発見!長崎の歩き方

「町を賑わした!長崎の芝居史」


写真提供:長崎大学附属図書館

ポルトガル人によって開かれた町、長崎。その誕生から鎖国時代にかけての海外交流によって、この町は繁栄、様々な文化を受け入れる大らかさと共に独特の文化が育まれていった。そこで、江戸時代以前から昭和に至るまでの「長崎の芝居」と「芝居小屋」に注目!

ズバリ!今回のテーマは
「歴史が!人が!つくる文化は心に宿る」なのだ。


連綿と受け継がれてきた
長崎の芝居史を辿る!

まずは、現代人に馴染みの深い、現代の芝居小屋を――。

戦後長崎の文化発信基地
「長崎市公会堂」

開幕直前の高鳴る鼓動。
ホールいっぱいに鳴り響く音楽。
渦巻く拍手喝采。
1922名収容の八角形ホールで、
誰もが心震わせる瞬間を体験した
―― 「長崎市公会堂」。


昨年、創設50周年を迎えた長崎市公会堂


前面の広場

昭和37年6月2日の落成式から早半世紀。昨年、創設50年を迎えた「長崎市公会堂」は、音響効果や回り舞台など、最先端の設備を完備。当時、九州一の“デラックス公会堂”と唄われた。田川務長崎市長による挨拶ではじまった落成式、午後からは、長崎芸能会、キレイどころ総出演による清元「青海波」をはじめ、市内管弦楽「詩人と農夫」、鳳、加藤両バレー団によるバレー「赤と黒の情熱」、剣舞など、数々の出し物で観客は盛り上がった……。


長崎市公会堂前、市民会館に建つ田川氏の胸像

初めてのライブ、初めての観劇、あるいは初めての発表会。ある時は、各デパート友の会の催事場として、誰もが幾度も足を運んだ公会堂は、いわば長崎文化の殿堂。前面の広場も、初春には晴れて成人となった若者達が集い、秋には長崎くんちの桟敷席となる。四季折々のイベントでも馴染み深い場所となっている。

今ではすっかり町のランドマークとなった公会堂は、原爆の惨禍から10年が経った昭和30年(1955)、国際文化の向上と恒久平和の理想を象徴する長崎国際文化センター建設委員会の事業のひとつとして建てられた。

設計したのは、長崎出身の建築家、武 基雄(たけ もとお)氏が主宰する武基雄研究室。都市計画にも精通していた武氏は、全国各地に公共建築を残しているが、その作品は県内にも数多い。「旧長崎水族館」(現在の長崎総合科学大学シーサイドキャンパス)や、長崎市平和公園の「平和の泉」をはじめ、「大村市図書館」、「諫早市民センター」、「島原市文化会館」、「島原図書館」もそうである。


今、まじまじと眺めてみると、随分と足を運んでなかったことに気付かされる。しかし、場内の落ち着いたブラウンを基調とした雰囲気、階段の温もりのある木の手すり、南蛮図屏風を模した緞帳(どんちょう)……不思議と総てが頭の中にインプットされていて、ここに身を置くだけで、久しぶりに帰ってきた故郷のような感覚になった。

では、ここから時を一気にさかのぼり、開港間近から長崎の芝居史を紐解いていこう。

外国人が伝えた芝居
外国人が見た長崎芝居

ポルトガル船の入港により開かれた町、長崎。この町における芝居のはじまりは、これもまたポルトガル宣教師による「宗教劇」だった。


長崎の芝居史をも物語る南蛮図屏風を模した長崎市公会堂の緞帳(「らく」4号より八木拓也撮影)

長崎に布教する以前の永禄9年(1566)、すでに布教活動を行っていた口之津に滞在していた修道士、ルイス・デ・アルメイダがイエズス会総長などに随時送っていた通信年報「耶蘇会士書翰(しょかん)集」の中には、次のような一文が見られる。

「――彼等は、元旦を祝うように競って救世主の降誕を祝い、終夜聖祭が始まるまで、演劇少年の舞踏が行われた。――」

その後慶長期に入ると、長崎の町にはイエズス会のほかにフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会などの宗派の教会が次々に建てられ、その各々の教会行事として宗教劇が行われていたと伝わる。

