発見!長崎の歩き方

「幕末の名奉行・岡部駿河守という男」


激動期にある安政5年(1858)に長崎入りした112代長崎奉行・岡部駿河守という人物に着目。新風吹き荒れる幕末の長崎において、泰然たる態度で次々に町に変革をもたらした名奉行の、その偉業とユニークな人物像に触れる。

ズバリ!今回のテーマは
「幕末、長崎のグランドデザインを描いた男」なのだ。


出島のカピタン(商館長)の中でも、とりわけ著名なヤン・コック・ブロムホフ。彼が文政元年(1818)に妻子同伴で着任したことは有名な話だが、その40年後の安政5年(1858)年、今度は江戸からやってきた新奉行の岡部駿河守が妻子同伴で※注1長崎入りした。

長崎が天領となり、幕府直轄の奉行所が置かれたのは、文禄元年(1592)。当然、長崎奉行が最高の役職で、外国貿易や長崎の司法と行政を統括。設置から慶応4年(1868)まで、実に124代123人に及ぶ長崎奉行が誕生した。その中で、激動の幕末長崎を統治した長崎奉行が112代、岡部駿河守長常(おかべするがのかみながつね)である。


江戸時代から続く長崎土産の古賀人形のモチーフになったブロムホフの妻子

当時の記録には「始めて家族を携ふ」と大事件扱いにされたとか……。

鎖国が解け、開国の一歩を踏み出した安政5年とはいえ、今で考える女性の地位とは別格で、まだまだ低いまま。なんせ幕府禁制の一つに「※注2入り鉄砲に出女」というものがあった時代。江戸屋敷にいる大名の婦女から一般婦女まで厳しく取り締まられていた。そんな時代の慣習の中、遠く西国の果て、長崎にまでかつて前例のない妻子連れで来た岡部駿河守とは、はたしてどのような人物なのだろうか……。

※注1/この頃の長崎奉行は2人制で、1年交代で江戸と長崎に詰めていた。岡部駿河守は、安政4(1857)12月に長崎奉行に着任(江戸詰め)、翌年9月に長崎入りした。

※注2/「入り鉄砲に出女」の入り鉄砲とは、江戸府中に鉄砲など武器類の不法持込みのこと。出女は、江戸屋敷にいる大名の家族婦女の無断帰国を指し、諸藩の謀反防止策であった。

岡部駿河守の履歴書
有言実行!開明派の逸材!
幕末長崎を動かした男

112代 長崎奉行のプロフィール
岡部駿河守長常(おかべするがのかみながつね)
文政8年(1825)~慶応2年(1866)。享年42歳。

岡部駿河守は、小姓→目付→外国奉行→長崎奉行→大目付と、見事に出世コースに乗った優秀な幕臣だった。彼の性格の一端を物語るエピソードが残っている。

将軍の言うことを、ただ黙って取り次ぐのが仕事である小姓の頃、時の将軍、徳川家慶にこう進言した。
「女色飲酒を節制のこと、縁故の者の内願による女官の登用は差控えること」。

こともあろうか小姓の分際で将軍様に進言などと……そんなことをすれば「切腹」という前例もあったというが、この時、家慶からの咎(とが)めはいっさいなく、むしろ、このことが昇進のきっかけとなったとも伝わる。そんな岡部駿河守が、新奉行となって長崎にやって来た!さて、彼の手腕はいかほどのものなのか?

岡部駿河守が着任したのは、長い鎖国の後、5ヶ国条約によって諸外国に門戸を開いた安政5年。長崎が、日本が大きく動きはじめた年だった。4年間の任期中、岡部駿河守は、華やかでいて波乱に満ちたこの「幕末の長崎」の発展に力を注いだ。では、思ったことは何でもテキパキこなしたという彼の仕事ぶりを振り返ってみよう。

岡部駿河守のお仕事1
外国人居留地の造成
「町を拡大して外国人を受け入れます!」

まずは、最初のお仕事。外国人居留地の町づくりである。

安政5年(1858)年の6月、日米修好通商条約を調印したのを皮切りに、日英修好通商条約から続く9月末までにオランダ、ロシア、フランスとも同様の条約を締結した、いわゆる5ヶ国条約。これらの条約(修好通商条約)は翌年から実施。長崎港は再び貿易港として開かれた。開港場には、条約国の人達の住居を設けるのが当然の成り行き。しかし、長崎の市中には人家が密集し、平地がないので、外国人の住居や倉庫を建てる場所が少なかった。前年の安政4年(1857)10月頃には大浦海岸一帯をそれに当てる計画で、すでにその月から大村藩領から公領地となり、長崎代官の支配下に入っていた。そこへ外国人居留地造成という幕府の命を受けた長崎奉行 岡部駿河守の登場である。

