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平成27年度第2回国指定史跡長崎台場跡四郎ヶ島台場跡保存・整備委員会

更新日:2015年11月27日 ページID:027797

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

文化観光部文化財課

会議名

平成27年度第2回 国指定史跡長崎台場跡四郎ヶ島台場跡保存・整備委員会

日時

平成27年10月30日(金曜日) 10時00分~13時00分

場所

国指定史跡長崎台場跡四郎ヶ島台場跡
神の島3丁目公民館

議題

1 女神台場跡の保護の取り組みについて
2 「史跡長崎台場跡四郎ヶ島台場跡」を取り巻く環境と課題について
3 四郎ヶ島台場跡を構成する諸要素の整理について
4 その他(次回日程調整)

審議結果

1 女神台場跡の保護の取り組みについて

【A委員】
事務局から、予定していた議事より先に報告したい事項があると聞いているが。 

【事務局】 
第1回の委員会で「長崎台場跡の現状」を説明したが、そのとき長崎台場跡のなかで新しく存在が見つかったものがあるとご報告した。それが今回ご説明する女神台場跡のことである。

そのときは簡単な報告だったので、もう少し詳細に説明したいと思っており、女神台場跡について、長崎台場跡全体という観点から委員のご意見、お考えをお伺いしたい。

女神台場跡は魚見岳台場跡のすぐ近く、現在は女神大橋の上手側にある。周知の埋蔵文化財包蔵地としては既に知られていたが、実際に遺構が存在するかどうか、あまり明らかでなかった。現在所有者は国有地(財務省)だが、財務省から「特に支障がなければ売却する予定である」と言われ、遺構が当地にあるかどうか確認調査を行った。

結果としては、絵図と対照すると、女神台場のうち海辺にある「古台場」、それから絵図の右手側にある「新台場」は現在、消滅していた。しかし、絵図に青点線で囲んだ部分、山上の方に上っていく道と「御石蔵」の部分が見つかった。

そして石蔵は、魚見岳のように完全には残っていなかったが、石材が散乱していて、もしかしたら組み上がればもう少しきちんとした形になるかもしれない。それから石蔵の基台と手前の道遺構が良好な状況で残っていた。

こうしたことから、平成27年3月21日に文化庁記念物課史跡部門 山下調査官の現地来訪を得た。所見を得ており、石蔵は天井部が失われているものの、周辺に散乱した部材を含め、残存状況も比較的良好である。とくに、長崎台場跡には御石蔵が確認できているものが少ないなか、存在を確認できているのは歴史資料的価値が高い。それから、御石蔵の周囲には排水溝跡など、既に国史跡指定を受けている魚見岳台場跡、四郎ヶ島台場跡には見られない遺構も存在するということ。年代的に、女神台場跡は新台場なので、魚見岳台場、四郎ヶ島台場よりももう少しだけ遡る台場である、という点でも評価できる遺跡だと考えられる。最後に、当地には「女神検疫所」という施設が明治12年に造られており、その遺構が一部残っている。四郎ヶ島台場跡のように、江戸時代の要塞から陸軍省の要塞地帯に、「要塞から要塞に」変化したわけではないが、病院施設に変遷したというかたちでの歴史というのも包蔵しているという見方をいただいた。

調査結果を経て、文化財当局としてこれらの遺構が貴重であるという考えがないと、財務省としては予定通り処分する、という話を受けているので、長崎市として回答しないといけないが、「国指定史跡長崎台場跡魚見岳台場跡保存管理計画」を平成22年度に作ったときに、基本方針を立てている。

1つは「保存管理計画の基本方針」、もう1つは「調査と追加指定の方針」としている。この「保存管理計画の基本方針」には、「2.史跡の調査 ア.」という部分に「史跡の調査は計画的に推進し、追加指定の取り組みや公有化に努める」ということを書いている。その下には「・長崎港における台場の全体像を公開し、台場群全体の史跡指定化の推進に努める。」とある。次に「調査と追加指定の方針」の「3.長崎台場跡の顕在化と全体の指定推進」で、長崎台場跡全体の中で残っているものをきちんと確認する、そしてその中で良いものは文化財指定に向けた取り組みを行うということを示している。また、「遺構保存の緊急性を診断し、地権者の同意が得られるものから調査および指定に向けた取り組みを行う。」とある。