オランダの宣教師であり、歴史学者のモンタヌスは、イエズス会の宣教師が礼拝堂に舞台を作って、旧約聖書の劇を演じた、などと、数々の報告書を元にその詳細を『東インド会社遣日使節紀行』(通称『日本誌』)に記した。モンタヌスによれば、伝道布教を目的とする宣教師は、旧約聖書の歴史を日本人により伝わるよう、日本の調子に合わせた歌を作って歌うなど、多少芝居がかった演出を試みていたという。この記録は慶長8年(1603)のこと。日本人が未だかつて見聞していなかった演劇の始まりは、長崎における宣教師や信者による宗教劇なのであった。

さて、江戸(鎖国)時代の長崎といえば、江戸、大坂(大阪)、京都につぐ繁栄の町。そんな海外貿易で得た豊かさの中で、異国情緒にあふれた長崎独特の文化が育まれていった。そもそも「長崎くんち」をはじめとした今に伝わる数々の祭りを見れば、他都市との違いは一目瞭然。長崎は開港当初より、様々な文化を受け入れる素地が自然と出来上がり、華やかな文化があふれる町へと発展を遂げていったのだ。

ところで、日本固有の演劇(芝居)といえば、もちろん歌舞伎。その元祖は、モンタヌスが『日本誌』を記したのと同じ慶長8年(1603)に京都で始まったと伝わる『出雲の阿国(おくに)』である。“かぶき”の語源は、戦国時代の終わり頃から江戸時代初頭にかけて京都や江戸で大流行した派手な衣装を身にまとい、常軌を逸脱した行動で走る「かぶき者」。“かぶき”は、彼等の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」を取入れた演芸を基盤に形成され、遊女が演じる女歌舞伎(遊女歌舞伎)、少年が演じる若衆歌舞伎など、その形態は時代とともに変化を遂げ、成熟。現代に伝わる洗練された独特の美の世界を確立していった。

長崎には、相撲の興行はもとより、歌舞伎興行も頻繁に訪れている。「寛永年間長崎図」(※寛永年間/1624~1643)に記載された49町の外町の中には、歌舞伎町、新歌舞伎町(現在の東古川町辺り)の名があり、この頃すでに歌舞伎芝居が長崎の町に浸透していたことを示している

元和の頃(1615~)から延宝(1673~1680)の頃まで、代々興行ものの取り締まりをしていたのは、長崎代官末次氏だった。末次氏が密貿易で失脚した後は、町年寄で寺社方を兼ねた代官高木氏が取り締まった。寛永11年(1634)、長崎奉行に着任したのは出島築造、鎖国令の実施にあたった榊原飛騨守職直(さかきばら ひだのかみ もとなお)。同時に能太夫を命じられたのが早水治部という人物で、その稽古場として、多くの敷地を拝領している。そしてこの時よりすべての芝居、相撲、手踊などは早水氏の拝領地に限って興行が許された。しかし、年代は不詳だが、早水氏拝領地以外でも興行が行われていたことを示す「歌舞伎役者控」の記録が残っている。その場所は、小島村正覚寺付近「梅園芝居所」、馬込「聖徳寺下浜辺」、銅座、大浦辺りとある。


現在の桜町小学校は、かつて代官屋敷だった

オランダ商館長などのほか、長崎を訪れた外国人達は、自分達がその目で見た日本の芝居の様子や感想をつぶさに記している。その中から安永4年(1775)にオランダ商館医として来崎した植物学者ツュンベリーの記述を引用してみよう。

「――私の見たところでは、日本人の脚本の目的とするところは、見物人の娯楽と俳優の利益であるらしい。日本の脚本は、甚だ陽気なものである。しかし奇怪なところがあるので、滑稽なものになってしまっている。通訳が親切に私に筋の説明をしてくれた。筋は恋愛事件または英雄的行為であった。(中略)踊り手は、男の場合でも、女の場合でも、ただひとりで出てくることはない。踊り手は、謡わず語らず、ただ英雄的行為や恋愛の陶酔を表現するのである。オーケストラがその調子および歩調をとってやる。」

