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平成27年度第3回長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2015年10月13日 ページID:027655

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成27年度第3回長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成27年5月20日(水曜日)9時00分~11時00分

場所

長崎原爆資料館2階会議室

議題

[報告事項1] 平成26年度調査の実施結果について
[審議事項1] 長崎原爆遺跡について
[報告事項2] 山王神社の調査について
[審議事項2] 山王神社に関する意見具申について

出席者等

⑴ 委 員 桐谷委員、佐々木委員、下川委員(会長)、原山委員、森委員

⑵ 事務局 中村原爆資料館長、松尾被爆継承課長、高江文化財課長、緒方被爆継承課被爆資料係長、
宮下文化財課係長、奥野被爆継承課学芸員、松尾長崎県教育庁学芸文化課文化財保護主事ほか

⑶ 参考人 なし

⑷ オブザーバー 文化庁 佐藤文化財主任調査官、浅野文化財調査官

傍聴人 3人

審議結果

〔報告事項1 平成26年度調査の実施結果について〕

事務局

  • 4遺跡について実施した関係者へのヒアリング調査の概要を説明
  • 旧城山国民学校校舎について実施した資料調査の概要を説明
  • 山王神社について実施した社殿から旧一の鳥居付近までの地形地物の図化並びに二の鳥居及び慰霊碑から採った拓本の概要を説明
  • 旧長崎医科大学について実施した門柱から校舎北端までの区域の図化の概要を説明
  • 浦上天主堂旧鐘楼について実施した旧鐘楼を含む一帯の測量・断面測量及び旧鐘楼の埋設量を踏まえた推定断面図作成の概要を説明

〔審議事項1 長崎原爆遺跡(の価値)について〕

事務局

長崎原爆遺跡について、遺跡の総体としてどのような価値があるか整理した上で、来年1月に意見具申をしたいと考えている。第1回と第2回の本委員会での議論を踏まえ、事務局としては以下の3点が長崎原爆遺跡の総体としての価値と考えている。

1.原爆被爆の痕跡があること

これは原爆遺跡の最も根幹の部分となるが、今後、被爆証言を直接聞けなくなったときに、これらの遺跡がその生々しい傷跡を通しあたかも語りかけてくる。核兵器の持つ非人道性を遺構を通して語り継いでいくことが大切であるという視点から、まずこの点をあげたいと考えている。

2.被爆の痕跡だけでなく、復興のあゆみを見せることができる

長崎原爆遺跡は当初から保存されるべくして保存されたものでなく、解体や移設の議論が度々起こりながら、結果として保存されてきたものが多いということ、心理的にも物理的にも周辺の住民の方々と距離が近いことが特徴的であると考えている。各遺跡は被爆から辿ったあゆみは異なっているが、それぞれ遺跡において過去に起きた悲惨な出来事を思い起こさせ、平和な将来を築くため思いを新たにするという状況を創出している。

3.被爆地ナガサキのシンボルであること

戦後70年が経過しようとしている今、被爆体験がない世代が被爆による悲惨な出来事を語り継ぎ、それに基づく平和希求の思いを継承するため、そのつなぎ役になる存在として今後ますます原爆遺跡の重要性が増してくる。原爆資料館を中心に、それぞれの遺跡を訪ねていただくなかで、核兵器の非人道性を学ぶ一種のフィールドミュージアムのような遺跡群としていきたいと考えている。

委員

過去数回の委員会で個々の物件については十分な調査、十分な議論を尽くしてきたと思います。今回、山王神社の鳥居の問題が出てきましたが、それ以外については多くの意見が出て、委員会としての合意がなされたというふうに思っています。

ただ、語り部の減少をどう捉えていくのか。それから、個々の遺跡とその取り巻く環境をどう捉えていくのかというような問題が恐らく今後出てくるのではないかと思います。

それで、過去の会議で申し上げたように、この原爆資料館を中心にいわゆる目に見えないバリアを張ったような遺構というか、施設というか、そういう形でこの原爆については捉えて、それで長崎市が意図される非人道的な原爆投下というところに結びつけていく必要があると思います。

だから、この4件だけで語ることができない、長崎市民の文化的精神構造を表現するにはもっとほかにも手法があるのではないかという感じは持っているのですが。

会長

ただいまのご指摘は、大きくは語り部が減少してくるということです。こういったことにどのように対処するか、例えば事務局の中で考えがありましたらその辺りを願望でも結構ですが。あるいは、館でそういうものに取り組んだ事例がありましたらお願いします。

事務局

まず、語り部の減少という点について、今の長崎市の取組、それから今後の方向というものをご紹介させていただきます。

被爆者の平均年齢は、昨年の式典の時で79.6歳で恐らく今年は80歳を超えるものと考えております。そうした中で、おっしゃるように語り部の方々がだんだん活動できなくなるお歳になってきております。

私ども長崎市としては、語り部の方たちの活動をどのような形で引き継いでいくのかということについて、語り部のご家族や寄り添って生活してこられた方々を家族証言者として支援する取り組みを行っております。語り部の方たちの体験とか、それから生活の中で活動されてきた思い。それから、将来子どもたち、孫たちに引き継いでいこうとしている考えや思いを、ご家族や関係された方々が講話ができるような形で、私どもが所有しております写真資料であるとかいろいろな原爆に関わる資料、それから講話を行う上で語り部の方たちが直接体験を語るのとは少し世代が変わってきますので、もう少し今できるようなパワーポイントとか映像、音声といったさまざまなツールを使いまして、被爆の継承を図るような取組をやっております。

