発見!長崎の歩き方

「外海・心惹かれる石積風景」


外海を訪れると独特の石を活用した石積風景に出会う。独自の生業と歴史、独特な地形と地質、そして、海洋性の気候が育んだ文化的景観――この町で産出される石とは? 石積文化と外海の人々との深いつながりとは?

ズバリ!今回のテーマは
「外海オリジナル!石積風景の魅力に迫る」なのだ。


長崎の中心部には、江戸時代につくられた石の築造物が多く点在する。その多く、例えば「眼鏡橋」、「長崎奉行所立山役所時代の石段」、「諏訪神社の二の鳥居」などに用いられているのは安山岩という石材で、すべて風頭山や城の古址(こし)、岩原(現立山)という3ヶ所の石切場から切り出されたものだ。

そう聞くと、安山岩は比較的どんな町でも石垣や石塀などで目にする石材だということがわかる。では、外海エリアの石の築造物はどうなのだろうか?

暮らしの中で育まれた文化
外海の人々になくてはならない
特別な“石”の存在

キリシタンの里・外海――今日、すっかりこの代名詞が定着した長閑(のどか)な海沿いの町は、実はもうひとつ、大きな特徴を持っている。それは、私達の目に触れる景観そのもの。特別な「石」を積み重ねた「石積集落の景観」である。

キリシタンの里の巡礼地「サン・ジワン枯松神社」祠前(ほこらまえ)の石積、ド・ロ神父も眠る「野道キリシタン墓地」の中世の古城を思わせる石段と石垣、遠藤周作文学館の玄関ポーチの石壁……外海を訪れると、必ずといっていい程、独特の石を用いて築かれた石積風景に出会うのだ。外海には、すでに古くからこの石積文化はあった。何故ならそこに石があったから……。そして、その石は万能極まりなく、人々の生活にとって切っても切り離せないものだった。




その石とは“温石(おんじゃく)”と呼ばれる結晶片岩(けっしょうへんがん)。地域の人々は、この“温石”を巧みに活用し暮らしてきた。そしてその形跡が、今なお外海エリアの景観を構成し、独特の風情を放っている――。

暮らしの中で育まれた文化
キリシタン達に語り継がれた
“温石”の伝説

禁教時代、外海地方には多くのキリシタン達が身を潜め暮らした。そんな外海の潜伏キリシタンの間で語り継がれてきた物語がある。

『天地始之事』――テンチハジマリノコト。


『天地始之事』が収められた『日本思想体系〈25〉キリシタン書・排耶書』

『日本思想体系〈25〉キリシタン書・排耶書』に収められたこの物語について、長崎県内のカトリック教会やキリスト教の史跡を旅する人々をサポートする「長崎巡礼センター」スタッフ・犬塚明子さんにお話を伺った。

犬塚さん「これは、聖書の中の逸話と日本の土着的な話がパッチワークのように縫い合わされた、潜伏キリシタン達の口伝、あるいは書き留められて何代にも渡り伝えられてきた物語です。この本には、東樫山の潜伏キリシタンが文政年間に記したと推定される『天地始之事』を元にしたものが掲載されていますが、その中で、エデンの園に住むアダムとエバが禁断の実を食べるという罪を犯して、その子ども達が追放されるとき、神様が次のように告げるのです。

“合石(ごうじゃく)のある土地を目指して行きなさい”


長崎巡礼センター・スタッフ 犬塚明子さん

合石というのは、“温石”を指す外海の方言なんです。当時、外海の潜伏キリシタン達は、平地が少ない急斜面の上、土地はやせて生活するのにとても条件の悪いこの土地で、必死に信仰を守りながら生きていました。『天地始之事』は、そんな悪条件の中で生きる人々の心の支えとなり、指針となる話をまとめたものだと思います。人々は、“神様が温石のあるところに行きなさいと言ったから、自分達は、神様が約束してくださった「温石のある外海地方」に住んでいる。今は大変だけど、いつか必ずきっといいことがある”、そう信じることができたんじゃないでしょうか」。

