文・宮川密義

今年(2005)1月4日、長崎市と西彼杵郡の香焼、伊王島、高島、野母崎、外海、三和の6町が合併して、新県都「長崎市」が誕生しました。
そこで、これらの地区の魅力を、歌の視点で紹介していきます。

【伊王島】
長崎市の南西約10km、長崎港の沖合に南北に連なる伊王島と沖之島からなり、長崎市の大波止から10キロメートル、船便では19分の位置にあります。豊かな自然の中で昭和16年(1941)からは炭坑の島として繁栄しました。昭和47年(1972)に炭坑が閉山、平成元年(1989)からはリゾート施設が充実、天然温泉も完備したリゾートの島として長崎市民に親しまれています。

1.「伊王島の子守唄」(民謡)


伊王島にはキリシタンが多く、カトリック信徒の比率は全国一と言われています。禁教の迫害の時代を経て、明治4年(1871)に馬込に仮聖堂が建ち、明治25年(1892)に天主堂が建ちますが、昭和3年(1928)9月の台風で大破したため、同6年10月に現在の白亜のゴシック式天主堂に建て替えられました。
その馬込を中心に歌われたのが「伊王島の子守唄」です。
歌詞の中の“馬込の浜の番人”は鷹島(たかしま)という力士くずれの男。“離れキリシタン”のお目付で、深堀藩が放ったスパイでもあったといわれ、この男の密告で多くの信者たちが捕えられ迫害を受けたそうです。
この子守唄は迫害の苦しみを下敷きに切々と歌われています。


馬込に建つ沖之島天主堂


2.「アンゼラスの鐘」(民謡)


大明寺の教会は明治12年(1879)に木造教会として完成しました。長崎の国宝大浦天主堂に次ぐ日本最古のゴシック式建築で、老朽化したため愛知県犬山市の明治村に引き取られました。
現在の大明寺教会は鉄筋コンクリート2階建ての近代的な教会で、昭和48年(1973)9月に完成しました。
この歌は、天主堂から鳴り響くアンゼラスの鐘を合図に祈りを誘う子守唄で、大正のころから歌われているようです。
もともと題名もありませんでしたが、「アンゼラスの鐘」は昭和63年に県教育委員会の民謡調査の際、仮に付けられたものです。
伊王島には、ほかに賛美歌に似たシンプルな旋律の「小びとの唄」、外海(そとめ)の「ドロ様数え唄」と歌詞もほとんど同じ「ゼウスの数え唄」もあります。


大明寺教会


3.「伊王島音頭」
(昭和37年=1962、神田まさ子・詞、木野普見雄・曲、向島しのぶ、鳴海重光・歌)


民謡以外では、まず昭和37年に「香焼音頭」と一緒にレコードになった「伊王島音頭」があります。地元の神田まさ子さんが作詞し、長崎の木野普見雄さんが作曲、東京の向島しのぶと鳴海重光が歌いました。
「黒ダイヤ」とは、炭鉱全盛期の石炭をもてはやした言葉。
伊王島の石炭は昭和10年(1935)に海底炭層が発見され、昭和16年(1941)から産出が始まりました。以来、「黒ダイヤの島」として年々発展しましたが、エネルギー革命の波に押し流され、昭和40年(1965)には死者30人を出すガス爆発事故もあり、島の基幹産業だった炭鉱は昭和47年に閉山してしまいました。
3番の「俊寛」は、平安末期、平清盛の討滅を企てて伊王島に流された俊寛僧都(しゅんかん・そうず)のこと。その墓が北原白秋の「俊寛の遺跡なり」の歌碑と並んで建っています。


「伊王島音頭」と「香焼音頭」を歌った
向島しのぶ


4.伊王島讃歌「アイラブユーがいえる島」
(平成7年=1995、松原一成・作詞、作曲、ZINM・歌)



ZINMによる伊王島の歌・完成発表会


炭坑閉山よって基幹産業を失った伊王島では、灯台や天主堂など観光的な資源と、長崎に近い島の自然美と海を生かした「島おこし」が考えられました。
新しい形のスポーツリゾート基地として島の再生が図られ、ホテル、テニスコート、野外劇場、マリンセンター、自然体験ゾーンなど次々と開発が進められました。
平成7年(1995)には、県と長崎航空が8月1日を「しまの日」と制定したのを記念して、イメージソングも制定しました。
全国から募集した歌詞には採用できるものがなく、長崎のグループ、ZINM(ジンム)の作品を手がけていた長崎の松原一成(まつばら・かずなり)さんに作詞・作曲を依頼、「アイラブユーがいえる島」と音頭調の「みんな元気」の2曲が出来て、ZINMの歌でCDも作られました。
CDには元歌のほかにパラダイス・バージョン、パラダイスとサンバミックスの3通りの演奏と「伊王島んダンス」という歌も入っています。
町ではこの歌を課題曲に、ダンス・フェスティバルを定期的に開いて伊王島を“ダンスの島”にしようと張り切った時期がありました。


【香焼】
香焼は長崎港の入り口に浮かぶ小島でした。
大正・昭和にかけて炭鉱と造船業の盛衰に合わせて浮沈状態が続きましたが、昭和46年に完成した臨海工業用埋め立てによって長崎半島と陸続きになり、間もなく三菱重工長崎造船所が香焼工場を造りました。
三菱の香焼ドックは世界一といわれるもので、新しい活気のある町づくりが進められました。



5.「香焼音頭」
(昭和37年=1962、柴田稔夫・詞、木野普見雄・曲、向島しのぶ・歌)


昭和36年11月1日の町政施行に合わせて、お隣の「伊王島音頭」と抱き合わせでレコードも作られました。
このころは財政的に苦しい時期でしたが、町の発展を願って奮発、歌は東京のプロ歌手、向島しのぶを起用。伴奏もオーケストラや和楽器を使い、ビクターに委託してレコードを自費制作しました。
香焼には特徴のある民謡はなく、この歌は学校や町民運動会などで歌い踊られてきました。


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