会長

ただ今事務局からいろいろな方面からの視点で説明がありましたが、これはやがてこの会のまとめの中にもぜひ入れながら活かしていきたいと思っておりますので、委員の皆様のご了解、並びに事務局でそれを踏まえた整理その他等をよろしくお願いいたします。

2番目の環境については、これは一応残した整備事業というかたちでやってきていますので、差し迫ってどうだということはないと思います。ただ、今まで具体的な対象にあがっている以外でもこういうものを入れていくほうがいいのではないかというのは、今後のこの会の進捗の中において出てくるのではないかと思っております。

委員

今回、「長崎の原爆遺跡について」ということで、事務局側から価値付けについて案が3つ出されています。「1.原爆被爆の痕跡があること」の「痕跡」という言い方についてですが、被爆の実相ですとか、原爆がもたらした被害に対しては表現が正しいのかどうか少し考える必要があるのではないかと思います。次に、「2.被爆の痕跡だけでなく、復興のあゆみを見せることができる」についてですが、「復興」に関しては、前回の原山委員のご指摘もありましたけれども、この遺跡でそのまま復興のあゆみを見せることができると言いきれるのかどうかはとても大きな疑問になるだろうと思います。

最後に、「3.被爆地ナガサキのシンボルであること」についてですが、「シンボル」という言葉が適切かどうか考えた時、少し違和感があります。この3点は私たち委員が少し協議しなくてはならないと思いました。

3点の中で、1.が遺跡を残す価値付けとして最も適しているのではないかと思いますので、もう少し1.の部分を深める議論ができればいいのではないかと思いますので、申しあげておきます。

委員

私の専門はコンクリート工学とか構造工学ということになりますので、価値付けの「1.原爆被爆の痕跡があること」に特に関係してくると思いますが、まず第一として昨年度、旧城山国民学校の調査を行いましたが、ほかに旧長崎医科大学門柱で既に説明されている部分はありますが、それが的確な説明の仕方なのかどうかというところで、現状がどうなっているのか詳細な調査がまだ必要ではないかと思われます。

また、今被爆から70年で、それ以前から建造物としてあって結構な年数が経っています。いろいろある被爆の痕跡もその一部が薄れつつあるのも現状ですので、それらについても整理した上で今後どう対策をとっていくのか考えていく必要があると思います。

それから、例えば長崎医科大学の門柱では、周りが住宅街になっていますし周りの地形が変わっていたりということもありますので、それらもしっかり変遷を追った上で爆心地との方向性がどうなのか、被爆当時の状況がどうであったのか、見学に来られた方にわかりやすく伝えるための基礎情報をとった上で、専門の立場の者がわかりやすく正しく伝えるための噛み砕いた説明を考えることも必要になってくるのではないかと思っております。

委員

このペーパーにある「事務局価値づけ(案)」を拝見して少し思ったところですが、(スクエリーンに映された)パワーポイントに書かれている文言と、ペーパーの補足説明がない文言を見比べると、随分と印象が違う感じがするのです。

つまり、「事務局価値づけ(案)」というペーパーのほうにある補足説明のない1.、2.、3.を見ると、もちろん原爆遺跡というのは建築物で「物」なんですけれども、この3行はあくまでも「物」のことを言っている、その域を出ていないというふうに少なくともこの文言からだけだと読めてしまうのです。

それに対して、先ほどの説明内容、あるいは今パワーポイントに出ているこの記述を見ると、単に物とか建造物のことだけではなく、その奥にある人の体験とかいろいろな広がりのようなものを表現されていると考えられるわけです。

そう考えたときに、この価値付けというものが、ペーパーにあるとおりそれぞれ一文ずつで書いてパワーポイントにあるような補足説明を付けない形で行くとすれば、少し舌足らずな印象を持ちます。そこをどう工夫していくのかということになると思います。

前回、ペーパーで「復興」という言葉の持っている非常に多様な意味合いを申し上げたつもりです。「復興」という言葉で我々が連想するさまざまな、単に建物がきれいになっていくとかまちが片付いていく、あるいは都市が発展してくるというようなことにとどまらないその背後にあるものを、何か言葉でうまいこと価値付けの中に入れていく必要があるだろうと考えるわけです。

例えば、「住民の復興へのあゆみ」というふうに「住民」を入れてみるとか。現状では、あまり人がいない価値付けになっているところをもう少し工夫していくというか、言葉を考えていく必要があると思います。

それから、2.で「痕跡」と表現するのか「つめ痕」と表現するのか、あるいは別の表現をするのか。たった2文字ですが表現をもう少し考えてみる必要があると思います。

会長

私は博物館の立場から行きますと、いわゆる構成する屋根のない博物館という形で人と物、それからそれぞれの遺跡が持っているところの場所を有機的に結合させていくという考えを持っているわけです。そういう面では今までのように遺跡だけにとどまらず、例えば体験者の言葉を入れていくとかいうことと、事務局の説明でそれぞれ少しわかってきたことはそういうところは何を一番語ればいいのかというところが出てきたのではないかと思います。例えば、城山小学校のいわゆる教育の問題とか。そして、それが原爆を境としていかにして今日まできたかと。あるいは、浦上天主堂におけるキリスト教信仰の問題とか。山王神社のいわゆる地域の氏神様としての役割も、戦後の復興というので出てきたと思います。このような形がもう少し出てくれば、より具体的になって説得力もあるのではないかと思います。