財務省も、何が何でも処分するというのではなく、本当に大事なものであるならば「大事である」というアクションを起こしてほしいと言っている。長崎台場跡全体の保護の観点から、保存管理計画に沿った方針で動くのが適当ではないかと考えており、今回、当委員会が開催されているこの機会に、委員の皆さまからご意見をいただきたいと考え、四郎ヶ島台場跡の議事の前に説明を行った。 

【A委員】
事務局からの説明は、女神台場跡の現状という部分と、今後についてという2つの部分にわけられると思うが、まずは現状について、委員から質問等はないか。 

【D委員】
よくこれだけ遺跡が残っていたと思うし、御石蔵が残っているのも貴重だと思う。

資料写真の石垣を見た場合、自然崩壊だとここまで徹底的に根石まで崩壊することはなく、石垣の真ん中だけは斜面が残っている。自然崩壊ならばここまで影響しておかしくないのに、ここは残っている。そしてまた、この右側は崩れている。ということは、これは人為的な破壊の可能性の方が高いのではないか。歴史上は文化5年(1808)に築造されたとあり、検疫所は明治12年(1879)に建設されたとあるので、この間になされた行為であると推定したい。そうなると明治の初段階、一番あるのは明治6年(1873)の廃城令が出てくるので、その際に城郭施設、こうした軍事施設の破却とともになされたのではないか。

そうすると、まず台場の築造、そして破却、そして検疫所の建設、このように歴史を捉えるべきだと思う。 

【B委員】
史跡の価値については文化庁調査官の通りで、大変価値のある遺構だと思う。とくに気になるのは、石蔵内の三和土の状況が分かるということ。魚見岳台場の保存管理計画書のときに史料を翻刻したが、そのときにもやはり、石蔵内に三和土を施したと推測される記述があり、それが魚見岳台場跡には残っていなくて、女神台場跡には残っているという、そういう側面からも貴重ではないかと思う。

長崎台場跡全体的に、保存管理計画の方針に沿って、ぜひ保存していきたい、そういう遺構だと思う。

【C委員】
写真での観察だが、遺構の石材は現地の石ではない気がする。神ノ島・香焼辺りの砂岩系統の石を持って来たのではないか。ノミ痕や割れ方が長崎火山岩類とは違う気がする。

あと、樹木を早く伐採できないか。根がかなり入って、遺構の石材間の隙間をどんどん広げていくのではないか。石垣部分だけでも早く伐採すると良いと思う。 

【A委員】
早急にはいかないと思うが、一度機会があれば、現場が見れるようになればと思う。

あとは、次の問題。この遺跡が貴重であることは委員のご指摘で分かったし、今後については、事務局から説明があった通り国有地であり、譲渡する、売却するという予定がでてきているということで、事務局が折衝したところでは、「重要である」という結果が出れば、別に売却しなくて良い、という話のようである。そういう理解でよいか。 

【事務局】
国史跡などの文化財指定の動きがあれば、売却しないという考えである。 

【A委員】
史跡指定へ、という考えについては、長崎台場跡魚見岳台場跡の保存管理計画策定時に、長崎台場跡の史跡指定を増やしていくという方針を出している。

そして、いま委員の皆さまから意見が出たように、遺跡の価値は十分であると。

国の調査官も同様に価値があると言っているということだから、これは、事務局に手続きを取ってもらって、国に指定の話をしてもらうということでどうか。

【各委員】
異議なし。 

【下川委員長】
では、この件については、事務局は引き続き、指定に向けてよろしくお願いしたい。

2 「史跡長崎台場跡四郎ヶ島台場跡」を取り巻く環境と課題について

【事務局】
【資料2】をご覧いただきたい。53頁から65頁までの部分に、現地の写真や説明を付けているが、現地の所感は委員の先生方ですでに抱いていらっしゃると思われるため、重複するところは説明を省く。後で先生方にご意見いただき、そのつど回答したい。

ただ、石垣に関しては外石垣が危なくて、本資料のアングルで現地に入れなかったので、62頁・63頁の写真で、外石垣が現状こうなっていると説明を補足させていただきたい。【資料1】に平成21年度に作成した石垣の立面図があるが、そこから現在、石垣に変状があり、崩落がやや進行している。石垣測量した平成21年度から5年以上経っており、問題が更に生じてきている。

つぎに、【資料2】の66頁に「通行可能経路図」というタイトルの図面について。台場に向かう道が、本来は赤と青の部分で台場内を移動していたのに、現在「通行可能な状態」と明言できるのは赤の部分止まりであり、青の部分については、今日委員の先生方にご覧いただいた通り、ブッシュや石の崩落のために「通行が困難」な状況である。それから黄色の部分は、もともと通路ではないが、その後の時間の経過の中で通れるようになってしまった、という新たにできた道である。望ましいのは、おそらくは史跡当初の通り方ができると良いはずだが、導線の関係にも自然の経年劣化が影響していると言える。

