発見!長崎の歩き方

「もうひとつの夏
  ~特攻基地・牧島~」


長崎市東部・戸石の沖合100mの地に浮かぶ牧島。この島には、第二次世界大戦後期、川棚特攻隊・震洋の特攻基地が設置された。日本人の母とフランス人の父を持つルイズ正子が、母の実家・戸石に滞在した際の記憶を綴った『ルイズが正子であった頃』を元に、特攻基地・牧島を振り返る。

ズバリ!今回のテーマは
「長崎、もうひとつの夏!」なのだ。

今年も暑い夏が過ぎ去っていく。空には秋めいた薄雲が漂う今日この頃。67年前の夏の終わり、長崎の人々はどのような思いでこの大空を眺めていたのだろうか。

ルイズ正子--彼女はフランス人の父と日本人の母を持つ。昭和12年(1937)、避暑を目的に一家で母の実家である戸石に滞在した。『ルイズが正子であった頃』は、日中戦争、太平洋戦争勃発という時局に直面し、帰路を断たれそのまま日本で過ごした彼女の11年の日々がはつらつとした文章で綴られている。その後半は、日本式に改名を迫られ、「正子」となったルイズが目にした長崎・戸石の風景、村人の暮しぶり、とりまく時代……。その中で特に目を見張ったのは、被爆都市・長崎のもうひとつの夏の記憶、今も牧島に眠る特攻基地の存在だった。


『ルイズが正子であった頃』
ルイズ・ルピカール著(未知谷)


ルイズ正子が見た戦争

ヴァカンス天国・戸石村
脳裏に甦る魚と黒砂糖の匂い

ルイズは戸石出身の母、里ヤイとフランス人の父、マクシム・ルピカールの第四子・長女。ヤイは、当時の多くの子どもがそうであったように、家計を助けるために6、7歳の頃から子守奉公に出されるが、やがて自分の意志で上海へと渡る。そして日本人租界で子守業などを行う中、人生の伴侶、ルピカール氏と出会った。本書後記に附録として記されたヤイの人生も、当時の時勢が垣間見られ、また当時の女性の逞しい姿が描かれたとても興味深いものとなっている。

それにしても、随分と時が経ってから執筆されたものであるのにもかかわらず、当時9歳であったルイズの鮮烈な記憶力には驚かされる。出来事の詳細や交わした会話、目に映っている風景……当時の彼女に成り代わった感覚で、その情景に佇(たたず)んでいるかのような読後感がある。強く感じたのは、どのような時勢であろうとも、この年代の子ども達は、両目を見開いて日々を精一杯生きている、ということだ。

イキイキと、はつらつと、好奇心旺盛で快活なルイズの性格が滲(にじ)み出た文章の中に、当時の戸石周辺の情景が浮かび上がってくる。

 長崎から矢上を経由し、戸石までの距離は十六キロメートル(まだ、東望ン浜に矢上大橋が架けられていない頃)もある。三台のハイヤーは駅を出て、お諏訪さまから右折し、蛍茶屋からの坂道を上って進み、日見トンネルを通り抜ける。下り坂がしばらく続いたのち右手の橘湾に浮かぶ牧島が望まれると、時をうつさず網場所村が目に入る。

母と9人の子ども達、そしてヴァカンス中の大荷物は、長崎駅から三台のハイヤーに乗って戸石へと向かった。

 私たちを乗せたハイヤーは、矢上村から侍石まで、しばらく坂を上り、峠を過ぎれば下り坂。陣の内を過ぎ、そのまま水車の前を通ると、尾崎から戸石小学校の前を素通りすることになる。郵便局も過ぎ戸石神社に近づくにつれ、ノリと潟の混ざった匂いが鼻をくすぐる。その匂いが徐々に強くなると、海と坂方面の防波堤が眼前いっぱいに広がる。あたり一面に漂う魚と黒砂糖の混じり合った匂いは、懐かしいヴァカンスの香りとして脳裏に甦る。(後略)


