とどちらを中心に使うかというのは、混在しているので方針をはっきりさせたほうがいいかもしれません。

もう一つ、ヒアリングのところで対象者の年齢なり生まれた年なりがわからないと、「小学生の時期は」と始められても時期がわからない。これは非常に細かいところですが、そういうところも配慮が必要です。

それから全体的な話として、浦上天主堂についてこれだけきちんとまとめていくというのは大変重要な気がします。と言うのは、広島は原爆ドームを残したが長崎は開発のために壊してしまったという俗説があるのです。そういう話ではないということがこのようにきちんとまとめられて遺跡とともに示されていくということの重要性は、私はあるだろうと思いますので、大変よくまとめてくださったと思います。

ただ、それに加えて、浦上天主堂の保存をめぐる経過についてもう少し資料が公文書の類だとかないのだろうかということを、少し気にしています。もちろん、新聞も非常に重要な資料ですが、もしも公文書があるようであれば言及がほしいと思いますし、事によっては、それはそれとしてまとめておくことが必要なのかなと。ある種の浦上天主堂をめぐる俗説に対して、きちんとした根拠を提示しつつ、今回まとめておくということの重要性を考えると、できれば公文書があってもいいというのが私の思いですが、市の文書などはあまり残っていなかったでしょうか。

【事務局】
浦上教会の保存に関する公文書の件ですが、これまでも各方面からお問い合わせも数多くいただいているなかで、市の議会誌とか議事録の記載は確認できる部分があるのですが、それ以外のいわゆる文書館みたいなところにあるような、いろいろな各委員会での議事録というのは長崎市のほうに確認することはできません。ですから、私どもが今ずっと記載させていただいたり、いろいろな方が出版のためにお調べになっているのは議会誌と議会誌に付随している資料、それからマスコミでの過去の新聞記事が多く、公文書の確認というのは今の段階では難しい状況になっています。

【委員】
ありがとうございます。この手の報告書をどう書くのか作法の問題がわからないところもありますが、公文書がないと言い切るというのは結構怖いことではあるのですが、ただ事によっては、ないと断言するかどうかはともかくとして、非常に資料が限られているということをどこかで言及したほうが、何かさぼっているのではないかといったような疑いを防ぐということもありますので、むしろないようであれば見つかりにくいことを今回言及したほうがいいと思います。

【委員】
被爆写真の分析を結構丁寧にされていると思いますが、それを踏まえてどの部分が残存したのか図面化などをする予定とか、してあるとかというのはありますか。

【事務局】
今の時点では、残った部分がどこかという図解というのは予定しておりませんが、ご指摘を踏まえて、いろいろ検討していきたいと思います。

【委員】
先日の委員会で説明はなかったのですが、旧鐘楼の部分の煉瓦や目地のモルタルの調査結果が報告書で言及されていませんが、今後その辺に触れる予定や、旧鐘楼のドームの大部分は鉄筋コンクリートと思われ今後鉄筋の腐食が懸念されるので、コア抜きはなかなか難しいと思いますが、配筋状況や鉄筋腐食に関わってくる中性化の状況などを微破壊で調査するというのも考えられるので、その辺も併せて検討いただければと思います。

また、目次において、山王神社二の鳥居の節で第2項に過去に行われた調査があり、これは昭和40数年の長崎大学の眞武教授とか、平成に入ってからの補強時の調査だと思いますが、他の遺跡も含めて過去に行われた調査ということで、戦後すぐの戦略爆撃調査団の報告であったり、文部省の学術調査団の報告書等について触れる必要はないのか。戦後すぐの混乱期の限られた状況で調査していて誤認などもあるとは思いますが、被爆写真を現在の私たちが見て分析するのに留まらず、終戦直後に実際のものを直接見て取りまとめた報告書というのも価値があると思いますので、その辺りを取りまとめる必要がないのかどうかも検討いただければと思います。

【事務局】
戦後直後に作られた米国戦略爆撃調査団報告や文部省の報告というのは、公的機関が主体となって調査したものですので、調査の機器や精度が今とは格段に違うことも一定認識しながら、その辺りの挿入も検討していきたいと思います。

【会長】 
いろいろご意見を出していただいておりますが、私からは、まず、全体的にこの浦上天主堂の鐘楼の問題に関わるところでは、先ほど各委員も言われたように、今日私たちの目で見て感じることと、過去においてどう見たかというのは時間的なずれがあると思います。この文章で見ると、例えば鐘楼をなぜあの時きちんと保存しなかったのか、どうして原爆で破壊された教会を解体したのかというような疑問が出てくると思うので、ここに新しい憲法の中で謳いましたところの「宗教的な祭祀が継承される場合においては、いかなるものをもってしてもこれを犯すことができない」と。これが日本の中におけるところの宗教観です。その辺りを書いてやらないと、「何をしようとあの時に、信者の人たちが賛成しなかったものだから」というので、流される恐れがあるというところは、きちんと報告書の中には入れておいてもらいたいと。

それから、先ほど委員が言われましたように、特に資料の根拠となる聞き書きの問題で誰がいつ言っているのか、その方がどのような生い立ちを持っているのか、その人だから初めて言っていることの価値が裏付けで出てくるということですから、できればご本人のご了解を取ってある程度の略歴は入れるべきだと思います。一般的に例えば民俗調査の中でも、80歳の方が言われているからといってその人がその地域に生まれ育ってずっといたのかとか、いかにも何か古い時代のお名前のようであったりすると、何となく信憑性が高いように感じてしまいます。ですから、できれば聞き書きのところはご本人のご了解を得て略歴を載せながら、いつそれを聞き書きしたかきちんと書く形で進めていただけたらと再度お願いします。