すると、“温石”は、潜伏キリシタンにとって、とても意味のある存在だったに違いない。お仕事柄、苦難の道を歩んでまでもキリスト教に生きた人々の“信仰の姿”を知ろうと、犬塚さんは、様々な資料に目を通し情報収集しておられる。

犬塚さん「出津や黒崎の信者さんは、最初伺った時、この『天地始之事』の存在をご存知ではありませんでした。禁教の高札が撤去され、教会に復活した時点で、潜伏時代の信仰の支えは必要ではなくなり、書かれたものも教会に渡されたようです。しかし、外海の出津出身で、かつて三井楽教会の主任神父だった故・田中千代吉神父様の話を書き留めた資料を見て衝撃を受けました。この温石が、海を渡り五島の地へと運ばれたというんです。“温石”は、五島列島では産出されません。田中神父様の“五島で温石を見かけたら、それは確実に外海のキリシタン達が持ってきたもの”という言葉に、外海の人々の“温石”への思い入れがあるのではと感じました」。

寛政年間、五島藩の要請で、大村領に住む多くの人々が五島へと移住した。その多くは外海地方で田畑を耕し、倹(つま)しく暮らす潜伏キリシタン達だった。そんな彼らが、五島へ向かう舟にこの“温石”を乗せて運んでいったというのだ。

犬塚さん「しかし、黒崎出身の神父様に伺ったら、外海地方では、昔から、温石が風化してできた土を耕して作物を作り、横から力を加えると割れやすく、熱に強い“温石”を田畑の脇の石積み、石垣、家の土台、かまど、墓碑、さらに漁民は、舟の上で煮炊きをする携帯かまど、舟の安定を保つバラス(バラスト)・延縄の重り、錨にも利用していたといいます。つまり、“温石”が、外海の人々の暮らしにはなくてはならない生活必需品であったということ。『天地始之事』のいい伝えへの思い入れというよりも、移住する時に、舟底にバラスとして温石が置かれ、運ばれたのは、必然だったということのようです」。

長崎の大浦天主堂で信徒発見の奇跡が起きた後、五島・水ノ浦のキリシタン達も自分達が信徒であることを伝えるべく大浦天主堂へと向かった。その時彼らは、舟底に“温石”を積んで長崎へ行き、再び水ノ浦へと持ち帰ってきたという。

犬塚さん「五島市三井楽町〈三井楽教会カトリック資料館〉に展示された“温石”は、福江島の北に位置する姫島に移住した潜伏キリシタンが、島を離れる際に寄贈したもの。岐宿町の「水ノ浦教会」、聖ヨハネ五島像の台座に嵌(は)め込まれた“温石”、信者さんのお宅の井戸の上に置かれた“温石”、桐教会の信者さんのお宅に伝わる“温石”。これらが私が五島列島で目にした“温石”です。見ることのできる数は少ないですし、五島でも、外海でもこの“海を渡った温石”の存在を知っている人もあまりいないようですが、当時、外海の潜伏キリシタン達が“温石”を舟に載せ、五島へ運んだことは事実です。運んだ人は実用品として持ってきたのかもしれませんが、今、五島に存在する“温石”は、“祖先が運んできた石”として、大切に語り継がれています」。


姫島に渡ったキリシタンが所有していた“温石”。三井楽教会カトリック資料館所蔵


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「外海・心惹かれる石積風景」

暮らしの中で育まれた文化
外海の地盤を構成する
“温石”が生んだ風景

さて、外海地方の潜伏キリシタンの心を支え、遥か海を渡り、五島にも運ばれた“温石”についてもう少し勉強しておこう。外海エリアを含む西彼杵半島の南部は、この“温石”と呼ばれる結晶片岩を主とする古生層で構成されていて、それを玄武岩(げんぶがん)と安山岩(あんざんがん)といった2種類の火山岩が貫いている。玄武岩は、大野岳、上大中尾の北部、妙正岳、変岳、それと黒崎の城山、小城ノ鼻。角力灘に浮かぶ池島、大角力、小角力なども玄武岩の島々だ。そして安山岩は、三重エリアとの境界に沿って細長く分布し山体を造っている。しかし、それらはホンの一部。外海エリアは、ほとんどが結晶片岩(主に黒色片岩)で占められているのだ。