ゆくゆくはこういうところをつなぎ合わせて、いわゆるサテライト式の方法が一番いいのではないかと私自身は考えております。

そのためにただ一つ少し気になることは、前回会議でもお話しましたが原爆落下中心地の公園をこの中に入れないでいいのかということです。炸裂したのが空であってよくわからないからということでしょうけれども、原爆遺跡としてやるためには落下地を何らかの形であげないといけないのではないかという気がいたしますが、その件についてはいかがですか。

事務局

まず、「痕跡」とか「つめ痕」とか言葉の持つ本来の意味合いを、表面上で見えるもの以外に裏に「人」というもの、人間の体験、人間の生き様というものをどのように表現して適切な言葉にしていったらいいのかというは、今後皆さんのご意見をいただきながら導き出していきたいと考えております。

ただ、会長がおっしゃったサテライト式の展示、巡りができるような形でというような考え方の中で、原爆落下中心地碑、取り巻く原爆遺跡の最も中心になると思いますが、この部分をどのような形で遺跡の中に組み込んでいくのか、または関連するものとして入れていくのかということについては、原爆落下中心地碑を含めて戦後につくられた都市公園全体が現在、国の登録記念物として文化財の取り扱いを受けております。

その中で原爆落下中心地碑の部分、またはその公園全体を同じような捉え方でいくのかというは関係所管課ともいろいろ相談したいと思いますし、確かに長崎原爆落下中心地を起点としてその周りにこのような原爆の被害の痕跡が残っているということを語る上ではより重要なポイントになってきますので、私どももその部分についてはよく考えて然るべき方向を導き出したいと思います。

会長

具体的な問題としまして、今までの事務局説明の中で抜けているもの、足りないもの、早急に加えてほしいものがございましたら、委員の皆様からご指摘をお願いします。

委員

先ほど事務局からも説明がありましたが、私は聞き取り調査で土山先生と朝長先生を担当させていただきました。原爆の遺跡を残すということに関してご意見を頂いたのですが、被爆者でこの地に住んでこられたお二人からすれば、遺跡を見る度に、原爆体験や原爆の悲惨さが目に浮かぶと仰っていました。ですから、ある意味での見せ物のような形で残すのではなく、それを残すことによって一体何を伝えるのかということを確認する必要があると思います。残すことによって、その場で原爆の悲惨さを想像することであり、それが重要であり、遺跡の必要性に繋がってくると述べられていました。

ですから、長崎の被爆の全体の中でこの遺跡4つが残ってきたことの意味と、もちろん、残らなかった多くのものもあるということも伝えることが必要でしょう。そして、4つに対しての被爆者の人たちや地域住民の人たちがそれを見る中で何を思い描くのかといえば、それはまさに原爆の悲惨さであるということです。聞き取り調査ではその点をお二人が仰っていました。遺跡を残すということは、原爆の悲惨さを伝えていくという意味を強く持っている。私は、今回のこの取組みに関わりながら、この点はまさに核心になると考えております。ですから、ここの部分は強調して価値付けに入れていただく必要があるのではないかと思います。

会長

ただいまの委員の発言につきましては、事務局で記録してそれについての検討を行っていただきたいと思います。

委員

今の委員の発言でなるほどと思ったのですが、例えば、原爆遺跡の価値付けのなかで我々はとかく残された私たちにとっての価値ということに注目して言葉を話していたり、ものを考えていくことが多いわけですが、実際に被爆した人たちにとって、そこに現在私たちが遺跡と呼んでいるもの、あるいは呼びつつあるもの、戦後何十年間かずっと見つめてきた被爆者の当事者にとって、その被爆遺跡とは何だったのか。今の話で言えば、それを見るたびにいろいろなことがよみがえってくるという。よく考えてみたら、そういう被爆した構造物を目の前にして被爆当時を思い起こす人が非常にたくさん長崎にいて、しかもそれも何十年間かずっと積み重ねてきたと言ったらおかしいですけれども、そういう歴史がこの地域で続いてきたわけですよね。そちらのほうの、つまり被爆者にとってのいわゆる遺跡の重さのようなことは、確かに汲んでいく必要があるんだろうなと。

それが、もしかしたら「復興」という言葉だけで言い尽くせないものを何か言葉にしていくヒントなのかなと、ひとつの糸口かなと思いました。

委員

原爆遺跡を残す意味というのは、原爆の悲惨さを伝えることにあります。原爆によって多くのものが奪われて、そして人びとは放射線の被害を受けて、それでもなお生きてきた。痛みを抱えながら生きてきた人々の日常の中で、この遺跡が残ったということの意味です。唯一、原爆という核兵器がもたらされた被害を知る都市として、つまり核戦争が起こった都市であり、この遺跡たちは、もの言わぬ証人であるということです。

そして、もう一つ重要な点は、戦争の批判の意味を持っているということです。これは土山先生が何度もおっしゃっていました。これらを遺跡として残すということは戦争の批判のためであり、戦争はもう二度としてはいけないんだ、ましてや核兵器が現在1万6千発、約1万7千発ある、世界の状況です。使用されてしまったら、人類滅亡になってしまう。そういった危機感の中で我々は原爆遺跡を残し、核兵器廃絶を訴えていく。もう二度と同じ体験を人間にもたらせないために。そこは、私が聞き取り調査をしていて被爆者の人びとが一番おっしゃっている点です。以上、再三になりますが、残す意味について申し上げました。この点をやはりしっかりと確認して、その部分を強く発信していく。これが本当に私たち委員会の取り組むべき意義なのだと、私は再度お伝えしたいと思います。