現在の戸石漁港、牧島に面した海際に建つ戸石神社の一の鳥居。昔はこの辺りは干潟で、海中にあったという。

9歳にして戸石尋常小学校へ入学。その後、長崎、東京での寄宿生活を経て、横浜への転居を機に待ち望んでいた一家で暮らす日々を過ごすルイズだったが、昭和16年(1941)12月8日、第二次世界大戦(太平洋戦争)が開戦。14歳になったルイズは、日本軍の真珠湾攻撃後、「還らぬ五隻、九柱」など、日本軍の猛進を誇らしげに信じ軍歌に陶酔したという。

「五隻九柱」とは、真珠湾攻撃で特殊潜行挺五隻に乗っていた乗員のこと。

 (前略)「還らぬ五隻、九柱」つまり九軍神の部分を歌っている内に「おやッ」といつしか不思議な疑問が頭を過った。つまり、潜航艇四隻に二人ずつ乗せられたのに、どうして五隻目の潜航艇だけが一人? という疑問だ。どうして一様に二人ずつ乗せなかったのかしら。私でさえ不合理な作戦だと理解できなかった。まして、「軍神になりたい兵隊は大勢いるはずなのに、変だなぁ」と、誰にも問わず(いつも、そうであるように)一人で疑問を抱いていた。なお、敵艦に突入するまで、二人ならば会話もできる上、勇気も出るだろうが、一人で暗い狭い艇内でどんなに孤独な思いを抱いていたのかしら、と不憫(ふびん)に思えた。

2人乗りであったこの挺には、本来10人が乗っていた。しかし軍部は、生き残り、「捕虜第一号」となった10人目のことを敗戦まで国民に伏せた。そして、国のために玉と砕けた9人を「軍神」として讃えたのだった。

昭和18年(1943)、
日本軍のガダルカナル島転進開始、
連合艦隊司令長官山本五十六の戦死、
日独伊三国同盟のイタリア政府降伏、
マキン・タラワ両島の日本守備隊玉砕……

戦局が暗転すると、関東圏内の外国人に軽井沢収容命令が出される。当然、ルイズらも収容されるはずだったが、母・ヤイの判断と行動力に加え、サイゴンの日本商社に勤める父・ルピカール氏の立場から、戸石への疎開が認められた。再び母の故郷、戸石へ、母子10人が大移動する。しかしそれは疎開とはいえ、戸石に留まり、他の村や町との接触を禁じるという条件付きの実は「軟禁」だった。

 軍港であり要塞地域内の最終到着駅である長崎駅で私たちを下車させるのは好ましくないと判断されたらしく、二つ手前の諌早駅で下車させられた。諌早駅から長崎行きの木炭バスに乗せられ、途中の矢上停留所で降ろされた。そこから戸石までは、おそらく石油不足とあってバスが廃止されていたのか、または時間的に次のバスが待てなかったのかは、憶えていないが、確かなのは矢上から私たちは四キロ先の戸石村までは徒歩で行ったこと。

三学期から戸石国民学校高等科一学年に転校。同級生のほとんどが、6年前に共に過ごした幼なじみばかりで、ルイズはすぐに戸石村に溶け込んでいった。しかし、高等科二年生のある日の放課後、ルイズを含め兄弟6人が校長先生に呼び出される。

 「お母さんのことは何と呼んでいるのか」と聞かれ、六人の内、一番年上で数日前に十六歳になったばかりの私は、おのずと、
「ママと呼んでいます」
「日本ではママ(まんま)はご飯という意味である。今後、日本人のように〈お母さん〉と呼ぶように」と命ぜられた。

