発見!長崎の歩き方

「浦上川を俯瞰で見てみよう!」


市街地北部から長崎港へと注ぐ浦上川。原爆、30年前の長崎大水害という悲惨な出来事を乗り越え、再びホタルの住む川を目指す活動が行われる浦上川の今昔に迫る。

ズバリ!今回のテーマは
「ハトが舞う?浦上川に学ぼう!」なのだ。

川に学べ!“川まな”発足秘話

今回は、浦上川の源流、三ツ山町を故郷に持つ、“はっし~”こと、橋口さんに様々なお話を伺いながら、浦上川の過去現在、そして、未来へと繋がる大いなる魅力に迫ってみたいと思う。

はっし~さんは、「川に学ぼうかいin大橋地区」、略して“川まな”の事務局を務めておられるお方。この会の発足当初は、長崎大学の若い先生と大学院生、それとはっし~さんの3人きり。2005年のことだったという。


“はっし~”こと橋口さん

はっし~さん「しばらく長崎を離れ、帰郷した後、故郷と同じ浦上川近くに暮しはじめました。2004年に「海辺ばきれいにしよう会」という団体に所属し、長崎港のゴミと向き合うことに……。先輩に“こんゴミはどこからきよるって思う?” と問題提起され、自分と縁深い浦上川のゴミの多さに改めて気付いたんです」。

それがひとつめのきっかけ。もうひとつは浦上川が持つ歴史的背景にあった。


浦上川のゴミ

歴史を秘めた川--哀しみ

はっし~さん「長崎市街を流れる主要河川である中島川と浦上川。中島川は、長い歴史の中で何度も流失しては復元された石橋群が残るなど、歴史の流れがそのままに息づいている川です。それに比べ浦上川は、“原爆”という悲惨な出来事によって、歴史が途絶えてしまった川なのでは、と思っています」。

浦上の地を襲った原爆の惨劇。爆心地近くで被爆した人々は、命からがら水を求め、浦上川へと「水」を求めたという話は、今も語り継がれる被爆直後の光景だ。

はっし~さん「当時の状況を調べてみると、浦上地区では、半年もの間、1万体を越えるご遺体が放置され、浦上川にもたくさん残されていたそうです。人々が水を求められたのは、きっと浦上川の水が清らかな美しい水だったからではないでしょうか。このあまりにも重い歴史を知ったとき、私はこの川のゴミに向き合っていきたい、という使命を感じました」。

“川まな”が発足したのは、2005年。つまり被爆60周年の年。そして、意図することなく決められた初めての活動日は、8月6日、広島の原爆記念日だった。

はっし~さん「浦上川の歴史を深く知ろうと図書館に通いつめて、当時の浦上川の周辺の様子や、それ以前の人々の暮しを調べてみたのですが、ほとんど何も見つかりませんでした。おそらくは、“原爆の悲劇”のトラウマが大きすぎて、専門家によるきちんとした調査がなされなかったのではないでしょうか」。

では、原爆以前の浦上川周辺の様子とは、いったいどういうものだったのだろう?

歴史を秘めた川--潜伏キリシタン

はっし~さん「かつて浦上川は今の大橋付近から下流部は海だったといわれ、“深江浦”と呼ばれていました。江戸初期に現在の川口町、浜口町付近が河口となっていたようです」。

なるほど! (深江)浦の上流一帯ということで、「浦上」という地名となったというわけだ。

戦国時代、浦上村は大村領として治められてきたが、文明6年(1474)、島原半島を治める有馬氏の支配下となった。時の領主・有馬晴信も大村純忠同様のキリシタン大名。当然のことながら浦上村でも布教がなされ、キリスト教信者は急増。天正12年(1584)、有馬晴信によって、浦上村もイエズス会に寄進されている。

はっし~さん「あそこに見える本大橋(もとおおはし)は、その名前からもわかるように、当時の浦上川の河口部に架かっていた重要な橋です。大坂から時津に着いた二十六聖人が、処刑の場所である西坂の丘へ向かう際、通った“浦上街道” の橋でもあります」。

