発見!長崎の歩き方

「長崎発!辞書のススメ」


『ドゥーフ・ハルマ』
(長崎歴史文化博物館所蔵)

元亀2年(1571)の開港から、日本における海外交流の舞台であった長崎の町。海外の文化を吸収するための必須条件、それは「言語」に通じること。そこで、今回のナガジン!では、かつての長崎で繰り広げられた「語学」の世界を覗き見。

ズバリ!今回のテーマは
「“辞書”が語る長崎の海外交流史」なのだ。


かつてナガジン!の特集で、「長崎を通過した舶来語」を取り上げたことがある。 ボタン(ポルトガル語)、パン(ポルトガル語)、てんぷら(ポルトガル語)、 カメラ(オランダ語)、ブリキ(オランダ語)、ランドセル(オランダ語)……

今、私達が普通に使っている言葉の中には、遠い昔に長崎に伝わり、それが全国に広がった、という言葉も多い――。

「コトバ」に通じること=あらゆる文化を吸収する基礎である。古くから海外交流の舞台であった長崎の町には、多くの異国人が往来し、市中に住み着いていたため、幅広い人々が交流を持ち、言葉を習得する環境にあった。しかし、さらに専門的に学び、全国へと発信していった人々がいる――。そこで、今回のナガジン!では、かつての長崎で繰り広げられた「語学」の世界を少しだけ覗き見。長崎で出版された、あるいは長崎ゆかりの人が手掛けた2つの「辞書」に注目し、その製作背景に迫ってみたい――。

イエズス会宣教師達が作った
『長崎版 日葡辞書(にっぽじしょ)』(1603)

※1 「長崎学」の第一人者、古賀十二郎氏の遺稿となった『長崎洋学史 上巻』の語学編には、古賀氏の想像を交えつつ、南蛮船が来航した頃の長崎の様子が描写されている。

 南蛮船の長崎に渡り来る頃、長崎の市民たちは、小児の時より、葡萄牙語を聞き慣れ、特に吉利支丹(きりしたん)などの中で、神学校に入り、学林(がくりん)などで教育を受けた者たちは、皆な葡萄牙(ぽるとがる)語や羅典(らてん)語を心得、これらの語に熟達してゐた者は、少くなかった。

来航したポルトガル人たちも日本語を覚え、なかには日本人女性と結婚する者もいれば、日本人にして南蛮の女性を妻とする者もいた。長崎市民はことごとくキリシタンだったので、教会に詣り、説教を聴聞し、讃美歌をうたい、諸儀式に臨み、その行列に常に参加する。また、南蛮貿易に参加し、商品の名称はもとより貿易用語などを心得ていなければならないから、ポルトガル語は、ごく自然に市中に浸透。当時、長崎人とポルトガル人の間には、通訳など必要なかったと考える、と古賀十二郎氏は書き記している。

※1 鎖国時代、唯一海外へ門戸を開いていた長崎ならではの、日本古来の文化と西欧文化とが溶け合って生まれた長崎独自の地域学。

《長崎発の辞書1》
長崎の辞書史のはじまりは、
イエズス会の宣教師および、
日本人伝道士達によって編纂された
『日葡辞書』だった。


『邦訳 日葡辞書』より

文禄4年(1595)、天草のコレジヨで印刷されていた『羅葡日対訳辞書(らほにちたいやくしょ)』をもとに長崎のコレジヨで制作されたこの『長崎版 日葡辞書』の見出し語は、なんと32,871語。意味の説明、用法や活用、例文の紹介などが詳細に記された、現代の辞書と比較しても見劣りしない、極めて完成度の高い辞書である。

この『長崎版 日葡辞書』が刊行された慶長8年(1603)といえば、徳川家康が征夷大将軍となり、徳川幕府が開かれた年。つまり日本史上、中世から近世へと大変動する過度期である。その頃の日本には、漢字を一定の順序に配列し、その読み、意味、用法などを解説した書物「字書(じしょ)」や、和歌や連歌の用語を集めた辞書しかなかった。そんな中、日常の話し言葉を中心に広範囲に渡り、各層の語を取り上げ、近代辞書の形態とほとんど変わらない辞書が、この長崎の地で生まれていたことは驚異そのものだ。