結局、外国人居留地は、長崎港の大浦海岸一帯を埋め立てる方向で着手された。これは岡部駿河守の着想によるもだといわれている。岡部駿河守は、当初、長崎奉行監督のもと長崎貿易を独占していた長崎会所の利銀(貿易で儲けたお金)をもって、新地辺りから大浦海岸一帯を埋め立てる計画を持っていたが、この時、すでに会所の財政が苦しかった。そこで岡部駿河守は、出島の例に倣い、市中の町人から出資者を募り、埋め立てを請け負わせ、完工の後、外国人から徴収する地代で償還する計画を立てる。

しかし、長崎の町人達の間ではなかなか請け負う者がなく、最初、請け負ったのは、天草赤崎村庄屋小野織部という人物だった。埋め立て工事は、三期に分けて工事が進められたが、第一期、第二期、約1万8000坪の埋め立てを請け負ったのは、この小野氏だった。そして、さらに南に拡大するべく第三期の浪の平海岸一帯の埋め立てを請け負ったのが、長崎の豪商、小曽根六左衛門だった。その工事は、万延元年(1860)10月に終わり、幕府はこの埋め立て地の北半分を外国人居留地と指定し買い取った。


埋め立てられた大浦海岸通りは、慶応元年(1865)、グラバーが我が国で初めて蒸気機関車を走らせた場所

その後も埋め立ては梅ヶ崎海岸まで拡張されるなどして居留地すべての工事が完成したのは、文久3年(1863)だった。その後に区域を決め町名がつけられたというから、岡部駿河守が外国人居留地の全貌を見ることはなかったが、知恵と実行力でもって、外国人居留地事業を推し進めていった姿が浮かび上がる。


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「幕末の名奉行・岡部駿河守という男」


岡部駿河守のお仕事2
諸外国人との間
「外国人との関係作りに努めます!」

いくらそれまで、世界に開かれた日本の窓口であった町とはいえ、オランダ人と中国人に限った貿易だった鎖国時代とは勝手が違う。アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、はたまたトルコ人、アラビア人と世界各国から貿易商人達がやって来たのである。出島や唐人屋敷の一応、閉鎖されていた中での関わりとは違い、新しく来た外国人達の生活はあけすけで、彼らの持ち物を盗む「こそ泥」や、外国人の増加によって急増した肉の需要に伴い、奉行所が認可した牛馬売込人(ぎゅうばうりこみにん)が登場。彼らによる「肉の闇取引き」が横行するなど、新種の犯罪が増えた。

寛文6年(1666)~慶応3年(1867)の200年間に及び145冊にまとめられた長崎の町で起きた事件記録、『犯科帳』収録の安政以降の事件は、まさに世相を反映している。

その『犯科帳』から、岡部駿河守の在勤中である安政6年(1859)の事件をひとつご紹介。

とある英国船の水夫ヤーメス・コンローが、長崎の町で人に勧められ馬に乗った。しかし、あまりにへたくそで馬は一向に進まず、危なっかしい。それを珍しがった見物人が増えてきた。その中の一人、船大工町の次助が覚えたての異国言葉で「上手だ」と冷やかした。すると、周囲もはやし立てヤーメス・コンローは立腹。馬から下りて次助に迫ろうと見物人の元へ駆け寄ってきたが、次助は頓挫(とんざ)。逆に見物人達が大勢でヤーメス・コンローを袋叩きにして傷を負わせ逃げた。それからややこしいことに、そこへ通りがかったイギリス人が仲間の負傷に憤り、持ち合わせていた剣や棒を振り回し、何も関係のない日本人4人に傷を負わせ立ち去ったのである。すぐに次助は捕えられ、急度(きっと)叱り処分となったが、ヤーメス・コンローを殴ったものは現れず……。そこで、長崎奉行の登場。岡部駿河守は、英国領事のコンシュル・ショウエスモリソンに掛け合い、事件に関係のない日本人を傷つけたイギリス人達を英国の法によって処罰されるよう懇請した。

開国後、このような諸外国人とのイザコザはあとを絶たず、事件の度にいちいち各国の領事に連絡し、しかもその多くは※注3江戸表へ伺いを立てなければならなかったというから、岡部駿河守は本当に職務に忙殺されていたことだろう。