会長

後世に引き継いでいくというかたちのもので、確かに何度も出ますように今、体験談などを聞いてみたときに、本当に生に近くて後からいろいろ加えられていないということであれば、年齢的に見て75歳以上の人でないと無理だと思います。というのは、それ以下の人であれば3歳から5歳までの年齢ですから、伝承という問題で考えるならばかなり事実とその後における判断状況がプラスされてソースは少し変わっているのではないかという気はいたしております。だから今後取らないでいいということではありませんが、その部分をよく理解しながら収集していくべきだという気はします。

だから、一次資料、二次資料、参考資料という形のもので今後原爆資料を、これは体験談だけではなくて、見ていく必要があるのではないかなという気はします。

前回も言いましたように、例えば直接被爆の影響を受けたものと、それによって派生してきたところのこの問題とかいろいろありますよね。やはり、原爆資料といわれるものについての資料分類を早急にいろいろな面でやっていく必要があるのではないかという気はいたしております。

委員

初回会議のときに、もの言わぬ遺跡にものを言わせようという一番最初の姿勢をまず示したと思います。それにのっとって事務局の方は動いてもらって、もの言わぬ遺跡を多角的に見たときにいろいろなデータが出てきました。そのときに、結局年老いた伝承者が亡くなっていかれるから、それに変わるものとして遺跡というものを4点あげられたわけですよね。それはそれなりにきちんと押さえておく必要があるのではないかと思います。

例えば、今、伝承者とか平和とかいろいろ出てきて、そういうものに今、変化が進んでいるわけですが、その部分の本当の議論というのがなされていないと思います。

だから、もの言わない遺跡がものを言ってきた。伝承者に代わるものとしてものを言ってきた。その段階で、残された伝承者の方々のそういう証言と、ものを言わぬ遺跡の証言とをいかに並列して残していくのか。そういう意味では、もう一度当初に戻ってこの4つの遺跡はきちんと押さえておくことが非常に大事なことではないかと思います。

そうすることで初めて今日のような議論が生まれ、問題点が出てくるわけです。平和への積極的な発言という意味で、今この委員会はその切り口をつくっているのではないかと思うのです。だから、この4件は的確に押さえてほしい。それにまた付加価値のある諸々のものを付け加えていくべきだと思います。私は、今いろいろな話が発展していく段階の中でもう一度、一番最初に戻ってみることが必要だと思います。

会長

今まで現場を見たりこの会議をやってくる中で、当初考えたことと実際の今進捗している中でのいわゆるずれは出てきていると思います。そういうのは修正をしないといけないでしょうし、もちろん私もその点については責任を感じております。これは事務局と一緒に今後まとめながら、より事実に近いものを出していきたいと考えています。

〔報告事項2:山王神社の調査について〕

事務局

山王神社については、前回までの委員会で次の論点が示されていた。

一本柱の鳥居は山王神社との関わりを強くパイプとして持つ必要があること、遺構を支えている地域社会の視点を組み込むこと、原子爆弾の破壊の威力を後世に伝える文化財としてその痕跡を記録すること、破壊から復興の歴史を後世に伝える文化財としてそのあゆみを調査すること。

これらの論点を整理するため、次の調査を実施した。

まず、二の鳥居だけでなく参道も含めて山王神社全体に視野を広げていった。そして、測量を行い、遺跡の全体を把握した。また、地域とのつながりを意識した調査として、宮司と地元自治会関係者へのヒアリング調査、現在残っている石造物の記録保存として、三次元測量、航空写真撮影、拓本作成を行っている。

被爆前の歴史的な外観、被爆後の復興から現在に至るまでなどを補強することとして、ヒアリング結果をもとに被爆前から現在にいたるまで同じ場所にある遺構と戦後に設置されたものとを示した図面を作成した。また、新聞記事や各種文献の調査より、現在にいたる一連の経過をより詳しく知ることができた。

<以下、プロジェクターを使って説明>

1.被爆前・被爆後・復興期から現在に至るまでの山王神社の歴史

2.山王神社二の鳥居に関して過去に行われた調査とその内容

資料「片足鳥居に関する調査報告」、資料「片足鳥居に関する調査報告(ⅱ)」

3.最近の調査

平成25年度:二の鳥居詳細測量、三次元計測、空中写真撮影

平成26年度:旧山王神社測量、ヒアリング調査、文献調査、拓本作成

〔審議事項2 山王神社に関する意見具申について〕

事務局

<以下、プロジェクターを使って説明>

史跡の名称:登録記念物と同じ「長崎原爆遺跡(山王神社二の鳥居)」

史跡の範囲:登録記念物と同じ13.33 m2。ただし、中長期的な目標として旧参道も含む山王神社全域の指定を目指す。

価値付け :長崎原爆による被爆の痕跡を著明に残している、人々の生活の中で保存されてきた、被爆前の歴史が特徴的、被爆関連遺構が多いということをあげていきたい。

会長

ただ今事務局より説明がありました意見具申につきまして、名称、それから範囲です。それに価値付けという項目ごとに議論したいと考えます。そこで、委員の皆様、まず名称についていかがでしょうか。ご意見をお願いしたい。名称は先ほど説明がありました「長崎原爆遺跡(山王神社二の鳥居)」ということでよろしゅうございますか。

委員

念のため確認ですが、文化財としての範囲のところで、中長期的には旧参道を含む全域を目指すというこの「全域」というのは、神社の敷地という範囲を指すのか、あるいはもう少しその周辺の今住宅地になっているような部分も含めて考えるのかを教えてください。