初期の歌舞伎は、ヨーロッパ人の目にはこのように映っていたようだ。

また、幕末の1865年頃、ポンペの後任として来崎した長崎小島養成所のボードイン医師は、屋外で演じる子どもの演劇に興味を持ち、写真に収めている。江戸時代、各地の神社などでは、世間で起きた事件などを題材に歌舞伎をまねた村芝居と呼ばれる素人の演劇が上演され、人々に親しまれていたとか。


長崎大学「良順会館」内に掲げられたボードウィンのレリーフ


ボードウィンが撮影した「子供演劇」
長崎大学附属図書館所蔵

【コラム】やっぱり!長崎

外国人が伝えた芝居
外国人が見た長崎芝居

文政3年(1820)9月17日、出島。商館長の住居の広間を飾り立て、ひとつの芝居が上演された。これは、自由に外出することが禁止され、単調な日常生活を送る商館員達の要望があり、時の商館長ブロムホフが許可を与え実現したもの。商館員達で配役を決め、演技する「素人芝居」のテーマは「芸術は長く人生は短い」。演目は、喜劇「結婚の策略」別名「二人の兵士」だった。見物席には、奉行所の許可を得た乙名や通詞たちをはじめとした多くの日本人の姿も。最後は、その場にぴったりの歌曲が素人劇団員によって合唱され、書記フィッセル(前述)が自作の詩を朗読して閉幕した。その後10月13日には喜劇「気短な人」とオペレッタ「二人の猟師とミルク売りの娘」を上演。これを見た日本の役人が、ぜひ奉行に見せたいと言い出し、10月20日には、2人の長崎奉行、筒井和泉守政憲と間宮信興を招き再演。またその2日後の22日には奉行所の役人達のために再々演されたという。この時には、日本語に翻訳された荒筋も準備されていたとか。


【次頁につづく】

発見!長崎の歩き方

「町を賑わした!長崎の芝居史」

大歌舞伎から大衆演劇まで
市民熱狂!芝居小屋続々誕生!

明治、大正、昭和と長崎市民を楽しませた、今はなき「芝居小屋」に思いを馳せて。

長崎最初の常設芝居小屋
大歌舞伎といえば「八幡座」

文政11年(1828)12月、長崎においてはじめて常設の芝居小屋が許可され、八幡町30番地に、長崎における最初の芝居小屋「八幡座」が誕生。以降、明治、大正、昭和にかけて、長崎市内には数々の芝居小屋が点在した。

◆八幡座(慶応元年~昭和22年)
[八幡座→長崎歌舞伎座→(失火全焼のため廃座)]

異国情緒に育まれた独特の歴史から、長崎で起きた史実を元に歌舞伎の題目となったものも多い。例えば並木五瓶作『漢人韓文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり)』。長崎丸山の遊郭を舞台に、唐人との言葉の障害によって起こるトラブル、恋のもつれと成就、通事(通訳)殺しが繰り広げられる異国趣味に富んだ異色作だ。

昭和15年9月。市川猿之助率いる東京大歌舞伎一座の公演では『漢人韓文手管始』――長崎土産唐人話――が掛かっている。

戦後昭和22年(1947)まで芝居小屋の老舗であった「八幡座」に対し、新たに迎え入れられたのが、明治23年(1890)、新大工町に誕生した「舞鶴座」だった。

舞鶴座と帯谷宗七
東部の繁華街、新大工に「舞鶴座」あり

◆舞鶴座(明治23年~昭和11年)
[舞鶴座→長崎劇場→中島会館→(廃座)]

「長崎はわが国文明輸入の門戸にして、海外人も常に来往する土地なるに、完全なる劇場の設備なきは、文化発達の上にも遺憾多しとの意見を抱き、市内有志に説く所あり――」

長崎県令在任中(明治17、18年頃)の石田英吉の提唱に動かされた本古川町の帯谷宗七(おびやそうしち)が、市内有志を集め、資本金3万円で「瓊浦劇場株式会社」を設立。当時の市内の名士37名が株主となった。社長、宗七は、7歳頃から能楽の稽古を始め、諏訪神社の能舞台にも度々出演していた人物。安政4年9月に起こった諏訪神社火災により全焼した諏訪社能舞台を再建させた発起人の一人としても知られる。


