発見!長崎の歩き方

「コンプラ瓶で海を渡った醤油」


出島から出土した「コンプラ瓶」/出島ホームページより

日本の「醤油」を初めて口にした外国人と伝わるのはポルトガルの宣教師達。後に出島オランダ商館の商館員が「コンプラ瓶」と呼ばれる特注の瓶に詰め、海外へ。海を渡った江戸時代の「醤油」に迫る。

ズバリ!今回のテーマは
「江戸時代から、醤油は日本のブランド品だった!」なのだ。


日本の代表的な調味料「醤油」。私達の暮らしに欠かせない醤油は、いつ頃から、作られ、食されるようになってきたのだろうか?

日本の「醤油」の起源は中国。文献で確認できる最古の「醤」の記載は、701年に制定された大宝律令に載る「醤(ひしお)」を司る役所についての規定で、ここで表されている「醤」は大豆、米 麹、小麦、塩などであると記されている。つまり、中国から製法が伝わった「醤」は、すでに奈良時代の人々も口にしていたのだ。

コンプラ瓶で海を渡った醤油
ポルトガル人宣教師も口にした!?
私達、日本人の味「醤油」

それでは、この日本の味「醤油」を初めて口にした外国人は誰だろう? お察しの通り、南蛮貿易とキリスト教の布教で来日した、ポルトガル人だったようだ。というのも、最初に渡来したイエズス会の宣教師達が、布教の必須アイテムとしての日本語を習得するために、心血を注いで製作した『日葡(にっぽ)辞書』の中に、明らかに「醤油」と思われるアイテムの記述があるからだ。


『邦訳 日葡辞書』より

Xoyu ショウユの文字『邦訳 日葡辞書』より

「Xoyu ショウユ 酢に相当するけれども、塩からい或る液体で、 食物の調味に使うもの。別名Sutateと呼ばれる」
「Sutate スタテ 日本で食物を調理し、味をつけるために非常によく使われる、小麦と豆から製するある液体」
「Tamari タマリ Misoから取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」

しかし、そこに記されたものは、原料、作成方法などは類似してはいるものの、現代の「醤油」とは同じものであるかは疑問。ショウユと記された「Xoyu」は、どうも「酢」のようであり、この文章の内容で現在の「醤油」に最も近いのは「Sutate」のようだ。

宣教師達が口にしたであろう「醤油」の味は定かではないが、ともかく外国人の舌にも合ったのだろう。やがて、日本の味覚として世界へ旅立つこととなる。

島原の乱などの混乱を機にキリスト教布教と植民地化を防ぐため、ポルトガル人は国外追放。日本は鎖国体制を整え、かつてポルトガル人収容のために築かれ無人となった「出島」に、寛永18年(1641)に平戸からオランダ東インド会社の商館が移されると、オランダの独占貿易が開始。「出島」は、日本において世界に開く唯一の窓口となった。オランダ商館との貿易で、日本は主に銀・銅・樟脳(しょうのう)などを輸出したが、ほかにも様々な輸出品が海外へと流通した。その中には日本の「醤油」もエントリー。オランダ人達は、「醤油」は売れる!と、確信したのだろう……記録が残る「醤油」初めての船出は1647年、オランダ統治下にあった台湾の安平商館へ、10樽が海を渡っていった。

では、ひとつ疑問! オランダ人達は、我が国の愛すべき調味料「醤油」を美味しい!と感じて輸入していたのだろうか?

前述したように日本の「醤油」は中国が起源で、もともと「醤(ジャン)」の仲間。豆板醤、甜麺醤(テンメンジャン)、コチュジャン、はたまたタイのナンプラーやベトナムのニョクマムに代表される魚醤など、オランダ東インド会社の商館が分布する東南アジア諸国は「醤(ジャン)」の宝庫だった。もちろん、オランダ料理には使わないし、当時のヨーロッパ人には全く馴染みのないもの。しかし、オランダ人達が日本の「醤油」に触れた瞬間、「これは最新の調味料!「醤」の宝庫、東南アジア諸国では売れ筋かも!」などと、販売場所を東南アジアに限定しピックアップオランダ東インド会社のアジア本店があったバタビア(現ジャカルタ)をはじめとした各地へ頻繁に運ばれた。また、いつ頃か不明だが、バタヴィア経由でオランダ本国へも移送されるようになったという。

コンプラ瓶で海を渡った醤油
変わらぬ味を世界の人々へ
品質を守る「コンプラ瓶」

これまでの出島の発掘調査にあたり、出島敷地内および、護岸石垣周辺から当時の国際交流の様子を物語る出土品が発掘されている。ワイングラス、調理用具、食器類、商館員達が愛用していた「クレーパイプ」、ヨーロッパやアジア諸国の輸入陶磁器、洋式銃と弾、また、オランダ東インド会社が発注し、社章「VOC」マークが入った伊万里焼……そして、酒や醤油を入れた陶磁器の白い瓶「コンプラ瓶」だ。


