文・宮川密義

長崎の歌の中の“原爆・平和の歌”についてはバックナンバー10で「長崎盆踊り」、二つの「長崎の鐘」「平和は長崎から」「ふるさとの空の下で」の5曲を選びましたが、ほかにも話題、注目曲があります。以下、続編として、年代順に紹介します。

1.「あの子」
(昭和24年=1949、永井 隆・作詞、木野普見雄・作曲、山里小学校児童・歌)


爆心地から500メートルの地点にあった長崎市立山里小学校では、原爆によって1,300人の児童と先生が一瞬に命を絶たれました。
近くで保養を続けていた被爆医師・永井隆(ながいたかし)博士(バックナンバー10「長崎の鐘」参照)は、あの子らの霊を慰め、平和への足がかりにしようと、生き残った児童たちの原爆体験記「原子雲の下に生きて」の出版を援助、その印税で「あの子らの碑」を校庭の片隅に建立しました。
さらに、博士自ら「あの子」を作詞し、長崎市議会事務局長の木野普見雄(きのふみお)さん(バックナンバー10「平和は長崎から」参照)に作曲を頼み、昭和24年11月3日に行われた碑の除幕式で、山里小学校児童の歌で披露されました。
以来、「あの子らの碑」には千羽鶴が絶えることがなく、歌の「あの子」も、碑の除幕式のあった11月3日前後に毎年碑の前で開く平和祈念式などで、今日まで歌い継いでいます。


山里小に建つ「あの子らの碑」


平和祈念式で「あの子」を斉唱する
山里小の児童たち


2.「子らのみ魂よ」
(昭和26年=1949、島内八郎・作詞、木野普見雄・作曲、城山小学校児童・歌)


城山小学校でも児童1,400人と先生27人が原爆で亡くなりました。
当時、自治会長で市議会議員だった杉本亀吉(すぎもとかめきち)さんが復興に努力する一方、原爆で亡くなった児童や先生たちのみ霊を慰め、平和のシンボルとして「僕らの平和像」の建立を計画しました。
山里小の「あの子」を作曲した木野普見雄さん(前述)の仲介で、長崎市出身の彫塑家・富永直樹(とみながなおき)さんによって、等身大の「少年平和の像」が昭和26年(1951)夏に完成しました。
一方、富永さんは “手向けの歌”を作ってほしいと木野さんに要望。木野さんは、歌人で市立博物館主事の島内八郎(しまうちはちろう)さん(バックナンバー10「平和は長崎から」参照)に作詞してもらい、木野さんの作曲でこの歌が誕生しました。
歌は6年生の児童による斉唱で、像の除幕式で発表されて以来、毎年校内で開く5月の平和祈念式と8月9日の原爆の日に全校児童が歌い継いでいます。


城山小の校門前に建つ「少年平和像」


平和祈念式で「子らのみ魂よ」を
斉唱する城山小の児童たち


3.「南天の花」
(昭和25年=1950、永井 隆・作詞、山田耕筰・作曲、辻 輝子・歌)


永井隆博士が作詞した「南天の花」が、永井博士の著作出版に尽力した式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう)医学博士によって、世界的に知られた作曲家、山田耕筰(やまだこうさく)さんに届けられました。
詩の発想は、永井博士の夫人の居間の軒下にあった一株の南天にあったそうです。南天はその後、如己堂の脇に移植され、今も季節に花を咲かせています。
原子野でたくましく伸びた南天、やがて開いた白く可憐な花に平和への祈りを託したのでしょうか。
「さくら貝の歌」で知られるソプラノ歌手、辻輝子(つじてるこ)さんの歌で、昭和25年(1950)7月にレコードが出ました。
永井博士は翌26年5月1日亡くなりましたが、山田耕筰さんは永井博士を偲ぶ「白ばらの歌」を作り、公葬の時に歌ってほしい…と届け、5月14日浦上天主堂で行われた葬儀の席で、純心女子学園聖歌隊の皆さんが合唱しました。


「南天の花」の楽譜表紙


4.「泣くな長崎」
(昭和42年、高浪藤夫・作詞、深町一朗・作曲、杉野正男・歌)