事務局

全域の範囲につきましては、山王神社の神社の境内の範囲、こちらには長崎市の天然記念物にもなっております被爆大クス、こういう原爆関連の遺構といいますか記念物、文化財も含まれておりますので、そういうものと一体となった形での範囲ということで山王神社の今の境内までの間を全域というような位置付けと考えています。

会長

そうすると、範囲は、今後の成り行きによって将来的には参道を含んでという形で、そこまで具体的にすぐにはできないけれども考えていきたいということで、事務局の考え方を理解していいですか。

神社自体は、これはもともと村社ですか、郷社ですか。

事務局

村社から県社になっております。

会長

村社が県社に変わったんですね。そうすると、対象とするところは、ゆくゆくは旧村ですよね。旧村の中の氏子あるいはその信者の方と言いましょうか、それらが対象となるんでしょうね。委員の皆様、この名称はいかがでしょうか。

では、後でも続けて検討しましょう。

次に、範囲についてのことがございました。ここまではいかがでしょうか。先ほどの事務局の説明でいきましたら、いわゆる神社として考えたら神域ですね。境内というか、神域というか。その地域のみを考えるということですね。

事務局

はい。

会長

私の個人的な意見ですが、この山王神社の平面図を見ると、浦上街道が走っていますよね。この浦上街道が走ったところにちょうど神社の入口があるわけですね。考えてみると、恐らくもともとはひとつの塞の神だろうと思うのです。いわゆる峠神と一緒で、悪疫退散で地域の中でやっていた祭事が祠化してきたのだろうと思うんですね、元の発祥は。そういうことからすると、地域の住民の方たちの安寧を願う気持ちがかたちに膨れ上がったという特徴は非常におもしろいという気はしておりますけれども。そういうところも加味されてきて、山王神社自体の映像ができ上がればいいなという気はしておりますけれども。

ただ、これを神域以外に広げてと考えると、どこまで入るかということになってしまうと大変なことでしょうね。いかがですか、それは。先ほども言いましたが、神域を広げてしまうと当時の村なり何なりを全部考えなければいけないということになってきますから。そのあたりで、山王神社にはそういうものが残っているという感じの取り扱いでしょうか。

委員

こういう方向でいいのではないでしょうか。

将来的には、鳥居だけではなく、その鳥居が建っている神社の境内までは持っていくべきではないでしょうか。

会長

では、一応提出されましたこの案についてはよろしゅうございますか。一応、名称、それから範囲については事務局が今出されていることについて異議はございませんか。

最後に、価値付けについてご意見を賜りたいと思います。

委員

まず一つ表現の問題で、「山王神社二の鳥居」という名称に対して被爆関連遺構が多いという価値付けの仕方は何か少し表現として妙だなと思います。例えば、これが「山王神社」という名称だったら、山王神社に被爆関連遺構が多いというふうに言っていいと思いますが、「二の鳥居」となると表現としては例えば「神社に」という言葉がいるのではないかと思います。これは表現の問題です。

もうひとつの点が、山王神社の広い範囲にわたって将来的に遺跡として考えていくとなると、恐らくこの遺跡というものへの位置付けの仕方が少し変わるのかなと。例えば、「もの言わぬ遺跡にものを言わせる」という即物的な部分の遺跡の考え方と、もう一方である種の社会に広がるかたちでの遺跡の考え方と、先ほどその両面も含めてもう1回整理が必要なんだとのご指摘が森委員からありましたが、両面ということではないです。もっといろいろな面から指摘が必要なのではないかという指摘がありましたが、恐らく山王神社自体がそういう物としての部分と、もう少し広がりのある部分と、両方を収めざるを得なくなっていくという遺跡になっていきますよね。その時に、今の価値付けでいいのかどうかということの整理が私はまだついていないんですけれども、少なくとも言えることは、全域を含めるということになってくると発想は少し広くとっていく必要があるだろうと。それで、価値付けは一応そのことは意識されているようではある、というところです。

事務局

今ご意見ありました中で、被爆関連遺構が多いということで山王神社のどちらかというと全体に捉えたほうの視点でいけば、名称としては「山王神社」という名称が適切なニュアンスが伝わってくるのかなと。それから、当初の登録範囲としての13.33 m2の部分ということを明確に表していくのであれば、「山王神社二の鳥居」ということで、確かに少しうまく整理がどちらにもバランスがあるような形で感じがおかしいのかもしれません。そこはどちらがより適切な表現になっていくのか、また考えてみたいと思います。

会長

今、事務局から発言がありましたが、確かに今あがってきたこの原爆遺跡の名称につきましては、城山小学校は「被爆校舎」、それから浦上天主堂は「鐘楼」ですよね。そのような形でやってきているから、山王神社は「二の鳥居」という感じで出されてきたんですよね。しかし、今、原山委員もご指摘がありましたし、森委員からも前にありましたけれども、やがて面的に取り上げていくということは必要になってくるかもしれませんね。

ただ、2つの遺跡、城山小学校とそれから浦上天主堂の場合においては、残存するものがほとんどないという。ただし、山王神社の中においては、宮司さんのヒアリングを読ませていただきますと、かなり当時の資料類が現地に埋蔵されている可能性が非常に強いですよね。そうなってくると、私的な提言でございますけれども、ゆくゆくはこの山王神社は、被爆を受ける前、あるいは受けた直後の状態を再現できるようなものを擁してるのではないかという感じがします。これは詳細調査をもう少しやってみないといけないと思いますけれども、それによって復元できるのではないかという。