キリシタン全盛期の慶長8年(1603)、当時、浦上村で唯一の「サンタ・クララ教会」が完成した。しかし、慶長19年(1614)、徳川家康が発布した「キリシタン禁制令」により、長崎の市中に点在した多くの教会堂と同様に閉鎖され、後に破壊される。敷石だけが残った「サンタ・クララ教会」の跡地は、潜伏キリシタン達が秘かな信仰の地となり、仏教徒を装っていた信者達は、盆踊りと称してこの地に集まり、祈りを捧げていたという。

はっし~さん「私は“川まな”の活動をし始めて、国道206号線沿いに建つ、この「サンタ・クララ教会跡の碑」の存在を知りました。大浦天主堂で起こった、信徒発見の奇跡も、元を辿れば、この浦上川周辺に住む信徒の方々によるものなんだ……って、改めて実感したんですよね」。

禁教の中で厳しい弾圧、差別が行われる中、浦上川下流部の川や海は、地形的に浦上村と長崎の町とを分断されている。それが、浦上川流域に潜むキリシタンの信仰を助けたとも考えられる。

はっし~さん「“サンタ・クララ教会跡”の碑に刻まれている歌の歌詞が、当時のこの辺りの時代背景を物語っていると思うんです。

“家野(よの)は善かよか むかしからよかよ サンタカララの土地じゃもの”

家野郷は範囲が広いんです。現在の大井手バス停の辺りもそうで、浦上川のその辺りには、まさに“大井手”という農業用の取水堰があったことが知られています。また、1730年頃には、深江浦の干拓によって“浦上新田”が造られています。この辺りは、今の長崎大学も含めて昔から浦上川から引かれた清らかな流れで潤う水田があり、美しい自然にあふれていたのではないでしょうか? この歌詞は、こうした人々が生きていく基盤が整っていて、差別や迫害、弾圧といった大変な苦難の中にあっても、キリスト教の信仰を守り抜くのに適した土地であったことを物語っていると思うんです」。


サンタ・クララ教会跡

現在の浦上川・大橋地区

「サンタ・クララ教会」の跡地には、おそらくは、粗末な建物が建てられていたのだろう。信徒発見後、浦上村の信者が造った4つの秘密礼拝堂のひとつとなり、大浦天主堂から神父を迎えてミサや洗礼を行われた。この地は再び信徒達の心の拠り所となったのだ。

はっし~さん「ひとつ発見があります。古地図と見ると、慶長8年(1603)に建立された「サンタ・クララ教会」は、浦上川と岩屋川がかつて合流していた三角州、いわゆる岬のような場所にあったようなんです。つまり、長崎港に突き出した、現在の長崎県庁の場所に建てられた「被聖天のサンタ・マリア教会」のように、象徴的な場所に建てられていたということなんですよ」。

キリスト教全盛時代、浦上川の河口にそびえ立った「サンタ・クララ教会」。それはこれまで、悲哀に満ちたキリスト教史しか語り継がれてこなかった浦上信者に明るい日差しが降り注ぐような発見!
浦上川と共にこの地に生きた、キリシタン達の姿が目に浮かぶようだ。

はっし~さん「サンタ・クララ教会の記念碑は、信徒発見100周年の1965年3月17日に建てられているのですが、その3ヶ月前のクリスマスは、ちょうど私の生まれた日。それを知って、キリシタンの子孫の方々が多い三ツ山町出身の私としては、勝手にまた使命を感じてしまいました(笑)」。


川まなのフィールド

浦上川沿い、“川まな”のフィールドである「本原橋」から「岩屋橋」方面へと川沿いを歩いていると、川の先の高台に「白山墓地」の十字架が見える。浦上地区に数ヶ所あるキリシタン墓地のひとつであるこの墓域は、爆心地に最も近いもの。墓碑に刻まれた没年月日の多くが、昭和20年8月9日、またはその数日後となっている。浦上川が秘めた類い稀な歴史の一端を象徴する風景だ。