編纂(へんさん)にあたっていたのは、キリスト教の迫害が日に日に苛烈さを増していた頃。序文には以下のように記されている。

「今日は、キリスト教に対する迫害がひどくて、※2パアデレや日本人イルマンたちは以前よりも若干の時間的余裕が生じたので、年来不完全ながら存していたこれらの辞書(「1595年 天草版 羅葡日対訳辞書」など)を見直し、一層よく検討することができるようになった。そこでわれわれは、日本語をよく知っている者のうち何人かが、日本語に精通している数人の日本人の援助を得て、この辞書を検討増補して完成するために、数年の間精励して事にあたるようにしたのである。」

※2 司祭
※3 伝道士

さっそく、原本の複製である『邦訳 日葡辞書』を開き、アルファベット順に展開された【A】字で始まる語を見てみる

A ア(あ) I,RO,FA(い、ろ、は)で始まる日本語のアルファベット四十七個の音節文字のうちの一つの名称。また、A(あ)は、日本語の五つの母音A,I,V,YE,VO(あ、い、う、え、お)の第一の母音。

Aa アア(ああ) 苦しみや、悲しみの感動詞。 //例、Aa canaxij cana(ああ悲しいかな)ああ悲しいことよ。 //また、時としては驚嘆の感動詞。 例、Aa vobitataxiya(ああ夥(おびただ)しや)なんと大きなことよ、または、ものすごいことよ。 また、喜びの感動詞。 例、疑いの感動詞。 例、Aa vobotcucanaicoto cana(ああ覚束ないことかな)なんと疑わしいことよ。 //また、この語は、人の言ったことに同意したり、是認したりする時に、‘そうだ’と答える助辞である。> AH

Aara, 1,ara. アアラ。または、アラ(ああら。または、あら)感動詞。意味は上の語に同じ。ただし、Aa(ああ)よりも頻繁に用いられ、一層普通の語。 例、Aara vrexiya(あら嬉しや)、Aara canaxiya(あら悲しや)、など。

以降、Aba アバ(網場)、ABAqe,uru,eta アバケ、クル、ケタ(褫け、くる、けた)、Abaqemono アバケモノ(あばけ者)……と続く。


『邦訳 日葡辞書』より

400年以上も前に、主に異国人によって制作された辞書とは思えない完成度。しかし、ここまで詳細に、日常会話に対して解説を加えたこの辞書がなぜ作られたのか。その目的を考えるとその必要性も、極めて詳細な内容についても理解できる。それはすべて、宣教師達の「布教活動」のためである。

宣教師の主な職務は2つに大別できる。ひとつは「説教師」で、もうひとつは「聴罪師」。つまり、異教徒の日本人にキリスト教を説いて、その信仰に導かなければならないのだから、教義に関する言葉は、言語であるラテン語やポルトガル語を用いるが、それを説明するのは日本語である必要があった。当時の日本では、方言が分裂していて、京都の言葉を標準語とする気運が強かったので、イエズス会の宣教師達の話し言葉は京都語。聴衆から軽蔑されることなく、正確で美しい言葉、しかも有識階級も説得できるような表現が必要とされた。

そして、信徒であるキリシタン達の日本語による告白を聴く「聴罪師」の役割を担うには、自らは美しい京都語を話ながらも、方言や卑語なども含む広範囲な日本語を知る必要があった。それは、日本人教徒の中には、教養が低く方言しか話せない下層階級の人々も多くいたからだ。神に代わり適切な指導を与える「聴罪師」は、豊富な知識を持つ熟練の宣教師が担当したという。

語彙が豊富な日本語は、その用法も多用。日常の話し言葉と説教の際に使う言葉も違えば、書物と書状とでも文体が異なる。しかも、それらの中には中国語が取り込まれていた――。『長崎版 日葡辞書』が刊行されて以降、イエズス会以外の宣教師達もこの辞書を頼りに日本語をマスターし、信徒達とコミュニケーションを図った。また、日本人自身にとっても、自分達の多様な言語を把握する上で、大いに役立ったのだった。