そうすると、ほかの遺跡につきましては面的に捉えることは非常に難しいところですよね、今までの。だから、こういうところで面的に取り上げてやれば、また違うような視点で後世に伝えることができるのではないかという気もいたします。

だから、ぜひ今回どうだということではないでしょうけれども、その辺は踏まえて今後出されるというかたちで文言の中で触れたらいかがかなという気がいたします。

ほかに何かございませんか。

委員

4つの遺跡をとらえていろいろ議論が展開をしています。戦後70年、長崎が世界に情報を出す非常に重要な活動の一端だと思います。そういう中で、時間が限られていますから何もかもということを事務局に申し上げることはできません。将来的な問題として、一つは被爆者が一番最後にたどりつく場所は、あの当時「浦上川」と「下の川」だと思います。現在、川の流れというのはほとんど変わっていません。しかし、周辺はきれいに整備してあります。僕はそれで構わないと思います。この川の流れが文化財として、将来的に指定されるようなことがありうるのかどうか。それから我々は遺跡にものを言わせているということは、そうやって伝承者の人がどんどんどんどん亡くなっている。高齢化している。このことはテレビや新聞で見ることができます。せっかく今日文化庁から調査官がお見えになっていますので、そういう形とならない川の流れや伝承者の組織、そういう無形の遺産が、付帯的な物件として将来的に対象になり得るのかどうかということを一度聞いておきたいと思います。

調査官

委員からご質問がありましたが、今までの話し合いを聞いておりまして、登録の時のことも含めて申し上げますが、文化庁は原爆に関わる遺跡について、遺跡というのは廃墟になったようなイメージがありますが、文化財保護法では遺跡というのは神社や寺院のような現在活動しているものも含めて遺跡と呼んでいるのですが、そういったものを史跡というのは、我が国の歴史を理解するうえで欠くことができないもので、かつ遺跡の規模、それから遺構や出土遺物等に学術的な価値が高いものというような規定を設けているわけです。それで原爆遺跡がどうなのかということを考えたわけです。それで、城山小学校も残されているものは本当にごく一部であります。浦上天主堂の鐘楼も、本当にごく一部であるので、史跡というよりも、といって価値がないわけではないので、史跡というよりも語り部を中心とされた方々が保存や活用を図られているわけで、方法でいう登録記念物が相応しいのではないかということを考えましてこの4つを登録記念物に登録したのです。ですから、登録と指定というのは制度としては別々なものなのです。それがどうも長崎市の方々がもしかしたら、登録というのは指定のための前段階だと理解されているとすればそれは少し違うのです、訂正していただきたいと思っています。

私は、まず出発点としてどうして登録記念物でなくて指定でなければいけないのかということも含めて考えていただきたいなと。登録記念物になったこと自身すごいことだと思うのです。これでもってさらに被爆の実相というものを伝える平和公園、落下地点も含めて登録記念物になっているわけですから、そういうものを発信していただきたい。さらに語り部の方々の活動をやっていただきたいという位置付けを図ったということです。でも、いやそうは言うけれどもその定義というのは遺跡の規模、それから出土遺物とか遺構とか、そういうものがやはり全国で史跡を訪ねると、名護屋城に行くとこれはやはりすごい遺跡だよねとなるわけです。あんなに広大な遺跡を残しているわけですね。こういうものがこの長崎を訪ねて小学校に行って、これが被爆の非人道性を感じさせるものなのではないかと、あるいはいやそうでないのではないかというような議論をして、そうしてやはり史跡としての位置付けが相応しいのではないかというような提案をしようとされていると思うのです。要するに遺跡の規模と言ってもほかの遺跡とは違うのだと、ないことにある意味価値があるのだというようなことを言えるのかどうか。そういう根本の議論が必要なのではないかと思います。

それで委員からのお話ですが、そういうことを考えると私は長崎の原爆遺跡としてほかに取り上げるべきものがないのかということも、4つを史跡にするということではなくもっと何か豊かな議論というのがあるのではないかと。この委員会のミッションが登録記念物を史跡にするということに何か特化しているのだということで、私は議論自身が、それは先生方に責任があるわけではないのですが、何か矮小化していってはいないか、もっと何か議論すべきことがあるのではないかと思っております。この具申の範囲がどうだとか価値がどうなのかということは、それは意見具申をいただいていいのですが、史跡とかいうのはある意味文化庁の方がこれはこういう価値がありますねということで、ではこれは入るねというようなところがあるので、もちろん検討はいいのですが本当にこの一本の鳥居で我が国の歴史を語れるのかという問題が出てくるわけです。というようなことがありますので、我々も登録記念物を登録するときから検討はしているわけです。どのように文化財の保存と活用を図っていくのかといって、一つの結論は登録記念物がいいだろうということだったのです。さらにそれを今検討しているので、私は市の方に、4つではなくてほかにもあるのではないかということも含めてそれぞれの価値をもっと深めてくれと、根本のどういう痕跡なのかということを深めてほしいと。それでもって史跡として相応しいのかどうかを判断させてくださいということで。何か地元が頑張ると史跡になるということではないので。先程の定義からすればそういう学術的な価値が高いということを議論していただきたいと思っていまして、先程の川の問題なども長崎の被爆の実相を伝えるのに何が必要なのかと、動線としてあるいは面としてどういうものなのだと。だから、登録記念物としてさらに登録すべきものがあるのではないかと私は思っているのです。その中にそういうものを入れ込むことがあるのかないのかというようなことを議論してほしいと。ですから、桐谷委員が最初に言われた、本当に価値があの3つでそれを箇条書きですから、事務局の方では豊富なデータを持っているのかもしれませんが、何か痕跡というか言葉にもっと豊富な事実と言いますか、そういうことが付加されないといけないのかなと。