大きく分けると、植物が生い茂っていること、それから石垣等遺構の崩れがあること。それらの障害の結果、経路自体にも影響を及ぼしている、という状況である。

67頁からは、自然的環境調査ということで、植物と地形・地質を中心にまとめている。植生に関しては、台場には当時樹木が生い茂っているということはなくて、史跡現地の大部分は二次林だということである。地形・地質に関しては「香焼層」に属している。69頁の地質図の右手側をご覧いただくと、香焼層が分布している範囲は長崎市香焼地区、それから近くでは中ノ島のほか、神ノ島台場があった場所の西手側である。石垣修理の時の石材確保ののとき、同質の石材を採取しようとすれば、その辺りの分布圏が一番近いということになる。

それから、景観という部分は70頁から、現状、外部から四郎ヶ島台場跡はどのように見えているか、四郎ヶ島の周囲からみた写真と図面を付けている。四郎ヶ島の島嶼部分は眺めることはできるけれど、台場としての四郎ヶ島はよく見ないと分からない。

72頁からは、社会的環境調査ということで、人口、交通、土地利用と法令、観光、など。人口面では長崎市はやや減少傾向、神ノ島地区でも減少傾向にある。

交通面では、本日委員の先生方にはJR長﨑駅からタクシー移動していただいたが、公共交通機関ではバスで長崎駅から神ノ島町3丁目まで移動できる。現地調査で道路残地の市有地が史跡周辺にあると説明したが、バス停が現地にある。ただ、バスもそう何本もあるわけではないので、そういう背景からは現地で来るのにはやはり車が多い、という所感である。逆に、車の場合、女神大橋などを活用すると、神ノ島町3丁目にも非常に来やすいという状況である。

視点を変えて、海からのアクセスでは、長崎港から港外に船で向かえば、確かに神ノ島、四郎ヶ島まで出てこれるが、直接四郎ヶ島に接岸するというのはなかなか考えられない。立地面から考えて四郎ヶ島が浅瀬であるとか、周囲で漁業をされているとか、そういう条件も着岸については考えなくてはならない。

土地利用と法令に関しては、長崎台場跡四郎ヶ島台場跡は都市公園「神の島公園」のなかに存在し、港湾漁港区域に含まれる。基本的に、何か「してはいけない」という制限はないが、汚損したり漁業に悪いことをしないようにということである。

あとは「課題の整理」ということで課題点が列記しており、これに対しては、現地をご覧になった委員の先生方から所感を言っていただくのが良いかと思う。現段階のデータとして、これだけ用意しました、ということで説明を終わりたい。

【A委員】
今日見た史跡の現状を、委員の先生方の目でどう感じたか感想を踏まえたところで、今後どうすれば良いのか、問題点がありましたらご意見をいただきたい。

【D委員】
第4章の第2節・第3節に「自然的環境調査」「社会的環境調査」があるが、全体を踏まえての記述内容なら、もう少し前の章で説明して良い。4章(「史跡長崎台場跡四郎ヶ島台場跡」を取り巻く環境と課題)では、完全に四郎ヶ島台場跡のことに絞って、現状と課題をまとめた方が良い。自然的環境調査なんかは、市や地区の全体的な環境が出てくるので、それは前の段階で説明するのが一般的ではないか。

本文の問題に移ると、全体的に一般の人にもわかりやすい表現に努めてもらいたい。53頁に「保存状況調査」というのがあって、図が載っているが、それから後にまた突然に、ポツンと「石垣」から説明が始まる。それよりもまず、主な遺構の配置図があって、それから石垣等に進むのがわかりやすいかと。

いきなり個別の遺構の説明に進むのではなく、全体の遺構がこう、そのなかで石垣がこう、という説明の流れで入ったらどうか。

それから、56頁から以下に図面等があるが、トレンチの風景も、遺跡の破壊状況も、遺構も、全部同じ表記で写真が挿入されているので、それはやはり変えた方が良い。トレンチはトレンチで、遺構は遺構でというかたちでまとめた表記をした方がわかりやすい。58頁以降も同様。

用語については、58頁の20.番、「隅角石」「隅角」という表記があるが、秀吉以来「出隅」「入隅」という表記で使われており、それにした方が一般の方々にもわかりやすい。