西山川と中島川が合流するこの辺りに舞鶴座はあった

檜造り、収容人数2300名にも及ぶ関西一の大劇場には、開場以来、鴈治郎、歌右衛門、仁左衛門といった時の大歌舞伎が来演。文字通り長崎の代表的劇場となった。

明治元年頃に榎津町の有志が設立した賃貸寄席の後身として誕生したのは、「栄之喜座」。

「八幡座」「舞鶴座」には敵わない
大衆に人気を集めた芝居小屋の思い出

◆栄之喜座(明治36年~昭和20年)
[栄之喜座→中座〈映画常設館〉→(廃座)]

寛永年間、歌舞伎が栄えた象徴といえる歌舞伎町、新歌舞伎町(現在の東古川町)に近い場所にあったが、「八幡座」「舞鶴座」にはさまれ、比較的寂しく、やがて映画全盛の波についえていった。

花山一太著『続 長崎ショートショート』(昭和55年発行)に、中座時代の周囲の風情を記した文章がある。

「……榎津通りは、観光通りと十字にクロスしているが、賑橋に近い方は、昔から京都から呉服の出張販売にくる人たちの常宿があった。一方セントラル劇場や長崎日活のある通りは、やはり昔も興行街であった。といっても、映画館は一軒だけ、今空地になっているあたりに、中座という大きい劇場があった。(中略)「はやくて安い」が売りものの牛丼屋が、最近長崎にもあらわれてきたが、中座時代には、今の九州相互銀行の所に、すでに「牛丼屋」があって、庶民の人気を呼んでいた。たゞし当時は「牛めし」と呼ばれていた。その牛めし屋の隣は、あざみ湯という銭湯があって、その先が中座になるのである。風呂に入って、牛めしを食って、中座へ映画見物というのが、その頃のワンセットであった。」(「街は変ってもジゲモン健在 榎津町」より一部抜粋)

この栄之喜座と似た運命を辿ったのが、飽の浦町に「亀岡座」として開場し、後に要町(現在の大波止周辺)に移転した「永久座」。

◆永久座(明治42年~昭和20年)
[亀岡座→永久座→(廃座)]

しかし、「八幡座」「舞鶴座」「栄之喜座(えのきざ)」に押され、大歌舞伎が掛かることはあまりなかった。

再び、花山一太著『続 長崎ショートショート』に永久座にまつわる記述を発見。

「長崎宝塚劇場の前身である南座は、A級劇場であったが、A級でない芝居小屋に、永久座というのがあった。場所は千馬町(現在の出島町)。いま長崎市資料館の電車通りの向うに、中古車センターがあるが、永久座はそこにあった。一郎はこの永久座で、ドサ(地方回り)の芝居をいろいろと堪能した。ひさご会という黒田良助という人を座長とするお涙専門の新派劇や坂東多門の節劇一座である。節劇といのは、歌舞伎役者が義太夫のチョボ(地の文を語る)にあわせて、ジグサをするように、浪花節にあわせて役者が芝居をするのである。」(「永久でなかった永久座 千馬町」より一部抜粋)

やや沈滞した長崎の劇界に息吹を与えようと建設されたのが、本石灰町の南座、かつて同地に存在した映画館、長崎宝塚劇場の前身である。

◆南座(明治42年~平成17年)
[満知多(みちた)座→三七三(みなみ)座→南座→長崎宝塚劇場→(廃座)]

南座は、東濱町の町田元吉が開いた勧商場(かんしょうば)、(※明治・大正時代、一つの建物の中に多くの店が入り、いろいろな商品を即売した今でいうデパート)の一角に設けられた寄席の満知多屋として誕生。

