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1.「紫陽花の詩(あじさいのうた)」
(昭和48年=1973、さだまさし・作詞、作曲、グレープ・歌) |
バックナンバー「雨にちなむ歌(2)」と前回の「諏訪神社〜鳴滝」でも紹介しましたが、さだまさしと吉田正美によるグレープがデビュー前に自費出版したコンパクト盤(17センチLP)で発表した4曲の中の1曲です。
1番の冒頭に蛍茶屋が登場、中川の川端を抜けて鳴滝へ、2番は思案橋から眼鏡橋へ向かおうとするが、寺町を回って行くか、それとも中通りを抜けるか思案する様子が歌われています。
蛍茶屋も中島川も、アジサイが咲き、雨がそぼ降る長崎の街にはぴったりで、それぞれの魅力を確かめながら散歩する若者の姿がしのばれます。しっとりとした情緒が感じられる歌です。 |
2.「ばってん長崎」
(昭和50年=1975、出島ひろし・作詞、細川潤一・作曲、江崎はる美・歌) |
蛍茶屋や矢の平は名月で知られる彦山の麓にあり、中島川もその麓を流れています。矢の平から蛍茶屋〜中川付近までは明治時代に桜が数多く植えられ、桜の名所として市民に親しまれた時期がありました。
この歌は「名所名物の歌(上)」でも紹介しましたが、長崎を東西南北に分けて名所を紹介しており、盆踊りで人気を集めました。 |
(2)カルルス跡 |
バックナンバー「古き良き時代を歌う」にも掲載していますが、蛍茶屋に隣接する本河内から中川、桜馬場あたりは明治末期から昭和10年代にかけて桜が多く、特に中島川河畔の「中川遊園地」(現在の料亭「橋本」の敷地)は桜の名所として市民に親しまれました。
加えて、その向かい側の岸辺にあった温泉はチェコのカルロビ・バリの温泉と同じ泉質の温水に調剤したことから「カルルス温泉」と呼ばれ、人気を集めました。
桜の名所からカルルスに通じる朱塗りの「竜吟橋」も架けられ、中島川の上流にはボートが浮かびました。花見シーズンには名物の桜餅も登場、秋になると遊園地では京都の菊人形も並べられ、冬は彦山の雪景色が素晴らしく雪見でも賑わったそうです。
カルルスを歌ったものは、まず昭和5年(1930)に出た「長崎小唄」と前項「ばってん長崎」の冒頭から登場。さらに昭和10年に出た次の「長崎バッテン節」にも歌われています。
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左岸に中川遊園地、
右岸にカルルスがあった
中島川上流 |
3.「長崎バッテン節」
(昭和10年=1935、西岡水朗・作詞、近藤十九二・作曲、虎龍・歌) |
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昭和10年に行われた長崎開港365年記念の港祭りの際に記念曲としてレコード化された「長崎開港記念歌」「長崎みなと祭小唄」「長崎行進曲」「春の長崎」の4曲のほかに、長崎新聞社が推薦したこの歌と片面の「長崎よいとこ」のレコードも人気を集めました。
「長崎バッテン節」は方言の「バッテン」を囃子ふうに挟み、長崎の町の魅力をうたい上げていますが、3番に当時人気の「カルルス」と夜桜の素晴らしさを取り入れています。 |
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(3)若宮神社 |
若宮神社は「竹ん芸」で知られる若宮稲荷神社のことで、伊良林にあります。「竹ん芸」は秋の大祭(10月14日〜15日)に男狐、女狐の面を着けた若者が高さ12メートル以上もある青竹の上で曲芸を奉納される行事で、長崎市の無形民俗文化財に指定されています。
歌には民謡に「長崎七不思議」に「古いお寺を若宮と」と歌われているように、歴史は古く、出来大工町乙名(おとな)・若杉喜三太が自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられています。
明治維新後は社殿の近くにある亀山社中(次項に詳述)を拠点にしていた坂本龍馬ら志士たちも参拝したことから勤皇稲荷、勤王人社とも呼ばれています。
なお、若宮稲荷神社は「長崎七不思議」のほかは歌われていないようです。 |