感想を言うと、従来の伝統技術としての石垣構築とともに、大砲を導入した幕末期独自のありようのなかで、石垣の特徴を捉えるべきだと思う。現地で時々述べたように、カーブしているとか、隅の造り方が違うとか、角や稜線の造り方とかそういう特徴があるので、そこの表現もされた方が良い。

【A委員】 
歴史的用語については決まったものを使用するように。

また、現地調査で指導のあった、石の積み方など特徴あるところについては、写真を撮って掲載するなどして計画書を作成していくように。ボリューム的に遺構の全部は載せられないから、代表的なものを注意しながら。 

【B委員】
たぶん残り期間が短いので、計画書作成に大変な思いをされているのだろうなと思うが、D委員と同感である。

石垣の問題については専門の方がいらっしゃるので、それ以外のことを言うと、やはりこれは台場、砲台なので、砲台としての機能の問題を市民の方にもわかるように説明できると良い。この台場がどういう意味を持っているかを分かりやすく表現できるようにと感じた。

関連して、計画書案を読んでみて、今後もう少し詰めてほしいことがいくつかある。1つは27頁に、いま仮に四郎ヶ島の「上ノ段」「下ノ段」というかたちで表現しているが、この呼び方で良いかどうか。当時の表現も必ずしも統一されていないかもしれないが、佐賀藩の資料などを見ると、四郎ヶ島の「山上砲台」という言い方をよくしており、「山上砲台中ノ段」「下ノ段」という区別をしているものもある。つまり計画書案中に四郎ヶ島「上ノ段」と書いている所が「山上」と呼んでいた所で、「下ノ段」と書いている所が「中ノ段」、小島との連結部分の一番低い所を「下ノ段」と呼んでいた可能性もあり、この表記を確認する必要があるかもしれない。

それから、32頁に砲架、大砲をどのような形で据えつけていたのかという問題。単純に言えば、ロルパールドなのかキスト・アホイトなのかという問題がまだ解決されていないと計画書案に書かれているが、佐賀藩の資料を見ると、本島(藤太夫)の『松乃落葉』の中にも「今回ロルパールドでいくんだ」とはっきり書いている。キスト・アホイトも、大砲の試射において佐賀藩では使っており、技術的にはキスト・アホイトの採用も可能ではあったと思う。しかし、少なくとも四郎ヶ島台場においては、ロルパールドでいくと決定して採用したようであり、その辺りも資料で確認したほうが良いのかなと。

関連して言うと、43頁の神ノ島の絵図には2種類ある。図29の方が現状とほぼ近いものであり、上2つが設計段階、このように2種類ある。佐賀藩の資料を見ると、当初の段階では四郎ヶ島台場は5角形の砲台として造ると、はっきり書いてあるので、おそらく上の図に近いものが当初想定されていた、四郎ヶ島台場の設計段階のものかなと、今のところ私は考えている。

また、設計段階と推定する図を見ると平面部分が非常に狭い。おそらく、これでは平面部分が足りないということがあって、広げなくてはならない。とくに大型の150ポンド・80ポンド砲を据え付けることにする関係で、平面部分を拡大する必要があり、今のような形に変更されたのかなと。

さらには、突端部分の、今「下の段」となっているところも拡張されているので、その拡張も含めて設計変更されて、当初5角形の砲台として考えていたものが変更されてきたのかなという風に考えており、その辺の確認も少ししていただいた方が良いのかもしれない。

【C委員】
長崎市としては、この台場跡をどのように今後活用していくのか。石垣が崩壊、崩落しているので、それをまた食い止めて組み直して復元するというかたちにもっていくのか。あるいは今、軍艦島みたいに観光地化を進めていくのか。あるいは社会教育の場として、子供たちの社会見学の場として、駐車場も含めて活用していくのか。どういう方針をされているのか、少し気になる。

石材としては、これはすごく良いものを使っている、よく100年経っても壊れなかったなという気持ち。今日見た分では一部、長崎火山岩類の凝灰角礫岩が井戸跡に使われていたので、この石材だけはどこからか運んできたなという気がした。

【A委員】
いま、委員からいろいろな意見が出たが、一番は、事務局が作った計画書のなかの「課題の整理」、そこにかかってきている。事務局からその説明はあるか。

【事務局】
課題の部分は、史跡の各要素に分割して説明したが、まとめ方が良くなかったと思う。「この場所はここが良くない、あそこが良くない」と説明してしまっているが、植物の侵食が著しいということと、砂岩であることから石垣石材の傷みが非常に起こっているという2つにまとまる。