小学校に行って林重男さんの写真を拝見しましたが、あれだけの写真が残っているのだなと少し驚いたのです。例えば、その林重男さんがどのような順番で土地を歩いて写真に収めて、荼毘の跡をファインダー越しにどのように撮影して、まず遠くから撮って近づいていったのではないかと私は思いますが、そういう事実をもっと深める議論をして、その結果としてやはり史跡が相応しいのか、どうして登録記念物ではいけないのか。先ほど会長がおっしゃった落下地点のようなことも含めて他にも考えていただきたいし、私たちが考える上での材料にさせていただきたいと思っております。

会長

たいへん有意義なご指導をいただきまして、確かに今まで及ばなかったとか或いは目に焼き付かなかった部分というのは、非常に今の説明をいただきまして見えてくるところもあるのではないかという気がいたします。これにつきましては、私たちも当然ではございますし、事務局のほうでも今後今のことを参考にしながら改めて考え直してみたいと思いますけれども、その辺よろしくお願いいたします。

委員が今出されましたことにつきましては、今後このような問題も含めたところでやっていきたいと。だから、以後どうなるかと。掘り起しの問題が出てきますよね。どれだけ広がるかの問題になってしまうと、どこでどのようにやれるかの問題ですよね。例としては、出していいのかどうかわかりませんが私の所属しておりますところの中高等学校は先般、防空壕を埋めて校舎も解体してしまったのです。当然あそこももろに原爆の被害を受けたところなのです。学校敷地の一角には戦前プールがあったのですが、戦後は埋めてしまって一切ないのです。当時の関係者の人によると、あそこで「水を飲みたい、飲みたい」と言ってかなりの人たちが亡くなったからプールは埋めてしまって、以後、学校ではプールはないという話を聞いたことがあるのです。これが事実かどうかわかりませんが、プールが戦前あったことだけは事実です。戦後つくらなかった理由の一つには、近くにプールができたからというのもあるのかもしれませんが。

こういう事例などを入れてもう一度検討する必要もあるのでしょうね。ただ、そうなってきたときにどこまでを対象範囲として考えるかというのは、その辺も一つの目安を作っていかなければならないという気もしますが。将来的により拡大することは必要なのかなという気がしております。

委員

あとの作業日程はどういうようになりますか。

事務局

委員会につきましては、あと7月、9月、11月の3回開催していきたいと考えております。そうした中でまだ議論をもう少し深めたり、調査の進捗を速めて少し議題が追加されるような状況になりましたら、この3回にこだわることなくさらに前倒しで続けていこうと考えております。

会長

もう一つ私から事務局に質問ですが、長崎大学の良順会館の後ろにあるゲストハウスはなぜ今回の原爆遺跡の対象に入らなかったのでしょうか。あれは、被爆した建物ですよね。長崎大学の敷地の中に残っているのはあれくらいだろうと思いますが、何か経緯があるのでしょうか。

事務局

ゲストハウスは、当時は配電室として使われていた建物でしたが、かなり改修が行われて現在は痕跡が見受けられない状況になっております。ただ、なぜあれが被爆建造物としてしっかりした位置付けをしたのかといいますと、長崎旧医科大学はほとんど木造の校舎が多いなか、旧配電室につきましてはコンクリートで堅牢な建物として当時から建てられており、1階建てでしかもコンクリートでしたので長崎医科大学が爆風や衝撃波で倒壊するなか、あの医科大の敷地の中にかなり象徴的に原型を留めていた建物のひとつとして記録写真に残っているのです。しかし、外観の写真しかありませんので内部にどのような被爆の痕跡があったのか、また、その後学校がゲストハウスとした関係で一部建て増しして部屋をつくっていったという経過がありましたので、現在の登録記念物からは外させていただきました。

会長

要するに、建物の構造物の柱とかは残っているのですよね。

事務局

はい、そうです。ちゃんと残っています。

会長

外装は少し変わっているかもしれませんが、柱だけは残っている。あのままの状態でいったら、恐らく長崎大学さんは危険家屋だということで、やがて撤去されるんでしょうね。そういう危険性があるのではないでしょうか。

事務局

そこはよくわからなところですが、現在もゲストハウスとして活用されている状況でありますし建屋が平屋のコンクリートということですので、危険家屋としての取り扱いは今現在されていないものと考えております。

会長

この間、敷地内から出てきた防空壕がありましたね。あれらとあわせて、医学部の門だけではなくてそのへんまでも先ほどのお話からいけば拡大してもう一回検討してみてもいいのではないかという気がいたしますが。

特に、ゲストハウスの横の良順会館との間の土手ですね。あれは、どうもがれき除去した時の山ですよね。あの中に被爆瓦とかがまだ入っていますよね。ああいうところも知らない間になくなると大変ですから。今後、長崎大学のほうにももう一度改めて、教育に支障がない限りにおいてはということで、今後のことを事務局側が考えていただきたいという気がしております。