浦上川と白山墓地

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発見!長崎の歩き方

「浦上川を俯瞰で見てみよう!」

暮しと共にある川--水害

もうすぐ7月23日がやってくる。あの日から30年、今年は1982年に起こった「長崎大水害」から30年、節目の年だ。1時間の雨量、187mmという日本記録を打ち立てた未曾有の大水害は、死者・行方不明者299名という尊い命を奪い、町を、川を破壊した。日頃、恩恵を受けている雨も、時として私達の暮しを脅かすことがあることを、30年前、多くの人が身をもって実感した。

はっし~さん「川際に降りてみるとわかるんですが、大水害の直後の復旧工事で、浦上川は深くなっています。そして、この川を守っているのは、今から約80年前に整備された石積護岸です。これは、これまであまり注目されてきませんでしたが、貴重な“被爆遺構”でもあるんですよ」。

大正末期から昭和初期にかけて、度重なる豪雨災害が起き、浦上川は度々被災した。1928年(昭和3年度)から今の茂里町付近から大橋付近までの“空石積”と呼ばれる護岸整備や梁川橋、竹岩橋、下大橋、本大橋などの橋梁架替などの改修工事が行われた。

はっし~さん「この改修工事、最初は長崎市によりはじめられました。その後、世界恐慌の影響が地方でも深刻さを増す中で、時の大蔵大臣、高橋是清の元で失業対策を目的として昭和7年~9年度にかけて、時局匡救(じきょくきゅうきゅう)という事業が全国的に行われました。浦上川の改修工事は、この事業を活用して、県が引き継ぎ実施されたものです。この経緯を初めて知り、その後の沿川地域の変化を重ね合わせた時、本当に考えさせられました。被爆直後の本大橋の写真を見ても、川岸に降りる階段などの位置は、今も当時のまま。つまり原爆以前のものであり、被爆、大水害にも耐え、地域を守ってきた貴重な護岸なんですよ」。


中央左・石積護岸

暮しと共にある川--水道水

はっし~さん「ところで、私達と直接関わりのあることとして、浦上川の水質について調査してみると、現在、下水道の普及などにより、近年では大きく改善し、BOD(生物化学的酸素要求量)の環境基準を下回る良質の水だということがわかりました。実は、浦上エリアの家庭に供給されている水道水は、浦上川沿いの川平地区の水と大井手川の水を貯めた「浦上ダム(浦上水源地)」の水と、「雪浦ダム」「神浦ダム」などから手熊浄水場を通じて導かれた水とがブレンドされたものなんです。知ってました?」。

つまり、浦上エリアに住む人々にとって浦上川は「命の水」ということだ。

はっし~さん「私は、土日は食器洗いを買って出ています。浦上川のことを知れば知るほど、浦上川の水と触れ合うことができてるんだなーと、ウレシクなってきて(笑)」。

暮しと共にある川--いのち

“川まな”こと「川に学ぼうかい in浦上川(大橋地区)」は、浦上川の流域で暮らす人々や、仕事、学校などで関わりのある社会人や学生などの仲間で構成されている。学生、会社員、大学教員、公務員、定年退職者……それに、森林、河川、水産、海岸、環境の専門家が加わった“川まな”メンバーには、多彩な顔ぶれが揃っている。


川まなのメンバー

はっし~さん「会のモットーは、この“川まな”の活動を通して、自由な視点で川に学びながら、少しずつ私達のライフスタイルを見直していけたらいいな……というものです。もう少し言うと、私達自身の在り方を川に学ぼうということなんですね」。

身近な自然とのふれあいを重視し、清掃や観察などを主体とした定例活動を2ヶ月に一度行っている“川まな”。ホームページを覗いてみると、“川まな便り”と題したコンテンツに、参加者それぞれの浦上川に対する想いや新たな発見が掲載されていて、とても興味深い。

例えば……。

川にゴミが捨てられるのは残念です。しかし、私たちもゴミを捨てる人たちも、便利で物にあふれた社会の中で、みな等しくこの川の流域に暮らしています。 浦上川の姿は「あなたが捨ててなくても、あなたも自然とのつながりを忘れかけているのでは?」と、静かに私たちに問いかけているようです。(事務局)