それに伴って、79頁に(6)史跡の利用というところがあるが、そのうちの「イ.」と「ウ.」のように、危なくなった状態にあるから安全に見学することができない。そういうことがあるから、「こんなにすごい史跡です」と言いながら、うまく案内することが難しい状況にある。そのため、本当は人を呼びたいが、あまり軽々に呼びかけても見学が難しい。

あと、遺構の全体像をぼやかしてしまっているので、説明版や案内板を効果的に取りつけられていない。現在存在しないという状態である。これらが一番すぐに思いつく、大きな課題だと思う。

それから、「ア.」の部分に出ているが、「四郎ヶ島に来たい」といったときに、どういう風に来てもらうかということが課題である。

もう少しだけ補足すると、漂着物もある。海が周りにあり、そうした汚損がある。これには、釣り客の方たちが残していくものもあるので、注意喚起も必要なのかなと。

大きく言うと、史跡の課題としては、そういうものがあると思う。

【A委員】
釣り人の方たちが遺構を壊して、通行されると困ってしまう。史跡として残すべきものは残しながら、釣り人たちも通れるように通路を設定する。そういうことを早めにとりかかる必要があるのではないかという気もする。

そういう例としては、曲崎古墳群もそうだった。あれは国の史跡で、史跡部分を通っていかないと魚釣りができない。だから、あれは通路を造った。そういうことをしないと、せっかく遺構の保存整備に頑張ってみても荒れてしまうという問題がある。

それから、井戸だけ違う、凝灰岩を使っている。こういうことに触れないといけない。

併せて、報告が出ているが、石切り場の調査が出てきたので、この成果も出していただきたい。ほかの台場跡との比較などもできると良いなと思うので。

もう一つ、47頁にある、この点線の意味は?

【事務局】
47頁の図にあるトレンチからは石材がいっぱい出土したが、当地点は、小島と四郎ヶ島とを埋立てた地点に相当する。出土石材は、48頁の写真にも見られるように、基本的には加工していない石だと思う。貝殻が付着しているものも含まれる。

結論的には、これが小島と四郎ヶ島を埋め立てたときに石材を顛圧した跡だと考えている。そして、この単位として、青い点線でマス目を書いている。

44頁の「(2)発掘調査」の「イ」に、嘉永4年(1851)の11月31日に「込石方」という記述を紹介しており、「込石」というのは「裏込石」とか、中に石を詰め込むという意味と考えている。その単位が1間=6尺から6尺5寸に変える、という件が文献にあって、出土状況から確認して、6尺1間のときに埋めた単位としてマス目を表示した。

【C委員】
79頁の「(3)地形・地質」で、「砂岩は、加工しやすい反面、もろく崩れやすい特徴があり、」という文章が気になる。あまり、もろく崩れやすい特徴があるとは思わない。100年経って、あの砂岩がまだ崩壊しないでしっかり残っているというのは、もろいとは思わない。ほかの岩石の方が、変成岩や花崗岩の方が弱いのではないか。砂粒をつくっている粒子と粒子の間がSiO2、ガラスと同じようなもので接着しており、かなり強いと思う。表面の一部がザラッととれる場合はあるとは思うが、内部はかなりしっかりしており、文章の表現を「砂岩は加工しやすい」というようにした方が良い。

【A委員】
先ほどの歴史用語と一緒。専門的な見方での用法というのがあるから、もう一度、事務局の方でチェックした方が良い。

ほかにいろいろお気づきの点は、次回でもあるかもしれないので、ここで、時間の制約もあるから、「構成する要素」について、事務局から報告してほしい。

3 四郎ヶ島台場跡を構成する諸要素の整理について

【事務局】
時間もおしている関係もあり、諸要素の整理に関しては「史跡の本質的価値」も含めて、次回に話をもっと詰められたらと思っている。今回は史跡内の要素として書き出した。今後は史跡外の、「史跡指定地に追加すべき」とか「活用面で役立てられそうな所がある」とか、そういった話をしていきたい。

