文・宮川密義


今回は諏訪神社〜西山〜桜馬場〜鳴滝のコースで“歌さるき(歩き)”を試みます。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 月見茶屋
  「お諏訪のぼたもちゃ あじやよかろ…」の歌でおなじみの茶屋です(「長崎の食べ物賛歌」)。
(2) 西山
  「北にあるのを西山と…」と歌われたのが、ここです(「長崎七不思議」)。
(3) 西山神社
  「長崎のザボン売り」のヒットで長崎名産となったザボンは、ここ西山神社境内に日本で最初に植えられました(「長崎の食べ物賛歌」)。
(4) 桜馬場
  「桜もないのに桜馬場…」と歌われました(「長崎七不思議」)。
(5) 城の古祉
  桜馬場の坂を登ると春徳寺があり、さらにその上の丘に、竹という美しい娘の悲恋物語を秘めた「城の古址」があります。
(6) シーボルト宅跡
  出島の蘭学医シーボルトが近代医学を伝えた鳴滝塾の跡。シーボルトの胸像が建ち、シーボルトが愛したアジサイが植えられています(「雨にちなむ歌(2)」)。

【諏訪神社〜鳴滝周辺マップ】


(1)月見茶屋

諏訪神社の西側に参拝後の休憩場として、明治18年(1885)に創業した“月見茶屋”で売られた「ぼた餅」が市民に親しまれました。
その“ぼた餅”は、現在の長崎公園が公園の形を見せ始めた明治6年(1873)、諏訪神社本殿の西回廊で売り出されたのが始まりで、東回廊では松、杉などの常磐(ときわ)の葉に乗せた「常磐餅(ときわもち)」も売られたそうです。
歌には、まず「長崎節」(昭和5年=1930、西岡水朗・作詞、杉山長谷夫・作曲、植森たかを・歌)の6番に登場、歌詞の一部「あじゃよかろ」は他の食べ物を食べる時でも使われるほど有名になりました。最近でも「長崎名物ぶし」(昭和51年=1976、出島ひろし・作詞、村沢良介・作曲、市川勝海・歌)などに歌われています。ここでは「ぼた餅」部分を再録しました。
一方、諏訪神社から眺める名月もすばらしく、狂歌師・蜀山人(しょくさんじん)が長崎言葉で詠んだ歌に『長崎の山から出づる月はよか こんげん月は えっとなかばい』があり、「長崎の子守唄」などの歌にも“彦山の月”として取り込まれています。

現在の月見茶屋




(2)西山

長崎の民謡「長崎七不思議」に「北にあるのを西山と…」と歌われているのがここです。
長崎開港のころの中心地、長崎氏の居城(今の夫婦川町「城の古址」)から見ると西に位置するところから「西山」の地名が起こったといわれています。その西山を現在の中心地、県庁付近から見ると北に位置するため、不思議に思われるのも当然です。


(3)西山神社

長崎聖堂の学頭で唐通事(中国語の通訳)であった盧草拙(ろ・そうせつ)が中国から持参して祀っていた北辰妙見尊星と、諏訪神社吟味役・村田四次郎が祀っていた妙見尊神を祭るために、享保4年(1854)に社殿を完成、西山妙見社としました。明治2年(1869)、神仏混淆禁止令によって西山神社と改称されましたが、人々には“西山妙見さん”と呼ばれ親しまれてきました。
西山神社は長崎市指定文化財の緋寒桜でも有名です。明治30年(1897)に植樹され、旧暦の元日ごろに開花するため“元日桜”ともいわれます。
また、「長崎のザボン売り」の大ヒットで有名になったザボンは、日本で初めてこの西山神社に植えられました。寛文7年(1667)、唐船の船長・周九娘(しゅう・くろう)がジャワから種子を持ち帰り、それを西山神社の盧草拙が譲り受け、境内にまいて成長、見事にザボンを実らせ、各地に伝わりました。
特に鹿児島の阿久根地方には数多く栽培されていました。歌の「長崎のサボン売り」がヒットした頃の長崎にはザボンは見当たらず、しばらくして長崎駅前で最初に売られたのは阿久根から持ち込んだザボンでした。
西山神社境内の上段に3代目、石段の下には4代目のサボンが健在です。



西山神社への石段



4代目のザボンの木

1.「やっぱり長崎」
(昭和53年=1978、出島ひろし・作詞、村沢良介・作曲、市川勝海・歌)


「長崎のザボン売り」で長崎をイメージアップした“サボン売り娘”と“蝶々さん”を組み合わせて、長崎の町の魅力を軽快に歌い上げた、いわば“観光ソング”です。※印の部分は明清楽「九連環」から派生した「かんかんのう」を囃子に取り込みました。