「久しぶりのゴミ拾い楽しんでやらせてもらいました。 あらためて現場で感じることの大切さを思いました。アルミかんがボロボロになるまで放置されたのを見て、とてもさみしい思いになりました。そういった思いを感じられるいい活動だと思います。」  (4月から新社会人として長崎を旅立ったトミーさんの感想)


川まな活動の様子1

川まな活動の様子2

会発足のきっかけでもあるのが“ゴミ”であり、活動の主体も浦上川の清掃と観察である“川まな”。今もゴミのポイ捨ては後を絶たず、雨で下流へと流れ長崎港に至り、海の漂流漂着ゴミとなって、川や海の環境や生きものへ大きな影響を及ぼしている。


漂流漂着ゴミ

活動日、ある日のゴミ

はっし~さん「今のライフスタイルでは、川とのつながりが見えにくくなっています。浦上川を変える、というような革新的なことをするつもりはありませんが、まちのゴミが川ゴミとなって海に流れていっている……とか、私達が常に浦上川や海とつながっているという事実が伝わっていけばいいな、と思っています」。

浦上川に関するはっし~さんの大発見がある。

はっし~さん「浦上川の流域を地図上で見ると、なんと!ハトが羽ばたいている形をしているんですよ(笑)」。

差し出された地図に目をおとすと、確かに!ハトの形。浦上川が経験してきた歴史を踏まえると、なんとも感慨深いことだ。

はっし~さん「私の浦上川への興味は、投棄された“ゴミ”と、歴史から入っていったのですが、今は、歴史を知ることも川に親しむという意味では大切だと思いますが、川の一番の魅力は生きものだと思っています。川に学び、川の生きもの達のことを知ったら、簡単にはゴミを捨てることなんてできませんからね」。

市街地中心部を流れる川のため、高度成長期には随分水質が悪化した浦上川だったが、近年では水質も大きく改善し、アユをはじめ、ナマズ、カワムツなどの魚類や、スッポンやミナミテナガエビ、またアオサギ、カワセミ、マガモなどの鳥類などたくさんの生きものも見られるようになってきた。しかし、戦後しばらくホタルが飛び交っていた大橋地区では、長崎大水害にともなう大洪水と、その後の復旧工事による川の構造上の制約もあり、ホタルを見ることはできない。一方、一時は少なくなった浦上川上流・川平地区のホタルは、地域の人々の取り組みも手伝って、少しずつ数を増やし、生息数も回復。今年も川平地区の川平小学校下付近で、ホタルの飛翔が観察できた。


ナマズ

ヨシノボリ

アオサギ

シオカラトンボ

はっし~さん「今後も“川まな”では、浦上川に生息するたくさんの生きものたちや、水道水源である帆場岳(三ツ山)、岩屋山、金比羅山、稲佐山……森から海までのつながりなどの環境や防災のこと、平和や歴史などに思いをはせつつ、無理せず楽しみながら息の長い活動を続けたいですね。今まで長崎大学のエコマジックのメンバーとは、7年間、共に歩んできましたし、昨年は川平地区にも新たに会が設立されました。これからも会のメンバーをはじめ、いろんな団体とのつながりを大切にしていけたらと思います。そして、いつの日か大橋地区にもホタルが戻ってきたら……と考えています」。



最後に--。
浦上川越しに見る白山墓地の十字架は、悲哀に満ちた浦上の歴史を今に伝える風景――原爆の衝撃で、歴史が途絶えた浦上川を、30年前、再び長崎大水害が襲った。現在、長崎市最大の川、浦上川流域内の人口は、なんと約15万人。市民の3分の1が生活していることになる。川に親しみ、川に学ぶ――被災経験を風化させることなく、川と寄り添い生きる。一度途絶えた浦上川の歴史は、浦上エリアの人々にとって、新たな第一歩を踏み出している。

「川に学ぼうかい in浦上川(大橋地区)」
ホームページ

参考文献
「長崎・浦上川  地域活動団体 川に学ぼうかいin浦上川」公式リーフレット