辞書成立の陰にこの人あり。

実は、このような本格的な日本語研究に影響を与えたのは、天文19年(1550)、ザビエルと共に来日したスペイン人のイエズス会修道士フアン・フェルナンデス(1526-1567)だった。徳と言語能力に優れて、日本語を通訳できた初めてのイエズス会員。後に宣教長のトレス神父の補佐として様々な所を訪れ、大村純忠の洗礼などにも影響を与えた人物だ。また、永禄6年(1563)に来日以降、滞日30年余り、信長から秀吉へと続いた激動の時代を生き、彼らとも接触。信長への謁見は実に18回を越えたというルイス・フロイスもまた、フェルナンデスから日本語や日本古来の風習などを学んだ。

そんなフェルナンデスが、1564年、肥前の度島(たくしま)で著した日本文典と日葡・葡日(ほにち)辞書。たまたま与えられた余暇を利用しての著述だった。フロイスは、その稿本を手元に置いて、20年に渡って加筆することを怠らなかったという。そのような歴代宣教師の研究の成果が実って出来上がったのが、高い完成度の『日葡辞書』だった。


【次頁につづく】

発見!長崎の歩き方

「長崎発!辞書のススメ」

南蛮貿易をきっかけとして、東西交流の舞台となった長崎。特に、17~19世紀、唯一海外に開かれた窓となった鎖国時代の長崎の役割は大きく、一躍国際貿易都市に発展。海外の文化を吸収し国内に発信する発信基地の役割を担った。そんな中で多くの「辞書」が誕生している。そしてその制作に関わったのが、主にオランダ(オランダ商館)と日本の橋渡しを担う阿蘭陀通詞の面々だった。

18世紀末から盛んになった
各国語の訳語辞典

辞書成立の大きなきっかけは、享保5年(1720)、徳川吉宗によって許可された出島での学術書輸入だった。それによって、近代西洋文明の導入と、長崎通詞達の各国語の習得が試みられたのだ。そして、18世紀末~19世紀初頭にかけて、※4魯(露)日、英日、仏日、蘭日辞典が編纂された。

※4 江戸から明治時代にかけて使用されていたロシアの漢字表記。

ロシア
『和魯対訳初歩』『魯和対訳字書』
文化元年(1804)~文化2年(1805)

文化元年(1804)、通商を求めて長崎に来航したロシア使節レザノフは、翌年の出帆まで長崎に滞在するうち、『和魯対訳初歩』『魯和対訳字書』を編集している。このレザノフの来航、フェートン号両事件を機に、英語とロシア語の習得が、阿蘭陀通詞達に命じられることとなった。

イギリス
『諳厄利亜語林大成』
文化11年(1814)

文化5年(1808)の※5フェートン号事件をきっかけに幕命を受け、通詞達がオランダ商館長ヤン・コック・ブロンホフの指導の下、英語に取り組んだ成果として誕生したのが『諳厄利亜国語和解(あんげりあこくごわげ)』(諳厄利亜興学小筌)。これを元に、文化11年(1814)、阿蘭陀通詞 本木庄左衛門正栄、楢林高美、吉雄権之助ら編集による『諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)』が完成。約6,000語を収載する、これが最初のまとまった英和辞書であった。



本木正栄自筆の草稿本『諳厄利亜語林大成』
(長崎歴史文化博物館所蔵)

※5 イギリスの軍艦がオランダ国旗を掲げて入港し、職員を人質に交易を迫った事件。

フランス
『払郎察辞範』
文化末年(1814-17)頃

阿蘭陀通詞 本木庄左衛門正栄が、フランス語の習得を志し、楢林、吉雄両氏と共に、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの指導を受けて編集したピーテル・マリーンの『仏蘭辞書』を編集した『払郎察辞範(ふらんすじはん)』が、最初のフランス語の辞書。その成立はさだかではないが、文化末年(1814-17)頃と見られている。




『払郎察辞範』
(長崎歴史文化博物館所蔵)

オランダ
『ドゥーフ・ハルマ』
天保4年(1833)

フランソワ・ハルマが編修した『蘭仏辞典』をもとに、日本初の蘭和辞典『波留麻和解(はるまわげ)』が寛政8年(1796)に完成。いわゆる「江戸ハルマ」で、これに対し、同じくフランソワ・ハルマの『蘭仏辞典』に出島オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが吉雄権之助ら阿蘭陀通詞11名の協力を得て、訳語をつけた『ドゥーフ・ハルマ』を長崎で編纂。「長崎ハルマ」と呼ばれた。しかし、その作業期間は約22年。完成したのは、ドゥーフ帰国後の天保4年(1833)だった。