また、校長先生に「名前を改名せよ」と指摘されると、

 「自分の名前は外国の名前だったんだわ」と久しぶりに想い起こした。我が改名は〈お母さん〉と別名で呼ぶほどに反発を感じない。そこで、五人の弟妹の変名は母に任せることにして、自分の名はためらわずに〈正子〉とその場で勝手に決め、母に知らせた。
(中略)
 それは、疎開当初、近所にほぼ同い年の一青年が私の目にちょっと眩しく映っていたからだ。彼は幼い時から、四季おりおりの潮風に当たり、太陽を遠慮なく浴びていたせいか、冬というのに顔が銅色に輝いていた……彼の名は〈M〉の字から始まっていた。そこで私はその名にあやかりたいと〈M〉から始まる簡単で質素な印象を与える漢字を選び〈正子〉と自己命名した。
 かくして、ルイズ、正子となりにけり。

高等科二学年からは学習よりも農家への勤労奉仕が過半を占めたというルイズ。動物の取り扱い方の学習、出征兵士の家庭や戦死された遺族の田植え、稲刈り、麦踏み、麦刈り。夏休み期間も登校し、校舎の裏山の開墾作業にも参加……好奇心旺盛なルイズは、それらの経験を快く感じ熱心に務める。それらに従事していることを知った母はただ一言、注意する。

 「よそ者扱いにされないためには、生徒より一所懸命働きなさい」(後略)

実は、ルイズは高等科二学年に進まないで、長崎市内の洋裁学校または看護婦学校に入学を希望していた。従軍看護婦になりたかったという彼女は、もはや異国の国籍であるという立場は念頭になく、当時の日本中の同世代の少女と違わず、立派な軍国少女となっていたのだ。

そんなルイズの日常に特別なことが起こる。

 ことの経緯を述べる前に、敗戦約五ヶ月前の戦況を説明しなければならない。
三月五日、マニラ日本軍全滅
続けて十七日は硫黄島玉砕
四月一日より米軍が沖縄本島に上陸し始めた。
 折しも、私が高等科を卒業し青年学校に進級した直後であった。最悪の戦況に「戦争は国民がする」と本土戦態勢の強化が施行され、村の前面に浮かぶ周囲五キロの牧島に、川棚突撃第三特攻隊が四月十日に配備された。

ルイズが日々崇める特攻兵が、彼女の目前に現れたのだ。


【次頁につづく】

発見!長崎の歩き方

「もうひとつの夏
  ~特攻基地・牧島~」

ルイズ正子が見た戦争

軍国少女・ルイズの前に
特攻兵現る!

 配備されたものの兵舎とてなく、校舎の一部が隊員らの宿営舍となる。残る問題はお風呂である。そうなるとお風呂が設備されている家庭に五、六人づつ割り当てられ、我が家の風呂(五右衛風呂)に、
補充兵一人(十七歳の私には「おじいさん」に見えたが、四十歳前後であったらしい)
特攻兵二人(二十二、三歳?)
予科練二人(十五、六歳)
合計五人が週二回、風呂浴びに来ることを知らされると、さぁ大騒ぎ。
 それもその筈、前年末から飛行機もろとも敵艦に体あたりして散華した話題の特別特攻隊員と同じ〈実物〉と、「若鷲の歌」で讃えられている十五、六歳の予科練のこれも〈実物〉が来ると言うのだ。

ルイズが記しているように、牧島に昭和20年4月に「川棚突撃第三特攻隊」が配備されたが、はじめ兵舎などはなく、7月初旬、第四二震洋隊に基地移動が命じられ、牧島震洋隊基地が設置された。配属されたのは「第四二震洋隊・高橋部隊」。士官7名/搭乗員50名/本部付21名/整備隊員37名/基地隊員74名の 総員 189名だったという。

 さて、彼ら基地隊員の出現により、それまで国のためとは言え、銃後で間接にしか役に立っていない印象で田畑やその他の勤労奉仕に出ていたが、今度こそは、第一線において努める勢いで基地の戦闘準備の作業に直接従事するという充実感があった。作業とは、彼らが自爆挺を格納するべく横穴防空壕を掘ったさいの土砂を満載したトロッコを私たちが波打ち際まで押したり、モッコを担いだり、時おりダイナマイト棒を削る作業であった。
 これらの仕事が勝利の達成に通ずると思うと充実感を覚えたものだ。