出島から出土した「コンプラ瓶」/出島ホームページより

ところで、この「コンプラ」とは、どういう意味だろう。

これは、ポルトガル語の「Comprador(コンプラトール)=買い手」を語源としたもの。実は鎖国以前、ポルトガル人と交易を行っていた時代から、長崎には貿易相手である外国人達を相手に、輸出品から日用品、および貨物梱包品など諸々の品を日本人との間に入って代わりに買い求める仲買商人達で構成する「出島諸色売込株仲間」という組織があった。寛文6年(1666)には、長崎奉行から認可を受けて正式に発足した彼らは、自ら「コンプラ株仲間」または「コンプラ商人」と名乗り、定着。彼らのその活動は幕末の対蘭、英、仏、露との通商条約締結まで続いたという。

つまり、彼ら「コンプラ商人」達が取り扱ったことから「コンプラ瓶」と呼ばれるようになったという訳。記録によれば、「コンプラ瓶」がはじめて使用されたのは1790年のこと。さらに盛んに生産されるようになったのは1820年代と考えられているそうだ。

「コンプラ瓶」以前、「醤油」は国内同様、木の樽に入れられていたと考えられているが、長い船旅で揺られ、高温多湿の東南アジア地域に出荷された際に劣化し、風味が保てない……考えたオランダ商人たちは、自分たちが持ってきていたワインの空き瓶の再利用を思いつき、実践するが、次第に増える「醤油」の輸出量にリサイクル瓶が追いつかない。そこで、コンプラ商人達が目を付けたのが、かつて輸出用の多種多様な青磁で一世を風靡し、丈夫さが自慢の磁器の産地、波佐見の窯場の存在だった。

さっそく、「コンプラ商人」から「醤油」や「酒」などの輸出用容器の製作依頼が波佐見にもたらされ、「コンプラ瓶」を生産するようになった。

「コンプラ瓶」の表面に呉須で書かれた文字は2種類。「JAPANSCH ZOYA」(日本のしょう油)と「JAPANSCH ZAKY」(日本の酒)とオランダ語での表記。中身が明記されていること、そしてコンプラドールを略した「CPD」という一種の商標が入っていることが最大の特徴だろう。「コンプラ瓶」は波佐見で生産された後、長崎に運ばれ、中身の「醤油」や酒が入れられ、出島から海外、東南アジア諸国やヨーロッパへ向けて船積みされていった。生産が開始されて以降、大正時代まで生産し続けた波佐見の窯は、三股・永尾・中尾の諸窯だったという。
ちなみに、瓶のデザインは、日本のお酒を入れる徳利(とっくり)が見本となっているのだとか。


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「コンプラ瓶で海を渡った醤油」

コンプラ瓶で海を渡った醤油
実は誕生間もない「醤油」
「コンプラ瓶」の中身も進化!?

では、肝心な中身に入っていた「醤油」について調査してみよう。日本人はどのように「醤油」を作り、活用していたのだろうか?

現代において私達が口にしている「醤油」の原型は、鎌倉時代に宋から帰国した覚心(かくしん)という僧が伝えた径山寺(きんざんじ)味噌にあるといわれている。その覚心が、紀伊半島・湯浅の(和歌山県)「鷲峯山興国寺」で大豆と小麦、塩で作った味噌の上澄みに出来てくる美味しい液体を料理に使ったのが「たまり醤油」であり、それが源となり全国へと伝わっていったのだという。

そして早くも1580年頃には径山寺味噌の産地、紀州・湯浅に日本最初の醤油製造業「玉井醤」が創業している。

日本の「醤油」は大きく2種類、味噌の上澄みからできる「溜まり醤油」と、日本酒に近い製法の「本格醤油」。覚心和尚が中国から製法を持ち帰った「径山寺味噌」から得られた調味液は「溜まりしょうゆ」の系統で濃厚な味わいを持つ「醤油」。

文献に16世紀頃から「シヤウユ」の用語が見えるようになるが、それはまさにその頃だろう。

江戸時代初頭頃より、堺を中心とした地域で大量に生産されるようになった「醤油」は酒屋で作られたもので、製法や原料の比率も今日のものに近い。これがやがて江戸に集まる人口への供給のため、「下り醤油」として大量に関東へ移送。17世紀になり、紀州・湯浅の浜口儀兵衛(現在の「ヤマサ醤油」)が銚子に移り、関東醤油の基盤を築き、「醤油」は江戸の町で発展した。江戸の町で発展していった庶民の味「寿司」「てんぷら」「そば」などに使われるようになって、日本料理のベースを司る調味料へと発展を遂げたのだった。

では、長崎から輸出された「醤油」がどこで作られていたか、というと、当時名産とされていた大坂・堺。当時堺には4軒の醤油製造業者があったのだ。

そして、堺から長崎までの運搬に使われたのが、中国から長崎に入ってきていた生糸を堺に運ぶために定期的に運航されていた「堺糸荷回船」の帰りの便船。この船に大坂・堺産の「醤油」が積み込まれ、長崎・出島へと運ばれてきたのだった。