縄文時代から弥生時代に属する「出津遺跡」が確認された外海は、古代から人が住み着いていた土地。9~10世紀には半島各地で、温石の一種である滑石(かっせき)を利用した石鍋製作が行われ、日本各地へ流通していたという。14世紀頃には、西彼杵半島の在地領主・神浦氏の支配下にあり、近世に入り神浦氏が大村藩の統治下に入ったため外海は神浦村、黒崎村に分けられた。

文久2年(1862)、180年の歳月をかけ完成した『郷村記』(大村郷村記)には、「其地荒野多く、田畠・山少なし、郷里すべて海辺にあり」(黒崎村)とあるように、黒崎村の集落は五島灘に面した海岸の傾斜地にあり、水田は少なく背面に畑が広がっていたようだ。

出津川上流から海岸部を望む集落景観はこんな感じだ。




出津川の左岸側は急斜面のため、居住者はほとんどなく、河川流域部のわずかな平地と出津川の右岸側の南に面する北岸の数段の河岸段丘上の緩斜面には、開墾してつくられたいくつかの集落がある。そして、その集落の中には、段々畑、宅地の石垣、水路、護岸、墓地、ネリベイ建物という住居の石壁など、海や川の石材や斜面地を開墾した際に出土した“温石”を用いた多様な石積築造物が見られる。

これらが築かれた理由には、急峻な土地を開拓しているため、土の流出を防ぐ工夫として水はけのよい石垣を構築する必要性があり、開墾の際、無尽に出る結晶片岩、いわゆる“温石”が、身近で加工しやすかったこと。また、山の極限まで土地利用していたため木材が不足していたことなどが挙げられる。いずれにしても、地域の生活に即した形で独特な石積文化を持つ集落が形成されていったと言えるだろう。

では、どんな石積築造物があるのか実際に見てみよう。

暮らしの中で育まれた文化
歴史と人々の生業が
文化的景観を生んだ!

1. 急斜面に階段状に設けられた「石垣」
2. 海岸線の防風・防潮に不可欠な「石築地」
3. 民家の防風・防寒用として築かれる「石塀」
4. 居住や収穫物を収める「石壁」


「石垣」


「石築地」

外海の石積築造物は、「石垣」「石築地」「石塀」「石壁」の大きくこの4つの形式に分けられる。そして、これらは、地域の人々の生業や歴史に伴う生活の変化などと密接に関連しながら変遷を遂げているのだが、その時期も大きく4つに分けることができる。また、技術としては、平らで加工しやすい“温石”を水平方向に目が通るように積む「算木積み」あるいは、一部で目の通りが崩れるがゆえに「算木崩し」と呼ばれる築造技術を主体に発展していった。しかも、家屋と石垣の石積は、通常それぞれの技術者が手掛けるものだが、外海エリアでは、どちらも一般の人々により同じ手法で築く技術が受け継がれてきたという特徴を持っている。

外海石積文化の変遷、第1期は、民衆による石積文化が一度完成された「江戸期」。文久2年(1862)の絵図に、石積が描かれているが、これは、17世紀の初めに大村藩内で定着したサツマイモ栽培の拡大と共に斜面地を開墾し畑地景観の原形が作られた西彼杵半島共通の在地石積文化の形成期。

こんなエピソードがある。すでにサツマイモ栽培が定着し、日常食となっていた享保の大飢饉(1732)の際、大村藩内では死者がほとんど出なかったといわれ、当時の『見聞集』の中には、サツマイモを栽培していたことや大岡越前にサツマイモを紹介したことなどが記されているというのだ。また、あらたな開拓地を求め、外海から五島へと移住した人々により、サツマイモの畑作のための石垣技術も伝わっていった。