直に兵隊に接することとなった軍国少女・ルイズのその後の興奮冷めやらぬ行動は、これが戦時中であるということを忘れさせるほど、はつらつとしている。

そこで、ナガジン!取材班は、ルイズが過ごした戸石の風情を確かめに、また、戦争遺構・牧島の震洋特攻隊基地跡を求めて牧島へと足を運んでみた。

5世紀末から7世紀初めにかけてつくられた国指定史跡の『曲崎古墳群』を擁する牧島は、橘湾に浮かぶ周囲5キロの小島。昭和35年に対岸の戸石と吊り橋「牧島橋」で結ばれていたが、昭和44年に現在の「牧戸橋」が架けられた。


国指定史跡「曲崎古墳群」


美しく穏やかな海と山々に抱かれた牧島では度々懐かしい風景に出会う。


牧戸橋の横に残された牧島橋の遺構

終戦間際、この牧島に基地が置かれた震洋特攻隊とはどんなものだったのだろうか?

太平洋戦争末期、長引く戦争で戦局が悪化する中、搭乗員を養成しても、乗る飛行機とガソリンがないという絶望的状況に陥っていた。そこで、連合軍の上陸部隊に打ち勝つには揚陸艦艇を沈める以外はないという結論に達した日本軍は、本土決戦を水際で抑えようとする陸海軍と共に〈特攻〉という世にも恐ろしい肉弾攻撃を考え出す。特攻隊というと、爆薬を乗せた飛行機で敵艦に突っ込んでいく「神風特攻隊」が最も有名だが、他に「回天」「震洋」「桜花」「伏龍」など多数あった。

昭和19年4月、魚雷発射試験場がある長崎県東彼杵郡川棚町三越郷に隣接した小串(おぐし)郷駅近くに、横須賀の海軍水雷学校から分かれた「川棚臨時魚雷艇訓練所」が新設された。小さな漁村の一角に急設されたこの訓練所には、多くの若者が志願して集まり、数万人もの10代の若者が特攻隊として苛酷な訓練を受けた。そのなかには、鉄の不足と油の枯渇で乗る飛行機がなくなった海軍飛行予科練習生も多かったという。

この「川棚臨時魚雷艇訓練所」は、海軍の水上特攻機としての魚雷艇乗員訓練基地であり、主に1~2人乗りの粗末なベニヤ板製のモーターボートで、後部に爆雷を積んだ○四(マルヨン)と呼ばれる〈震洋艇〉に乗り組むための訓練所だった。太平洋を震撼させるという意味で名付けられた〈震洋〉だったが、言ってしまえば肉薄攻撃用の自爆挺。ベニヤ板で造られた長さ5.1m、幅1.7mの小さな船であり、トラックエンジンを載せ、先端に250kg爆薬を積んで、敵艦に全速力でぶつかって撃沈するための兵器だった。訓練中は爆薬の代わりに同じ重さの砂袋を入れ、夜間に碇泊している船艦めがけて体当たりの演習が行われたという。

「牧戸橋」を渡り、島に上陸。ルイズも作業を手伝ったという震洋艇の格納庫とした防空壕が残っているかもしれない、という期待を胸に、島人にお話を伺った。

潮風が漂う海沿い、大きな屋根を設けた屋外の作業場で漁具の手入れをされていた数名のご年配の方に防空壕の場所を尋ねてみる。

「ここから見えるあの段々畑の下辺りに防空壕が並んであったけど、今は上の畑が全部崩れて埋まってしまって、わからんごとなっとりますよ」。
「その奥の方に昔、船大工さんの2軒あって、そこが兵舎になっとったとですけどね。今はもう何もなかですよ」。




戦後67年、時の流れが歴史を風化させてしまう。わずかな形跡を求めて、御婦人が教えてくれた段々畑の麓に向かうと、入り口に一軒の民家があった。声をかけて、奥へと入らせて頂く。