原爆の悲惨さの継承を風化させまいと願う歌です。
作詞は長崎市内で眼鏡店を経営していた高浪藤夫(たかなみふじお)さん(バックナンバー24「思案橋空車」参照)。
原爆落下中心地付近が若者の遊び場になったりして、原爆の悲惨さが忘れかけ、風化しているのに心を痛めて作詞しました。
これに地元の音楽家・深町一朗(ふかまちいちろう)さん(バックナンバー29「長崎オッペシャン」参照)が曲を付け、長崎の声楽家・杉野正男(すぎのまさお)さんの歌で、NBCラジオなどで発表されました。
当時はレコードになる機会はありませんでしたが、長崎で開かれた核禁会議主催「世界大会」のテーマソングになったほか、ママさんコーラスなどによって歌われてきました。
一方、この詞を長崎で見た横浜の会社役員で詩吟愛好家の田川昌央(たがわまさひろ)さんは長崎で被爆体験を持つだけに、この詩にすっかり感動。昭和53年(1978)には自費でレコードやCDを作るなどして、詩吟による朗詠を続けています。


「泣くな長崎」トリオ=(左から)杉野さん
(歌)、高浪さん(詞)、深町さん(曲)





「泣くな長崎」の吟詠盤


5.「白い血」
(昭和45年、辻端 力・作詞、増永二郎・作曲、松山昌弘・歌)


「原爆の悲惨さを長崎の若い人たちにも伝えたい」という熱い思いで作られた歌です。
松山昌弘(まつやままさひろ)さんは佐世保出身のシャンソン歌手で当時29歳。長崎の伯父さんが原爆のケロイドに苦しんでいるのを見て心を痛め、「なんとかして原爆の悲惨さと、戦争のない平和な世界の実現を人々に訴えなければ…」と思っていました。
昭和35年(1960)に佐世保北高校を卒業後上京、NHKコンクールで2位に入賞して、「長崎の鐘」で知られる歌手・藤山一郎(ふじやまいちろう)さんに師事しているうち、原爆の恐ろしさを歌い続けることを決心、別々のペンネームで作詞作曲したのが「白い血」でした。
その後、芸名を「長崎たけし」に改め、長崎の被爆詩人・福田須磨子(ふくだすまこ)さんの詩に曲をつけた原爆関連の歌「あの子は何処(どこ)に」などを歌い続けました。


松山昌弘さん


  「白い血」の初版レコード表紙


6.「ふみしめて歩くなよ」
(昭和48年=1973、濱田龍郎・作詞、山田伊久麿・作曲、歌)



長崎の町にはまだ多くの原爆犠牲者の魂が浮かばれずにいるに違いない。長崎の街は土を踏みしめて歩かないでほしい…という願いを込めた歌です。
作詞の濱田龍郎(はまだたつろう)さんはサラリーマン詩人でした。長崎在勤中に浦上天主堂遺跡写真を新聞で見て感動、池松経興(いけまつつねおき)さん撮影の浦上天主堂遺跡写真88枚に詩を付け、昭和47年(1972)から長崎など4カ所で「浦上天主堂遺跡・詩と写真展」を開催しました。
「ふみしめて歩くなよ」はその中の1編で、この詩に感激した長崎造船大学(現・長崎総合科学大)学生・土井根道和(どいねみちかず、ステージネーム・山田伊久麿=やまだいくま)さんが作曲してコンサートで歌い、その後、レコードでも発表しました。



「九州ラーメン党」でボランティア
活動を続ける濱田龍郎さん
その後長崎を離れた濱田さんは8月9日の原爆の日には毎年長崎に来て、原爆落下中心地や平和公園を清掃するなど犠牲者慰霊と平和祈念の行動を続けました。
現在は熊本県益城町でラーメン店を営みながら、ボランティア仲間「九州ラーメン党」を立ち上げ、“最後の貧者の一灯になる” ことを胸に秘めながら、障害者の施設や老人ホームなどに無料でラーメンを振る舞い続けています。


「浦上天主堂遺跡・詩と写真展」に展示され、
濱田さんが詩(右)を付けた浦上天主堂の写真(左)


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