長崎市 > 平和・原爆 > 被爆体験講話 > 被爆者の証言 > English
忘れられない原爆の悲劇 (山脇 佳朗)

 日本が太平洋戦争を始めたのは、私が小学校2年生の時でした。この戦争は私が6年生になってもまだ続いていました。その年の夏休み長崎に原子爆弾が投下されました。

 私は爆心地から2.2㎞の自宅で被爆しました。現在75歳です。ちなみに、今の天皇陛下と同じ歳です。

 最初に当時の家族構成をお話ししておきましょう。父は47歳、三菱電機のエンジニアでした。母は37歳。私たち子供は7人でした。

 つまり、私の兄は14歳で中学3年生。それに双子の私たち、11歳で小学6年生。下に、妹2人、弟2人。合計9人の家族でした。

 被爆当時の朝、私の家では、男ばかり4人が目を覚ましました。母は小さな弟妹4人を連れて田舎の実家へ疎開していたのです。

 朝食を取ると、父はいつものように会社へ行きました。中学生の兄も兵器を作る工場へ手伝いに行きました。(学徒動員です)

 夏休みで家にいた私たち双子の兄弟は、11時直前まで縁側にいました。
腹が減ったので、奥の茶の間に移って食卓についた時、青白い閃光が家中に走り、続いて家を揺るがすような轟音が響きました。

 私たちは、目、耳、鼻を指でふさぎ、畳の上に伏せました。伏せた身体の上に、瓦や壁土などが崩れ落ちてきました。

 庭に直撃弾が落ちて、このまま生き埋めになるのではないかと思いました。しかし、崩れ落ちる状態は、そんなに長くは続きませんでした。

 数分後には、落ちてくる物はまばらになり、伏せている耳に近所からの叫び声や泣き声が聞こえてきました。

 伏せたまま、顔を上げて見回すと、家の中の様子が一変していました。建具は殆んど折れて外れ、壁は崩れ落ち、どの部屋も、畳の上に瓦や土、建具が散乱していました。

 屋根も吹き飛び、空が見えていました。柱や壁には、鋭くとがったガラス片が、たくさん突き刺さっていました。近所の家もみな同じように壊れ、港のむこうに見える市街地は土煙におおわれていました。

 私たちは庭の防空壕に避難し、父と兄の帰りを待っていました。一時間ほど経ったころ、兄が工場から戻ってきました。そして私たちに「こんな小さな防空壕では危ない隣組の大きな防空壕に避難しよう」と言いました。

 崖の下にトンネル状に掘られた防空壕は、近所の母親や子供たちで一杯でした。外で熱線を浴びた子は皮ふの露出した部分が焼け、そのほかの子は、爆風による飛来物、ガラス片などが体に刺って泣いていました。

 私と双子の弟も、縁側を離れて茶の間に行くのが、あと5分遅かったら熱線や爆風で、ひどい傷を負ったかも知れません。

 一晩中、私たちは不安な思いで父を待っていました。しかし翌朝になっても父は帰ってきませんでした。そこで、私たちは兄弟3人で、父を迎えに行くことにしました。

 勿論、落とされた爆弾が原子爆弾であることも、爆心地から父の工場のすぐ近くであることもまったく知りませんでした。

 進むにつれて、被害はひどくなるばかりでした。道路沿いの家は焼けてしまい、電柱や街路樹は立ったまま黒焦げになっていました。

 川のむこう岸に並んでいた工場は、焼けた針金細工を潰したような姿に変わり、大きな柱だけが傾いて立っていました。

 道路上には瓦礫の間にたくさんの人々が死んでいました。その顔や手足は黒いゴム人形のようにふくれ、皮ふに靴が触れると、熟した桃の皮をむくようにぺロリと剥げて、白い脂肪の部分が現れました。

 川の中にも、たくさんの遺体が浮いていました。その中でも18,9歳くらいの女性が白い帯を引っぱって浮いている姿にひきつけられました。

 よく見ると、それは彼女の脇腹から飛び出した腸だったのです。私たちは気持ちが悪くなって目をそらし、足早に父の工場へ向かいました。

 あと100mほどで父の工場にたどり着くという所で、突然、兄が悲鳴を上げて立ちすくみました。兄の肩越しに見ると、6,7歳くらいの男の子が白い束をくわえて死んでいました。

 見た瞬間、うどんを吐いて死んでいると思いました。しかし、よく見ると、それは彼の体内から一斉に飛び出した回虫(roundworm)だったのです。私たちは吐き気をこらえて、走りだしました。

 父の工場も、焼けた鉄骨だけになっていました。崩れた塀の間から工場を覗くと、スコップを持って作業している人が3人いました。嬉しくなって「山脇ですけど、父はどこでしょうか?」と叫びました。