委員

爆心地の川辺にガラス張りにした発掘調査の断面が展示してありますが、あのような遺構は周辺では何箇所か見られるのですか。

事務局

被爆当時の地層として下の川の護岸工事のときに縦に切り出したというか、断面として見れるようにしておりますが、あの周辺で当時の地層が見れるのはあそこだけです。

委員

平和の像や著名な彫刻・記念物などは現代の作品ですが、登録文化財の対象にはならないのですか。

調査官

登録文化財には、大体50年経ったものが対象になります。

委員

我々が外から見ていると、平和への情報発信のシンボルがあの「平和像」のような感じはするのですが、周辺には遺構らしいものがたくさん残っています。やはり原爆への全体像を表すのに城山小学校や周辺にも多くの遺跡や遺構が残っています。そういう状況から当時の城山小学校とその周辺という全体像を表現するような手法を取る必要があるのかなと思います。だから、今日の議題になりました一本柱の鳥居はもちろんですが、境内というのも全体像を知るための枠としてもそこまで押さえないと、その神社の残された鳥居であるということがわからないと思います。

調査官

私は神社を拝見しましたけれども、今回この鳥居を考える上でそもそもその山王神社というものはどういうものかということを調査された、おのずと作られたということは大きな成果があったと思うのです。それで神社の境内地の管理がどこなのかということも加えて欲しいのですが、そういう調査・研究も踏まえて最終的にどこを指定するのかとか、あるいは登録するのかとかはもう少し先の話だと思うのです。そいうデータが集まったところで、ではどうしようかということが最終で決まるので、登録あるいは指定の具申の価値がこうだとかいうのはもう少し先の話になって、具体的な事実についてこれはどうなのだろうかという議論が必要なのではないかと。結局抽象的なことになりやすいので、一応こういう事実をひとつ使う、使わないというようなことが大切です。

最終的には境内地がいいのかどうかは、相当議論し考えないといけないと思うのです。それこそ被爆の実相を伝えるのにどの範囲がいいのか、そしてその市民と被爆遺跡との環境をどこの何で示すのがいいのか、象徴させた方がいいのか、やはり時間が要るのではないかと思っています。

例えば、先程は小学校の地区と言いましたが、この山王神社に関して言うと二の鳥居の少し下側に灯篭の台座があるのですが、見た感じで間違っているかもしれませんが熱の影響を受けているのではないかと思うのです。とりわけ登って左側、北側になりますか、結局灯篭の上側は倒壊して片付けられていますけれども。そういうことも一つ一つ押さえていって、全体はこうだけれどもしかし現実的に堅実的に何を切り取っていくのが一番いいのか、価値を示すのに最適な判断をということで今回、山王神社でやられたような研究を続けていって頂けたらと思うのです。それは会議を終ってから今後も市の方と打ち合わせをさせていただきたいと思うのですが、新しい事実、そういうのもあるのではないかという気がするのです。

委員

この鳥居は、一本残った柱です。つまり、原爆によって一つ破壊された、ということですよね。我が国は敗戦国ですから被爆後数年間は占領下に置かれて、財源もなく、積極的に残すという意図で残ってきたわけではありません。鳥居の片方の柱が破壊されたにも関わらず、一本だけで残ってきた。70年もの年月を。それだけでも大変に奇跡的な鳥居であるはずです。わが国は、首相が「唯一の被爆国」であると、平和式典をはじめとして公言しています。「被爆国」という意識を本当に持つのであれば、日本の歴史を理解する上で欠かせないものであるとはっきりと言えるはすです。まるで奇跡のように残ってきた原爆遺跡たちの存在をどう位置付けるか。被爆の悲惨さ、もう二度と戦争を起こさせないというところでこの遺跡たちが必要だということをしっかり示していくことが、これから価値を位置付けていく、文化財的な価値があるということを証明していく上で、必要ではないかと思っています。私自身としては、これらの原爆遺跡は、わが国の歴史を理解する上で欠かせないものであると思っております。この点は強く申しておきたいと思います。

会長

ただいま委員から、総合的にこの委員会の中で考えている委員の皆様方の意思の形を総まとめしていただきました。本当にありがとうございました。

今後の作業につきまして、事務局では委員の皆様方の発言、今の桐谷委員のまとめ、こういうものを踏まえて今後の意見具申書作業をすすめて頂きたいと考えております。

会長

よろしいですか。それでは、ここで事務局から最後の締めをお願いします。

事務局

本日は貴重なご意見、ありがとうございました。被爆70年を迎えるにあたって長崎市として今後どう取り組んでいくかという中で、大きな流れとして登録記念物になったり史跡にもっていく中で、これは根本的にどちらがどうという話ではないという文化庁のご意見もありましたが、長崎市としましては、被爆の惨状が非常にわかりやすい形で見た瞬間にわかるものということで今回この一本柱の鳥居が残っている、それから被爆校舎でこれだけのものが残っている、鐘楼も落ちたままの状態ですし、それから門柱の傾き。この辺に関しては見た瞬間に原爆がどんなものだったのか非常にわかりやすいだろうということで、今回できればこれをさらに文化庁のご理解もいただくなかで史跡にしたいと考えております。ただ、今ご意見をいただいたようにこれ以外にないのか非常に大切な議論であって、この4つで全て終ってしまってはいけないと考えております。それ以外にも当然、被爆建造物に関しては長崎市としていろいろ手当てをしております。当然、被爆建造物の中でこの4つしかない、特に原爆のことを知らせる上で非常に大切なものではないかと考えておりますので、できれば被爆70年にこの意思をきちんと示す、また、これに対して文化庁がどのようなお考えを示されるかというのはご指導を仰いでいきたいと思いますが、これは市長にも議会の方にも話をしております。長崎市として、これはこの委員会の設置目的でもあります史跡の指定という方向に向かってぜひ今後も取り組みを続けていきたいということで、残りの委員会もお願いしたいと思います。

会長

これをもちまして、第3回長崎原爆遺跡調査検討委員会を終了いたします。

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