灼熱の真夏日、左側が海に面した道を、草をかき分けながら進む。




先程目にした段々畑の下段にあたる場所は、光を通さない程に木々に覆われ、太い竹さえも天高くそびえ立っている。確かなものは何も確認できなかったが、この木々の奥に〈震洋艇〉を格納した防空壕があった気配を感じた。


現在は鬱蒼とした木々に覆われ何も確認できなかった。



来た道を戻っていると入り口の民家の方が迎え出て下さり、昭和11年生まれの岸川誠人(せいと)さん、弘子(ひろこ)さんご夫妻にお話を伺うことができた。

終戦の年、戸石村国民学校(戸石尋常小学校)3年だったという誠人さんは、横穴に彫られた震洋艇を格納した防空壕の記憶を語ってくれた。

「その頃はまだ小さくて何の穴かはわからんでしたけど、格好の遊び場で、中に入ってよう遊んでました。ここには5つの防空壕が並んであって、中に船が2基入る程の広さで、そんなに大きいものではありませんでした。牧島は大きく牧中、弁天、島の池、という3つの地域に分かれとるとですけど、牧中の〈下津の浦(げつのうら)〉と呼ばれるところにも、2つの防空壕がありました」。

戸石村国民学校(戸石尋常小学校)だったとあり、ルイズさんをご存知ないか尋ねたところ、なんと、奥様・弘子さんのご実家は、ルイズの母・ヤイの実家の隣にあったという。なんというご縁だろうか。

「ただ、私は年が離れているのでよくは知らんとですけど、今の大久保病院の横に立派なお家があったのは覚えていますね」と弘子さん。

誠人さんも 「私もだいぶ下だったので、よくは知らんですけど、上級生にその方がいたのは知っています」

確たる戦争遺構を探し出すことはできなかったが、まさにルイズが過ごした戦時中の記憶を裏付けてくれる方とお話ができたのは、うれしい収穫だった。

 (前略)毎朝、教官に引率されて牧島の切宮岬の防空壕掘りに行く二列縦隊(数えなかったが約十二~十五人?)の予科練が家の前を通っていた。

「切宮岬」とは、誠人さんがおっしゃった下津の浦のことのようだ。

 それはさておき、私は特攻基地になったからには、牧島及び戸石が戦略上、一躍九州でもっとも重要な地点となったと真剣に受け取っていた。従って敵は間違いなく長崎半島と島原半島の間に挟まれている橘湾から、特攻基地の牧島と戸石を目標に上陸すると、固く信じていた。

零戦など戦闘機の生産が底をつく中、構造が簡単で大量生産が可能であった〈震洋〉は、三菱長崎造船所をはじめとした各海軍工廠(こうしょう)、民間造船所で特攻の切り札として、終戦までに約6,200艇が建造されたといわれている。

 やがて、敵が攻めて来れば、勇猛な彼らは海から自爆艇で敵艦隊を沈め、空からは神風特別攻撃隊が反撃する間、地上の私たちは上陸せんとする敵兵を手榴弾、竹やり、ナタ、鍬などありとあらゆる物を武器として、敵撃滅! する、と闘魂に燃えていた。
 その好機が来るまで、彼らはもっぱら海上で、初めて私たちが目にする緑色の自爆艇〈体当たり〉の訓練をしていたり、防空壕掘りに私たちと励んでいた。

原爆に集約されることの多い「長崎の戦争」だが、ルイズ同様、国民それぞれに様々な戦争体験があったことを忘れてはならない。



最後に--。
日本では外国人と言われ、フランスでは日本人と言われ育った、主人公・ルイズ。ここで彼女の人生に深く触れることはできなかったが、感受性豊かな彼女の鮮烈な記憶のもとにしたためられたからこそ、見えてきた戦争の姿があった。67年の時が流れ、しだいに薄れゆく戦争の記憶を、『ルイズが正子であった頃』に見つけてみよう。極めて不思議なことだが、命の輝きが伝わってくる--。

参考文献
『ルイズが正子であった頃』ルイズ・ルピカール(未知谷)
『川棚町郷土誌』川棚町教育委員会編集(川棚町発行)