『ドゥーフ・ハルマ』
(長崎歴史文化博物館所蔵)

《長崎発の辞書2》
英語教育の転換期を切り開いた男の功績、
初の英和辞書『英和対訳袖珍辞書』を編集したのは、
長崎の阿蘭陀通詞だった。

"I can speak Dutch.(私はオランダ語を話すことができます)"――ホークスの「ペリー艦隊日本遠征記」にも記述されているこのフレーズは、嘉永6年(1853)、ペリー来航時に日本側の主席通詞を勤めた阿蘭陀通詞・堀達之助(1823~1894)によるもの。この達之助の第一声は、鎖国の扉を押し開いた象徴的なもので、彼は日本人が公式外交の場で外国人と英語を話した最初の日本人となった。

フェートン号事件を機に、初めて公に英語を学びはじめた長崎の阿蘭陀通詞達。その成果は6年後に完成する日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」として結実した。この辞典の編纂者のひとりである楢林栄左衛門が、実は堀達之助の義理の祖父にあたる。達之助は大通詞・中山作三郎の五男として誕生したが、後に同じく阿蘭陀通詞の家系である堀家の養子となる。養父は、※6シーボルト事件に連座し入牢させられた堀儀左衛門。達之助が5歳の時だった。その後、通詞職の階段をのぼっていった達之助は、「最初の英語教師」ラナルド・マクドナルドに英語を学んだ。そして、ペリーと対面の日が訪れたのだ――。

後に達之助の編集によって、文久2年(1862)、幕府の洋書調所から日本初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書(えいわたいやくしゅうちんじしょ)』が1年9ヶ月という異例の早さで完成、発行された。訳語は派生語も含めて約6万語。1,000ページ近くもあり、その60~70%は、『和蘭字彙』によるもの。つまり、長崎の阿蘭陀通詞がオランダ語の知識を駆使し、英語学習と辞書の編纂を続けることで達した集大成というべき辞書であった。


『改正増補英和対訳袖珍辞書』(1867)
(長崎大学附属図書館経済学部分館武藤文庫所蔵)

※6文政11年(1828)9月、オランダ商館医のシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方兼書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分。シーボルト自身も出島に1年間軟禁の上、文政12年(1829)、国外追放の上、再渡航禁止 の処分になったというもの。

辞書成立の陰にこの人あり。

長崎の阿蘭陀通詞達に英語を教えたのが、インディアンの血を引くラナルド・マクドナルド(1824-1894)というアメリカ人。日本に憧れた彼は、江戸末期、北海道沖で捕鯨船を降り、ボートで利尻島に上陸。密入国者として捕らえられ長崎に護送されてきた人物だ。彼は長崎で崇福寺の末庵である大悲庵に幽閉されたのだが、当時の長崎奉行から英会話の指導者に任命され、14名の若い通詞達に英語を指導した。この14名の中には堀達之助の名前はないが、彼もマクドナルドに師事したものといわれている。牢格子を隔てたマクドナルドと向かい合い、音読するなどの方法で英会話の指導を受けたという。


上西山町にあるマクドナルド顕彰碑


大悲庵は顕彰碑が建つ道向かいにあった


最後に--。
今回注目した「辞書」以外にも、まだまだ長崎ゆかりのものがある。ラナルド・マクドナルドが10ヶ月の日本滞在中に作った単語集をアルファベット順に整理した『日英語彙』には、「セ」が「シェ」、「ゼ」が「ジェ」になるなど、長崎の方言やイントネーションまで記されているし、安政6年(1859)に長崎で出版されたビジネス用会話集『長崎版会話書』というものもある。「辞書」の世界でも長崎は通過点。長崎の豊かな歴史の足跡が辿れるようだ。




『長崎版会話書』
(長崎県立図書館所蔵)

参考文献
『長崎洋学史 上巻』古賀十二郎著(長崎文献社)、『辞書遊歩--長崎で辞書を読む--』園田尚弘、若木太一編(九州大学出版会)、『邦訳 日葡辞書』土井忠生、森田武、長南 実編訳(岩波書店)、『長崎県の教育史』外山幹夫著(思文閣出版)、『マクドナルド「日本回想記」 インディアンの見た幕末の日本』ウィリアム・ルイス、村上直次郎編 富田虎男訳訂(刀水書房)