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2007/05/28 故伊藤一長 前長崎市長市民葬市長式辞

更新日:2007年5月28日 ページID:021203

 本日、ここに、多くの市民の皆様、並びに関係各位のご参列を賜り、「故伊藤一長前長崎市長市民葬」を執り行うにあたり、謹んで哀悼の誠を捧げます。
 私たち長崎市民は、伊藤市長の突然のご逝去の報に接した、あの日以来、まだその悲しみから抜け出ることができずにおります。
 「新生長崎市 もっと力強く もっとすてきな花を」のスローガンで、四期目を目指された選挙期間中に行われた、民主主義への冒涜ともいえる、卑劣極まりない暴力行為への怒り。志半ばにして糾弾に倒れられた、伊藤市長の無念さを思うときの心の痛み。そして、長い時間をかけて築き上げてきた、穏やかで、平和なまちの空気を、一瞬で破壊されたことへのもどかしさと憤り。
 ここに、伊藤市長のご冥福を心からお祈り申し上げますとともに、いま、悲しみの涙をぬぐい、伊藤市長のご遺志でもある「すべての市民が、安全に、そして安心して暮らすことができる長崎のまちづくり」に向けて、私たち長崎市民が再び立ち上がる決意を、皆様にお伝えしたいと存じます。
 伊藤前長崎市長は、長崎に原爆が落とされた日からちょうど二週間後の昭和二十年八月二十三日に疎開先の山口県長門市でお生まれになりました。昭和三十九年三月に長崎県立長崎西高等学校を、昭和四十四年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業されました。政治を志されたのは小学校の時であったとお聞きしております。「ふるさと長崎のまちをよくしたい」「市民の役に立ちたい」という誰にも負けない情熱を持って、昭和五十年五月に二十九才で長崎市議会議員に初当選されて、それ以来、市議会議員二期、その後県議会議員三期を務められました。その間議会の要職を歴任され、その手腕を遺憾なく発揮されました。
 さらに、平成七年四月の長崎市長選挙ではそれまでの議員活動で積み重ねられたご活躍ぶりから、多くの方の信望を担って、戦後生まれで初めての長崎市長として見事当選されました。
 市長就任後は、ナンバーワンではなく長崎独自の個性を誇れるまちを目指した「オンリーワンのまちづくり」を基本理念に、市民と力を合わせ二十一世紀に向けて長崎の進む道筋をつくろうと「新世紀ハタあげ宣言」、「人づくり・夢づくり・まちづくり」「平成十八年 長崎市に大きな花を咲かそう」など、市民に分かりやすいキャッチフレーズを掲げ、長崎市政の舵取り役として奔走され、長崎を活力に満ちた、魅力あふれるすばらしい「まち」につくりあげてこられました。
 まさに政治家として三十二年間、「民主主義の原点は地方自治にある」という考えのもと、地方自治一筋に取り組まれ、住民との信頼関係の上に、住民とともに考え、住民とともに行動するまちづくりを実践してこられました、献身的な一生でありました。
 そうした伊藤前市長の、長崎を愛し、長崎のために尽くされたその偉業・遺徳は私たち長崎市民の胸中に深く刻まれ、永遠に消えることなく生き続けることと存じます。
 また、日本非核宣言自治体協議会会長、平和市長会副会長を務められたほか、あらゆる機会に平和都市長崎からの発信に努められ、被爆都市の市長として核兵器廃絶と世界の恒久平和実現を訴え続けてこられました。
 九州市長会会長、全国市長会副会長にも就任され、道州制への道筋を開拓されるなど、地方が抱えている諸問題に対しても、市政運営の域に留まらない幅広い見識をもって取り組んでこられました。
 このようなご功績に対しまして、この度従四位に叙されるとともに、旭日中綬章を受章されたことは、市民にとりましては大変名誉なことであると思っております。
 今、ご遺族のご心中を察する時、お慰めの言葉もございませんが、私どもは、伊藤前市長のこれまでの業績を決してけがすことなく、そして、長崎の発展のために傾けられた情熱をしっかりと引き継ぎ、新しい長崎市のまちづくりに邁進することが、伊藤前市長のご遺志に沿う唯一の道であると信じ、その決意を謹んでご霊前に固くお誓い申し上げます。
 ここに、ご生前のご公徳にあらためて敬意と感謝を捧げますとともに、ご参列の皆様とご一緒に伊藤前市長の安らかなる永久の眠りをお祈り申し上げまして、私の式辞といたします。

 

平成19年5月28日
葬儀委員長 長崎市長 田上富久

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