※注3/「江戸表」とは、政治や文化の中心地である江戸を、地方から指していう言葉。

岡部駿河守のお仕事3
小島養生所と稲佐花町
「市民の身体を守ります!」


現在の長崎県庁の場所に開設された長崎海軍伝習所


佐古小学校敷地内に建立された記念碑

実は岡部駿河守は、安政2年(1855)に開設した長崎海軍伝習所に目付として赴任している。教授科目は、航海術、運用術、造船、砲術の実技、天測の実技、数学、蒸気機関、鉄砲調練などなど。その伝習を監督するのが、彼の任務だった。任期中の安政4年(1857)には、幕府がオランダに発注した新建造軍艦ヤッパン号(咸臨丸)が長崎港に入港。なかにはオランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト、オランダ海軍機関将校のヘンドリック・ハルデスの姿もあり、この年、新たに伝習生として松本良順(りょうじゅん)らが入所。第2次の海軍伝習が始まった。

この時の出会いが、長崎奉行として着任した後の仕事に影響してくる。







ポンペと松本良順、彼らはいわずと知れた長崎大学医学部の創設者。岡部駿河守は、ポンペ・松本良順らの解剖、病院の設立、貧民医療などにも便宜を図った。小島郷の高台(現在の佐古小学校の場所)にわが国最初の西洋式付属病院「小島養生所」が完成したのは、文久元年(1861)9月のことだ。

また、その前年の万延元年(1860)。8月に入港したロシア艦ボスサジニカ号がマストの修理で長期滞在となった。その際、稲佐の地に丸山町と寄合町の遊女が出張してロシア人の船員達の相手を務めることになった。それに対しロシアの提督ビリノフは、遊女の梅毒検査をすることを要求。岡部駿河守は良順に対応を諮問し、それに対して良順は受けるべきだと回答した。これにより、日本初の梅毒検査が長崎で実施され、同時に稲佐花街も誕生したのだった。

岡部駿河守のお仕事総括
町のグランドデザインを描き
導いた結果が今の長崎のカタチ

そして、ハルデスを主任技師として、日本人の職工たちがオランダから取り寄せた工場のねじ切り盤や、工作機械を操りながら西洋科学を習得し文久元年(1861)3月に完成したのが日本初の本格的な洋式工場「長崎製鉄所」である。

その他、輸出用の製茶出張所の設置や亀山焼窯の再興、外国人相手の商人の営業組合結成、踏み絵の廃止、英語伝習所創設など、岡部駿河守は、激動期の長崎で繊細かつ大胆な仕事を泰然と行っている。

時流を捉え、この町が持つ歴史性、地域性、可能性を発揮する「町づくり」。在勤中、岡部駿河守は、柔軟な発想と迅速な行動力、決断力で、進みゆく長崎の町のグランドデザインを描き、推し進めた長崎奉行だった。

彼の最後の仕事は、文久元年(1861)大浦川上町に造設した居留外国人の墓地(大浦国際墓地)だった。そして、グラバーが「グラバー商会」を旗揚げし、長崎が新たな局面を迎えたその年の9月、岡部駿河守一家は、江戸へと向かった。陸路での往来が定番だった長崎奉行。着任の際は日見越えだった岡部駿河守の帰途は海路だった。それは、忙殺された4年間、なかなか省みることのなかった妻子への思いやりだったのかもしれない。




最後に--。
後に歴代奉行の中でも随一の人材といわしめる岡部駿河守。見識豊かな開明派。まさしく、当時、激動の真っただ中にあったこの町を取り仕切る最高管理者としては適任だったことだろう。今も見回せば、名奉行 岡部駿河守の仕事を町なかに見つけることができる。現代に置き換えて考えてみても4年間の彼の激務は計り知れない。あらためて長崎の発展に寄与した偉大なる150年前の名奉行に感謝!である。

参考資料献
★参照ホームページ
長崎大学付属図書館医学分館所蔵 近代医学史デジタルアーカイブズ

★参考文献
『長崎居留地 一つの日本近代史』重藤威夫著(講談社)、『新釈犯科帳 第1~3巻』安高啓明著(長崎文献社)、『犯科帳』森永種夫著(岩波書店)、『埋もれた歴史散歩 長崎 唐紅毛400年のロマン』田栗奎作(白馬書房)、『長崎異人街誌』浜崎国男著(葦書房)