【委員】
聞き書きの部分で気になったところがあって、浦上5番崩れが小括で出てきますね。これはまず聞き書きの中に入ってくるのですが、インタビューに応じてくださった方が独自に作ったキーワードをそのまま小括に簡単に使っていいのかということを考えてみたほうがいいかもしれません。もし、小括で使うのであれば、それは単なる引用ではなく我々もそのような認識をかなり忠実に追認するという宣言になるので、例えば「信者にとっては浦上5番崩れとも言える状況であった」というように書くか、あるいは「聞き書きの中で言及があった浦上5番崩れという表現からもうかがえるように」というように書いて、こちらの位置付けを明らかにすれば随分と違ってくるので、その辺りが聞き書きを出したり、あるいは文章と一緒に使うときに難しいところが常にあるので、先ほどご指摘のあった経歴と併せて報告されたほうがいいと思います。

【会長】
ただ今のご指摘のように、例えばこれが明らかに学会の中の用語として定着しているとか、そういうことが認められないものであれば、節回し的に今委員が指摘されたような文言に変えるなどの形でやっていただきたい。

【文化庁調査官】
先ほどの調査原稿の「7 浦上天主堂旧鐘楼」を読ませていただくと、古い鐘楼が落ちたその後に北側に大掛かりな石垣を築く必要があったため、倒壊した天主堂の石を石垣の石材に使用し、同じく倒壊した天主堂の煉瓦片を裏込め材として使用したと言われて、先ほど見せていただいた写真の掘っているところを見ると、明らかに瓦礫を入れているようなのはわかると。それで現在、その石垣が見えるわけですが、その石垣の中に倒壊した天主堂の石だとわかるものはあるのか、あるのであれば何とかいつの石だと確認していただきたいと思いました。つまり、この文言の裏を現状で取れるかどうか浦上教会にお願いして欲しいと思います。

それからもう一つ、鐘楼が川に崩落した後、下の川の流れを変えたという話で、被爆直後の航空写真だと森が暗く写ってもともとの川の流れが見えないということでしたが、先ほどの写真21だとかつての下の川の場所がわかるのではないかと思うのです。今の下の川の流れはもっと下に変わったということですので、どれくらい距離が変わったのか計算などでわかるといいと思いました。

【会長】
ただ今、調査官からご指摘がありましたことについては、まず現物においてそれが確認されるというような形の方法をとってもらいたいということ、もう一つは川の流路の問題で、何となく川の流れまでも変えなければならなかったという、これは背景にあるものは非常に深いものがあるのではないかという気も致しますが。この点については、それ以前の川の流路を確認するということで、例えばあの地域の地籍図か何らか古い図面がないのでしょうか。

【事務局】
現段階で、いろいろ当たった中ではまだ見つかっておりません。

【会長】
そうですか。これは文化財課の調査等において、その辺りの図面はないですか。例えば、明治期以降の中で旧地形を出したり。

【事務局】
文化財課ではそのような調査を行っておりませんので、把握はしておりません。

【会長】
そうでしたら、今日いらっしゃるご関係の皆様において、今後、その点について注目していただきたいということでお願いという形にさせていただきたいと思います。

【文化庁調査官】
写真21では、崖の下に下の川があるということですから、これと同じような写真を今撮れればどれくらい崖に寄っていたか少しはわかるのではないかということでありまして、より正確にわかればいいのですが、この写真からでも推測で何mくらい北に行ったということがわかるのではないかと。

【会長】
何とか写真等いろいろな資料によって、できれば旧河川を再現するという形の方法をとっていっていただければという気がいたします。ありがとうございます。

他に何かございませんか。ないようでしたら、ここでまた改めて調査官に本日のことにつきましてのコメントをお願いいたします。

【文化庁調査官】
今日、調査報告の原稿についていろいろとご審議いただきましたので、ぜひそれに基づいて事務局のほうで修正いただきたいと思っております。

今日の調査報告を拝読しますと、何となくもやもやしていたものが今日少し解けたような気がしておりまして、先ほどの例えばレーザースキャナーを使って復元した図面を拝見しますと、落ちている鐘楼の今の位置が恐らく写真25の位置とほとんど変わらない状況であるということが図で示されたということで、上から見ますとどれくらい下に鐘楼ドームがいっているのか想像がつかなかったのですが、図面11で川の近くまで、川底から数十センチメートルでしょうか、に落ちているということがよくわかったので、貴重な成果だったのではないかと思っています。このような成果を少しずつ積み重ねていっていただいて、原爆の悲惨さというか重要な遺跡であるということを示していっていただきたいと思っております。

他の4つ遺跡も重要な成果が出ると思っております。またこれからの調査を委員会の先生方、それから事務局の皆さんでやっていこうと思いますので、よろしくお願いします。

【会長】
どうも、ありがとうございました。貴重なご意見を賜りまして感謝いたしております。次に、事務局から何かございましたらお願いします。

〔今後の会議の開催について協議した結果、11月及び12月に各1回開催することに決定した。〕

【委員】
委員は調査報告の原稿は事前に相当読み込んでから出席したほうがいいという感じがしますので、特に今回はさほど量が多くなかったので飛行機の中である程度読むくらいでできましたが、次回以降は時間をかけて一回目を通した上で会議をしなければならないという気がします。それはスケジュール調整の過程で少し考慮していただければと思います。

【会長】
ありがとうございます。非常に内容的な問題もありますので、事前に送付できるものであれば私もそうしていただきたいと思っておりますので、事務局は大変でしょうけどもそういう形で進んでいただければと思います。

それでは、これをもちまして第5回長崎原爆遺跡調査検討委員会を閉会いたします。

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