 作業をしていたひとりが振り返り「お父さんはあっちだよ」と崩れ落ちた事務所の方を指差しました。

 私たち3人は、指差された方へ走りました。しかし、そこで見たのは、ほかの人と同じように黒くふくれた父の遺体でした。

 茫然とつっ立っている私たちに、スコップを持った人たちがこう言いました。「お父さんを連れて帰ろうと思うなら、ここで焼かないと駄目だよ、それが厭ならここに埋めるしかないけど、どうする?」

 爆撃で火葬場も壊れて使えなくなっていると言うのです。仕方が無いので工場の焼け跡から、燃え残りの木材を集め、そこで火葬することにしました。焼けた柱の上に父は寝せられ、遺体の上に木切れをうず高く積みあげました。

 火がつけられると、炎が高く上がりました。私たちは手を合わせて拝みました。拝み終わって顔を上げると、炎の中から父の足首がふたつ突き出していました。それを見ているのは耐えがたいことでした。

 そんな私たちの気持ちが伝わったのでしょう。会社の人たちが「今日は帰りなさい。明日、骨を拾いに来なさい」と言いました。

 翌朝、私たちは壊れた家の台所で、骨を入れる壷を探しました。見つけた壷を持って、また3人で父の遺骨を拾いに行きました。

 意外なことでしたが、私たちはもうどんな屍体を見ても怖くありませんでした。それらは、歩く障害物としか感じなくなっていました。

 しかし、父を焼いた場所に着いたとき、私たちは呆然としました。父の遺体は半焼けのまま、灰に埋もれていたのです。会社の人たちはもう誰も居ませんでした。

 兄弟3人で骨を拾おうとすればすれほど、半焼けの父の遺体はあらわになりました。焼けているのは、手首や足首の先、お腹の一部だけなのです。骨はほんの少ししか拾えませんでした。

 骸骨に灰をまぶしたような遺体は、なまの遺体よりはるかに気持ちが悪いものでした。それが、一緒に食事をしたり、話し合ったりした父親だと思うと、尚更、厭でした。

 そんな父の遺体を見るのが耐えがたくなって、私は「お父さんはこのままにして帰ろうよ」と兄に言いました。

 いま思うと、それがよくなかったのです。しばらく、父の遺体を見つめていた兄がこう言いました「仕方がないな、お父さんの頭の骨を拾って終わりにしよう。」

 兄は持っていた火箸で、父の遺体の頭蓋骨に触れました。すると頭蓋骨は石膏細工を崩すように割れ、半焼けの脳が流れ出したのです。

 兄は悲鳴をあげ火箸を捨てて逃げ出しました。私たちも続きました。私たちはこんな状態で父の遺体を見捨ててしまったのです。

 あの原爆で、家族や親しい人を亡くした人たちはみな同じような体験をしたと思います。一発の原爆で約7万人の市民が一瞬のうちに死んだのですから。

 被爆の日、幼い弟妹をつれて、田舎の実家に行っていた母は、3年前97歳で亡くなりました。しかし、父の遺骨を拾った詳細‐半焼けの頭蓋骨が割れて脳が流れ出し、逃げ帰ったこと‐は、母には話せませんでした。

 実は、私たちがこのことを母に話せなかった理由のひとつは、この母が継母であったからでもあります。私たちを生んでくれた母は、2歳のとき亡くなり、以来ずっと私たちの面倒を見てくれたのがこの母でした。

 父が亡くなったあと、私たち双子の兄弟は働き始めました。15歳でした。それから45年間、60歳になるまで働き、その間に夜間高校に通って卒業しました。

 35歳になった頃、私の肝臓や腎臓が悪くなり始めました。そのため、長崎原爆病院に15回入院し、インターフェロンの投与やその他の治療を受けました。それは今でも続いています。

 悪いことに、昨年9月に私は主治医より胃ガンと告知され、翌10月に長崎大学病院で切除手術を受けました。

 ある大学教授は「原爆は3度人を殺した」と書いています。原爆が持っている三つの武器(熱線、爆風、放射線)の恐ろしさを如実に表現した言葉だと思います。

 私は11歳のとき自分が味わったこの残酷な悲劇を、もう誰も体験して欲しくないと願っています。でも、あの長崎・広島の原爆よりはるかに威力のある核兵器が、まだ2万発あるいは3万発も保有されていると言われています。

 しかし、核兵器の恐ろしさ、残酷さを知らない人たちが地球上にはまだたくさんいます。加えて、9・11以降、世界の緊張は高まっています。あちこちで内戦、戦争が続いています。

 長崎を最後の被爆地とするために、残酷な核兵器を地球上から無くすために、皆さんも力を貸してください。戦争のない平和な世界を築くために、一緒に頑張りましょう。