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高島地域センター旧町の紹介

更新日:2017年10月1日 ページID:002940

旧町の紹介

町のあらまし・歴史

高島地区は、長崎港の南西約14.5キロメートルに浮かぶ高島をはじめ、端島(軍艦島)、中ノ島、飛島の4つの島からなり、有人島は高島だけです。
1948年(昭和23年)に町制を施行し、1955年(昭和30年)には端島と合併しました。町の面積は、4つの島を合わせて、1.34平方キロメートルであり、合併前は、日本で一番小さな町でした。
1185年(文治元年)に平家の落武者が住みついたのが始まりといわれ、その後、1695年(元禄8年)に五平太という人物が石炭を発見。その後、深堀氏の直営となり、1710年(宝永7年)頃から事業化され、高島での炭鉱時代の幕が開きました。
高島炭坑が本格的に稼働を始めたのは、1868年(慶応4年)に、トーマス・グラバー氏が、佐賀藩との合弁により開発をはじめたころからです。グラバーは、深さ144尺6寸(約43メートル)の竪坑を掘り、蒸気機関を用いて石炭を採掘していました。この竪坑は「北渓井坑(ほっけいせいこう)」と呼ばれ、日本で最初の洋式竪坑でした。
その後、高島炭坑は、1881年(明治14年)に三菱社の岩崎彌太郎氏に譲渡され、三菱の経営による操業が始まりました。これ以降、三菱は高島で採掘された石炭で得た利益をもとに、事業を拡大し、隆盛したといわれています。そのため、高島は、三菱発祥の地の1つといわれています。
高島炭坑は、最先端の設備を次々に導入して出炭量を増やし、明治・大正・昭和と、日本の近代化を支えました。1966年(昭和41年)には、年間153万9500トンの最高出炭量を記録。このころには、両島合わせて約22000人が住み、島には高層アパートが建ち並んでいました。特に端島は、面積6.3ヘクタール(63,000平方メートル)ほどの小さな島に、5000人を超える人が生活しており、当時、端島の人口密度は世界一であったといわれています。
その後、エネルギー革命により、燃料の主役は石炭から石油に移り、高島の出炭量も年々減少していきました。ついに1974年(昭和49年)1月に端島が閉山し、同年4月には、端島は無人島となりました。
端島閉山後も、高島炭坑は操業を続けましたが、採掘条件悪化による出炭不振、コスト高に見まわれ1986年(昭和61年)、ついに高島炭坑も閉山に追い込まれました。
炭鉱閉山により、唯一の基幹産業を失った旧高島町は、人口が激減、町の経済は崩壊し、町の存亡の危機を迎えました。そこで、離島の魅力である美しい海を活かした町おこしをはじめました。
1997年(平成9年)7月、飛島磯釣り公園と人工海水浴場がオープン。それまで年間3000人程度であった観光客が、1997年(平成9年)には、約18000人、さらに翌年には40000人を超えました。
2003年(平成15年)4月には、健康づくりを目的とした海水温浴施設いやしの湯がオープン。
2005年(平成17年)には、近隣6町と伴に長崎市に編入合併しました。
2009年(平成21年)「九州・山口の近代化産業遺産群」として位置付けられた端島(軍艦島)は、世界文化遺産暫定リストに掲載されるとともに軍艦島への上陸が可能となったことから、現在では年間10万人を超える観光客が訪れています。
なお「九州・山口の近代化産業遺産群」は2013年(平成25年)には、端島炭坑(軍艦島)と高島炭坑(北渓井坑)を構成資産に含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」として世界文化遺産への推薦が決定され、正式登録の期待が高まるとともに、高島でも世界文化遺産を活用した町づくりの取り組みを進めています。

お問い合わせ先

南総合事務所 高島地域センター 

電話番号:095-896-3110

ファックス番号:095-896-2316

住所:〒851-1315 長崎市高島町1728-1

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