(4)桜馬場

「桜もないのに桜馬場…」と「長崎七不思議」に歌われている「桜馬場」は長崎街道の始点で、今の桜馬場中学校の所では、慶長4年(1599)にポルトガル人によって日本で初めてタバコが栽培されています。
長崎開港のころはこの付近が長崎の中心地で、長崎甚左衛門純景(すみかげ)の居館と馬場が今の桜馬場中学校の場所にあり、桜の木が植えられていたことからこの地名といわれています。
大正時代までは、本河内から中川のカルルス温泉〜桜馬場にかけて桜の名所となっていました。
「長崎七不思議」は明治元年から11年ころまでの間に出来た民謡ではないかと推定されますが、そのころの桜馬場には“桜もないのに…”と歌うほどに桜が少なかったのでしょうか。
桜馬場が歌に登場するのは「長崎七不思議」程度ですが、長崎の歴史では重要な意味を持つ場所なので、散策の参考までに。
なお、桜馬場中学校の横の坂を登ったところにある春徳寺は、永禄12年(1569)に長崎で最初の教会「トードス・オス・サントス教会」が造られたところですが、その2年前の永禄10年(1567)にポルトガルの貿易商、アルメイダがやってきて長崎で最初にキリスト教の布教を行っており、春徳寺の石垣の側面にその記念碑の案内説明板が掲げられています。


春徳寺の「アルメイダ渡来記念碑」
案内板




桜馬場中学校の角から
シーボルト通りを見る


(5)城の古祉

長崎市夫婦川町の春徳寺の裏山にある“城の古址(しろのこし)”の大岩“龍頭巌”には、お竹という美しい娘の、次のような悲恋物語が秘められています。
この近くに笛が上手なお竹という名の娘が住んでいて、毎日夕暮れになると龍頭厳のあたりで笛を吹いていました。ある日、そこに美少年が現われ、末は夫婦に…と心に決めていましたが、美少年には言い交わした仲の娘がいました。落胆した娘は山奥に誘い込まれるように姿を消します。数日後、お竹は龍頭巌の上にぼんやりと立っており、医者もお手上げの奇病で床につきます。そこで祈祷師にお祓いをしてもらうと正気に戻りますが、ある日、その祈祷師が龍頭巌のそばで大蛇の化身と見て取れる一人の武士に出会い、一喝すると武士の姿はかき消えました。その日から、その龍頭巌を竹で叩くと「タンタンタケジョ」という音が出るようになったということです。
この伝説を取り入れた歌があります。


美しい娘・お竹の悲恋物語を秘めた
城の古址の龍頭巖



城の古址への坂

2.「長崎恋しや」
(昭和9年=1934、西条八十・作詞、中山晋平・作曲、市 丸・歌)


南蛮船が出入りしていた頃の、長崎の港の春を歌っていますが、コーラスでにぎやかに歌う「タンタンタケジョ」の部分がその伝説から取ったものです。
なお、最近は聴かれませんが、「ターン、ターン、タケジョ。ヨメゴニ、ホシイ」と歌うわらべ唄「タンタンタケジョ」もありました。


(6)シーボルト宅跡

文政2年(1823)、出島に赴任したオランダの医師シーボルトは植物学者でもあり、アジサイが好きで、日本人妻・たきに因んで、アジサイの学名を「オタクサ」と付け、「日本植物誌」に発表しました。
シーボルトは日本研究で禁制品を収集していたため国外追放の処分を受けます(シーボルト事件)が、安政の開国で入国が許され、30年ぶりに出島で、おたきと娘のいねと手を取り合って涙の再会をしています。
シーボルトは文政7年(1824)に鳴滝で、医学、薬学、動植物学などを指導する「鳴瀧塾」を開設、高野長英ら約50人の門弟を輩出します。シーボルト事件でシーボルトがいなくなった鳴瀧塾には娘のいねが住んでいました。
鳴滝塾は老朽化したため明治27年(1894)に解体され、現在は当時使用していた井戸などが残っており、国指定史跡となっています。
宅跡にはアジサイが植えられ、シーズンになると美しい花を開きます。歴史的な意味をもつアジサイを、長崎市は昭和43年(1968)1月に市花に制定、市内各地にアジサイが植えられるようになりました。
歌にはアジサイをテーマにしたものが多く、その代表曲が「あじさい旅情」ですが、今回は娘イネを歌った「おいね恋姿」を紹介します。


シーボルトの胸像

3.「おいね恋姿」
(昭和51年=1976、関沢新一・作詞、サトウ進一・作曲、十和田みどり・歌)


いねはシーボルトの門弟に付いて産科を勉強。入国を許された父シーボルトからも指導を受けて、女医として活躍しました。
この歌では混血児としての悲しみ、国外に追放された父シーボルトをしのぶいねの心情と、幕末、官軍の総司令官として活躍しながら反対派の士族に襲われ死亡した大村益次郎(おおむら・ますじろう)への恋心を歌っています。



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