次回にもご議論いただくので、ここで決を採るつもりはないが、一応、要素として漏れがないか、現段階で教えていただければ。

【B委員】
委員から何かご指摘はないか。
あるいは、今ではなくても、次回までのどれくらい前に事務局に指摘できる、というリミットはあるか。

【事務局】 
次回委員会でも同じ章を検討するので、リミットなどはとくに設けない。

【D委員】
第4章の53頁のところから現状と課題について記述しているが、第1節のところは「現状」と理解してよいか。

【事務局】
はい。

【D委員】 
そうすると、78頁のところから第4節の「課題の整理」とあるが、これは「課題」というよりも「現状の整理」だと思う。現状がこういう風になっていると。どういうところに課題があるか、もう少しまとめてもらいたい。次に整備に至るまでに、こういう課題がなってくるともう少し記載があれば、構成としては良いのではないかと思った。

【A委員】
今、ご指摘があったように、ある程度、史跡の保存活用計画として、共通した形での章立てと節のつくり方を整理すべき点はあると思う。基本的なものをどういう順序でやるかということと、章の中で特別に取り上げるべきところ、問題点とか特徴とか。そういう風にやっていった方が、計画書も利用しやすい気がする。

全体的に、中身はすごくよく調べられていると思う。あとは、順序の出し方と、見たときに、「プラスの点マイナスの点」を一緒にして記述して、構成に一貫性がないと非常に理解しにくいので、一つプラスの部分があると、「それが史跡の特徴ですよ」という感じで出してやれば、それが一番良いと思うが。

それでは、先生方、事務局の方で急ぎじゃないようなので、次回の会議のなかで出していただくということで。

あとは、県からも地元からもお越しなので、何かあれば発言をお願いしたい。

【県学芸文化課】 
四郎ヶ島台場の内側に神ノ島があり、四郎ヶ島台場築造前は、まだ繋がっていなかった。それが四郎ヶ島台場によって神ノ島と繋がった。これにはどういう理由があったのだろうか。 神ノ島自体も当時は島だったが、それに敢えて四郎ヶ島を繋げる理由があったのかなと思いました。

【B委員】
四郎ヶ島と小島を繋げただけでは機能しないからではないか。兵員の詰所の問題や、弾薬の問題もあるかもしれないし、応援部隊が駆け付けるとかもあるだろう。やはり、大きな神ノ島の方に拠点があって、そこと繋がってないと戦闘中に船で往復するのは難しい。

【地元関係者A】
そこに「侍屋敷」があったからではないか。

【A委員】
地図で見ると、埋め立てられてはいるが、神ノ島の地割は現代の地図にも対応する可能性がある。その辺りのことは、事務局で押さえてみてほしい。当時の海岸線が現在の地図に出てくるのではないか。

【B委員】
佐賀台場の中核が四郎ヶ島台場である。神ノ島・伊王島・沖ノ島含めて、一番大きな大砲を置いているし、ここが拠点。神ノ島・四郎ヶ島の埋立て連結に一番お金も時間も使っている。船の往復で済むなら埋立てないので、やはり繋げないと、機能しないことがあった。四郎ヶ島に兵員を常駐させるというのは、なかなか難しいだろう。

【A委員】
それから、この指定自体が、陸地だけでなく海を含めての指定範囲となっており、付随する問題も今後いろいろなかたちで出てくるかもしれない。差し迫ったところで、そういった問題はないか。例えば、港湾で整備事業をやるとか。そういうものはないか。

【県港湾漁港事務所】
今のところ事業の予定はないが、もしそういった場合は情報共有しながら進めると思う。

【A委員】
あとは、史跡整備をするときに余計な樹叢の伐採等をやって、土砂が海に流入しないようにするとか、そういう問題はある。記念物の保護を行って、泥水が海に入って漁に直接影響が出た例がある。

やがて整備事業になると、どこでもそういう植物の問題があって、魚見岳台場跡の時も話に出した。今後そういうことも出てくるかもしれないし、触れておいてもらえれば。

それでは、「3. 四郎ヶ島台場跡を構成する諸要素の整理について」は、次回以降の会議にかけるということでよろしいか。

【各委員】
(異議なし)

4 その他

【事務局】
第3回委員会のスケジュールについては、11月25日(水曜日)の午後1時30分から、長崎市民会館で予定。

【D委員】
ちょっと、帰ってからチェックさせてほしい。

【下川委員長】 
それでは、一応、第3回委員会は11月25日(水曜日)の午前1時30分から、市民会館でということで、よろしいか。事務局には宿題をいっぱい出したが、よろしくお願いしたい。

【事務局】 
事務局の進行管理のまずさで、大幅に時間が伸びたことをお詫び申し上げる。しかしながら、非常に有益なご意見を賜ったので、このご意見をもとに次回に繋げたい。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

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