第1期に分類される「三五ノ谷の水田石垣」。算木崩しの隅角部(ぐうかくぶ)と緩やかな反りを持つ石垣技術が特徴

また、この第1期のネリベイ建物など住居の石壁には、韓国や中国、台湾などにも同類の建物が見られるものだそうで、外海の場合は、開墾の際に地中から露出した結晶片岩の石壁と麦わらを用いた草葺き屋根が特徴である環東シナ海沿岸文化圏の影響を強く受けていると考えられている。

外海石積文化の変遷、第2期は、明治~大正時代、外海に布教に訪れたフランス人宣教師ド・ロ神父による西洋技術の融合による外海独自の石積文化の発展期。


明治期のカトリック施設群とその一帯に見る集落景観

ド・ロ神父は、布教と共に、人々に仕事を授け、自立する力を身につけさせるために新たな農業・土木技術を伝授した。ド・ロ神父の影響は、「旧出津救助院」「大平作業場跡」の石垣などに用いられた石面を平滑化するノミ加工(すだれ加工)という技術、目地にわらす土に代わり石灰を混入したネリベイ建物が大型化された石壁(通称、ド・ロ壁)に見ることができ、それらの技術は一般家屋にも採用されていった。


旧出津救助院のド・ロ壁


第2期に分類される「大平作業場跡」。 ド・ロ神父主導により築造された西洋的石壁技術


「橋口家のネリベイ建物」。 ド・ロ神父の技術の影響を受けて築造された石壁

外海石積文化の変遷、第3期は、ド・ロ神父の死後、大正後期から昭和中期にかけて。カトリック共同体の活動も停滞し、ド・ロ神父独自の石積技術は本格的には根付かず、第2期の影響を受けた新たな民衆石積文化が展開されてく。特に昭和27年から池島炭鉱の開坑準備がはじまると、炭鉱に従事する移住者などにより、外海の農業・漁業は一時期活気を取り戻した。これが、半農半石工として活動する技術者をこの地に留まらせ、石積の集落景観を残存させる要因となった。

外海石積文化の変遷、第4期は、昭和30年以降。産業構造の変化から、自給自足の生活も終焉を迎え、人々は出稼ぎや他地域への移住者も増加していく。当然、石工も多数流出したが、昭和56年の出津教会周囲の石垣改築の際には、コンクリートでの改築ではなく、結晶片岩(温石)で改築するなど、石積に対する愛着の高さを示した。


第4期に分類される「出津小学校の石垣」。昭和期に築かれた最後の長大な石積

このように外海エリア独自の石積文化は、出津川流域に展開する狭隘(きょうあい)な地形と、温石という独特な地質、そして海洋性の気候に育まれつつ、地域の人々の生業と歴史の変遷を反映した価値のある文化的景観だといえるだろう。

さて、実は、長崎の中心部にも“温石”を石材として使った場所がある。それは、明治初期に整備された旧市街地の溝に張り巡らした「三角溝」の底石。シシトキ川最上流部の麹屋町公園付近やその寺町側の側溝、公会堂裏の地獄川、五島町と樺島町の境界にある三角溝の底などだ。西彼杵半島のほか、長崎(野母)半島などにも分布する結晶片岩“温石”。長崎に近い産地では小ヶ倉(こがくら)があり、これらはその辺りから切り分けたものだろうか。何はともあれ生活用途に優れた“温石“は、加工するにも便利とあり万能な石材として古くから活用されてきたということだろう。ただし、町の景観を構成するような築造物は、外海エリアでしか育まれなかった。

最後に--。
自分達の住む町に独自の文化があり、それが受け継がれているということは、かけがえのない財産であり、住民のとって誇らしいこと。それが美しいものであれば尚更のことだ。外海エリアの石積風景は、歴史の中で変遷をとげながらも、その技術が地域の人々の手によって継承されてきた価値あるもの。土地の恵みと先人の知恵と努力に育まれた外海の石積風景――これから、もっと多くの人に知ってもらいたい長崎の遺産だ。 この外海の石積集落景観は、文化財のひとつである国選定の重要文化的景観に選ばれている。

参考文献
『外海町史』(外海町役場)、『長崎石物語』布袋厚(長崎文献社)、『外海-キリシタンの里-』(外海町役場)