「長崎の正月は、南座の芝居から」と言われるほど、次々に千両役者を迎えての大歌舞伎興行を掛け、観客を魅了した。


満知多座、南座は知らずとも、宝塚劇場と言えば御存知の方も…

また、大黒町に「宮古座」、大浦の上田町には「七楽座」があった。どちらも繁華街には遠く地の利を得なかったため大歌舞伎には恵まれない、大衆に迎えられた劇場だった。

◆(明治32年~昭和20年)
[祇園座→大黒座→宮古座→東亜劇場→(原爆による焼失のため廃座)]

◆(明治20年~昭和39年)
[娯楽座→七楽座→大浦劇場→(火災による焼失のため廃座)]

昭和12年頃の七楽座について記した記事を、昭和34年発行『長崎手帖 No.35』に見つけた。芝居小屋の賑やかな様子が目に浮かぶようだ。

「……筆者はまだ小学生であったが、ラヂオもまだ少なく娯楽機関に乏しい時代で、こゝの芝居(※シバヤ)を見に行くのは楽しみであった。演し物は、義理人情、勧善懲悪をテーマとした、ヤクザ物が多かったようである。前狂言、中狂言、切狂言に分かれ前狂言は軽い演し物で之には一座の花形役者は出ない事が多く、中狂言は喜劇風な現代物もよく上演されていた。(中略)七楽座には、場末の小屋には珍しく花道や廻り舞台もあり、当時では立派な方ではなかったろうか? 三十四号の写真説明にもあったように木戸口を入ると、螺旋状の石段を三◯段ばかり昇った処に下足番がいて、下足札と引換えに履物は皆預ける様になっていた。一階は枡席になっており、座布団代は別に払わなければならなかったので、座布団持参の観客も多かった。」(「七楽座の思い出」桜井稲雄 より一部抜粋)

そのほかにも、今町(現在の金屋町付近)に「布袋座」、西浜町に「千鳥座」、東浜町に「喜楽座」などがあった

【コラム】やっぱり!長崎

外国人居留地、唯一の劇場
ナガサキ・パブリック・ホール

明治に入ると、中国や日本の港町を巡業する海外の劇団が長崎へも度々訪れていた。彼らは、長崎公演の数日前には必ず、「長崎シッピング・リスト」などの英字新聞に公演に関する広告を掲載。それを読んだ住民達は、劇団の芝居やコンサートなどの興業物に胸を躍らせ、続々と劇場へと詰めかけた。その公演場所は、大浦31番地にあった唯一の外人劇場「ナガサキ・パブリック・ホール」。明治初期には、“長崎クラブ”という外人の社交機関であった場所だが、その後改造され劇場となった。孔子廟裏門前、現在の日本キリスト教団長崎教会が建つ場所だ。明治28年(1895)12月4、5日、二日間に渡り上演されたのは、『大修道院長、アニー・メーイ』。新聞広告には、“愉快な、面白い、楽しい 抱腹絶倒の喜劇”との文字が踊った。


ナガサキ・パブリック・ホール跡には、現在日本キリスト教団長崎教会が建つ

日本劇場の観劇料は15~20銭程度(米一升〈1.4キロ〉が12、3銭の頃)だった当時、この観劇料が、上席2ドル、並席1ドル。1ドルが日本紙幣の1円10~15銭だったというから、外人劇場の方は、かなり高い観劇料だった。また、ナガサキ・パブリック・ホールでは、開演中に販売するコップ1杯10銭程の手作りアイスクリームが評判だったとか。


最後に--。
文化は、平和な時代に発展する、という。長崎の町が歩んできた道は、「芝居」という文化にも反映されていた。江戸時代にはじまり、明治、大正、昭和と、かつてこの町に存在し、人々を楽しませた数々の「芝居小屋」は、今はもうすべて姿を消してしまったが、当時慣れ親しんだ人々の胸に刻まれた思い出は消えることはないだろう。それはこれからも、きっと。

参考文献
『長崎の歌舞伎―長崎芝居年代記 第一集―』若浦重雄著、『太陽スペシャル 長崎遊学』(平凡社)、『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』姫野順一著(朝日出版社)、『長崎異人街誌』浜崎国男著(葦書房)、『長崎郷土物語』歌川龍平著(歴史図書社)