さて、日本でも誕生間もない「醤油」、当時、海外へ輸出されていた「醤油」の「お味」はどんなものだったのだろうか。

関西の「醤油」というと「薄口!」と思いがちだが、薄口醤油が誕生したのは、播州(岡山県)龍野で1666年のこと。それが、関西に伝わったのは、1851年以降だといわれていることから、「薄口醤油」ではないようだ。江戸時代初頭まで、関西の「醤油」は「溜まり醤油」が一般的で、17世紀中頃から清酒を漉(こ)す技法を転用した醤油のもろみを漉し取った「澄み醤油」へ移行し生産が増大していった。
そのお味は、現代の「醤油」と比べて旨味と香りが少なく、塩分が高いものだったとか。そして、18世紀に入ってからは、関東で製造されはじめた「濃口醤油」が関西でも作られるようになり、「薄口醤油」とともに主流となることで「澄み醤油」は姿を消していった。

江戸時代は「醤油」製造の変革期。出島から「JAPANSCHZOYA」と記された「コンプラ瓶」に入って、海を渡っていった「醤油」は、この「醤油」の発展とともに、「溜まり醤油」→「澄み醤油」→「濃口醤油」と、時代ごとに中身を変え、海外の人々に親しまれていったと考えられている。

コンプラ瓶で海を渡った醤油
味、製造法、パッケージ!
「醤油」を見つめた商館の人々

ここで長崎ゆかりの海外の著名人が、「醤油」に接した時のコメントを、それぞれの著書からみつけてみよう。

〈エンゲルベルト・ケンペル/オランダ商館医 滞日 1690~1692〉

「ソーユ醸造には、やはり空豆を或る程度の柔らかさまで煮る。ムッギ、すなわち大麦か小麦かいずれかの麦(小麦から作るものの方がどちらかといえば黒くなる)を粗くすり潰す。
そして等量の食塩、すなわち、それぞれを一枡ずつ、空豆はすり潰した麦と混ぜ合わせたものをくるんで、温かい場所に一昼夜置き、発酵させる。ついで、その塊を甕に入れ、上述の食塩で包み、二枡半の水を注ぐ。そしてその塊に翌日まであるいは数日の間、きっちり蓋をしておき、少なくとも一回(二回とか三回であればなおのことよい)は柄杓でかき回すこの作業を二ヶ月から三ヶ月の間続けた後、塊を濾して絞り、液体を木桶に保存する。液体は古くなればなるほど返って澄んでくるので、よくわかる。こうして絞ったあとの塊に再び水を注ぎかけて、数日間かき回し、また絞るのである」(『廻国奇観』より)


出島ホームページより

〈カルル・ペーテル・ツュンベリー/オランダ商館医 滞日 1775~1776〉

「(日本人は)非常に上質の醤油を作る。これはシナ(中国)の醤油に比して遙に上質で ある。多量の醤油がバタビア(ジャカルタ)、印度(インド)、及び欧羅 巴(ヨーロッ パ)に運ばれる。」
「和蘭(オランダ)人は醤油に暑気の影響をうけしめず、又その醗酵を防ぐ確かな方法 を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰とし、その 栓に瀝青(れきせい)を 塗る」(『ツンベルク日本紀行』より)


ツュンベリー肖像画・模写/長崎市立博物館蔵

〈ヘンドリック・ドューフ/オランダ商館長 滞日 1803~1817〉

「……醤油は実に小麦・塩・及味噌豆といえる白豆の一種の混合に外ならず。此等は大槽に入れて地下に貯えられ、一定時間の間発酵せしめたる後、之を煮沸し以って永く保存し得しむ」(『日本回想録』より)


ドゥーフ肖像画/長崎市立博物館蔵

〈フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト/オランダ商館医 滞日 1823~1828〉

「人の知る醤油(ソーヤ、Soja)は大豆(Sojabonen)・塩・米もやしにて作りたるソース。国人の好む酒精飲料の酒(サケ、sake)は本来、米より醸したるビールなり」(『日本』より)


出島ホームページより

最後に--。
今、見ても素朴でシンプルながらも洗練されたものを感じる「コンプラ瓶」。実は、このコンプラ瓶には、たくさんの逸話が残る。たとえば、ジャガタラお春の調度品に含まれていたとか、ルイ14世が愛用していたとか、ロシアの文豪トルストイが書斎の一輪挿しとして愛用していたとか……。大量に輸出するにはちょっと小さめ。だけど、そのままキッチンで使えるサイズの「コンプラ瓶」。海を渡った遠い国で、多くの人に親しまれていたとは、浪漫あふれる話だ。

参考資料献
★参照ホームページ
出島公式HP『甦る出島』
キッコーマン国際食文化研究センター
波佐見町観光ガイド
井上早苗「料理を変えた醤油」―長崎・出島との関わり
すべての謎を解く鍵は歴史のなかに
『コンプラ瓶の旅』

★参考文献
『近世オランダ貿易と鎖国』八百哲介著(吉川弘文館)、『長崎市史』「通交貿易編・東洋諸國部」(精文堂出版)