発見!長崎の歩き方

「記録写真家・高原至が見つめ続ける長崎」


長崎!まず目に飛び込む中町天主堂の十字架
(昭和35年)

長崎市民に感動を与えるノスタルジックな写真から、見たことのない長崎……祭り、遺構、移りゆく街並み、そして長崎特有の海外交流史に至るまで。この街の歩みを、その目で見、心を動かし、シャッターを切り続けている写真家がいる--高原至。

ズバリ!今回のテーマは
「記録写真家・高原至の世界」なのだ。


5月8日~20日の期間、長崎県美術館で開催された写真展「長崎を撮る!~記録写真家・高原至の世界」は大盛況の内に幕を下ろした。 高原さんへの取材は、会期終盤にさしかかった5月16日の開館直後に決行。平日の午前中だというのに、続々とつめかける人々の長蛇の列は、市民の地元長崎に対する関心の高さを物語っていた。



●高原至(たかはら・いたる)
大正12年(1923)長崎市生まれ。東京写真工業専門学校(現東京工芸大学)在学中に学徒兵徴集。戦後、毎日新聞西部本社写真記者を経て、ナガサキフォトサービス(現DEITz株式会社)設立。現在は会長職。

I am コピーマン!

今回展示されている写真の多くは、昭和30年代、高原さんが30代の頃に撮り下ろしたものが大半を占めていた。日本が、時代が大きく変化しはじめたこの頃、やはり高原さんには精力的に記録写真を撮ろうという意気込みがあったのだろうか?

高原至さん「使命感は一切なかったですね。私の写真は全部スナップ。“あっ!”と思ったら、シャッターを切っているだけです。私は単にコピーマン、メモリーマンなんですよ(笑)」。

朗らかに笑い、意気揚々と語ってくださる高原さんは、御年88歳。とても若々しく、二言三言、言葉を交わしただけで、こちらまで元気が出てくるような不思議な力を持っておられる方だ。

高原至さん「人の歩いた道は嫌。どうも私は昔から、誰も通ったことのない、誰も知らないものを見つけるのが好きみたいなんです(笑)」。

写真展では、昨年、発刊された『長崎くんち回顧録』の写真集に収められた、30年代の活気に満ちた長崎くんちの写真も数多く展示されていた。

高原至さん「くんちもお諏訪さんでの奉納踊りよりも、庭先廻りが好きなんです。街中が一体化して、担ぎ手も、見る人も活き活きしてるでしょう?」


長崎くんち人数揃い 万屋町 鯨の潮吹き
(昭和32年)

個人創業を経た昭和29年、高原さんは有限会社ナガサキフォトサービスを設立。30代に入った頃、どうにか仕事が軌道に乗ってきた。

高原至さん「私は南山手が好きでね。忙しかった当時、あの辺りを歩くと心が安らいだんです。もちろんカメラは持っていきますが、何を撮ろうと思っているわけではありませんでした」。

感動と同時にシャッターを切る--そこには、心が動くと、指が条件反射的に動いている高原さんがいた

高原至さん「当時、南山手にはその風景に魅せられた絵描きの人も多くいましたし、写真を撮っている顔見知りもいましたね。あの辺りの雰囲気がすごく好きでしたが、あくまでも建物は背景でした。人との語らい、そこに暮らす人々の存在があってこその風景だったと思いますね」。


南山手 延々とプール坂 母子登る
(昭和35年)

高原さんの瞳の先に、まるでその頃の風景が広がっているように思い出話があふれ出てくる。

高原至さん「当時、度々行くもんだから顔見知りになって、縁側でお茶を御馳走になりながらいろんな話をしたり、しまいには家にあげてもらったりもしました。すると、西洋風のシャンデリアなんかが普通にあるわけです。そして“あっ!”と思うとシャッターを切っている……。その写真を二科展に出したら優秀賞を取りましたよ。ただ、“出せ”と言ったのは友人なんですがね(笑)」。

今回の写真展も実はNBCさんの企画。こんなふうに、高原さんは人生すべてにおいて、周囲の人の力によって道が開かれていったのを強く感じていると語る。

高原至さん「人生にはどんなときも選択肢が2つあります。私は、その全部いい方、いい方を選んできたように思うんですよ。それも自分の力ではなくて、本当に周囲の人の意見、力などを借りてね。運がいいんですよ(笑)」。

写真家を目指すまで

そんな高原さんの生き方の根底には、お父様の存在がいつも中心にあるという。お父様は、名立たるお医者様・高原憲氏。長男であった高原さんは、幼い頃から医者になるという使命を感じておられた。

高原至さん「中学4年生(旧制中学校)の時、授業で“カエルの解剖”をしたんです。カエルを仰向けにして、腹の部分にメスを押し付ける……あれは、スッとは入らないんですよね。ギュッと押し付けている途中で、私は卒倒してしまったらしいんです。それで、その後、担任の先生に呼ばれて、“高原、お前は医者にはなれないぞ”って言われたんですよ。幼い時からずっと自分は医者になる、と思っていましたからね。ビックリして父の弟である叔父に相談に行ったのを憶えています」。

その時、叔父様は高原さんを連れてお父様の病院へ行き、高原さんを待たせてお父様にそのことを話したという。診察室から出て来た叔父様は、高原さんに「OKよ!」と伝えた。

高原至さん「父は、“仕事は何でも一代で完結。子どもに跡を継がせるつもりはない”と言ってくれました」。

中学4年生、至少年の“いずれは医者になるんだ”という志は、こうして消えた。

高原至さん「中学2年の頃から、私は写真に興味を持つようになりました。それも写真自体より現像やフィルム、化学に興味があったんです。家にはレントゲン室の中に、写真の現像ができる暗室もあって、その神秘的な世界に惹き込まれていきました。父のカメラを勝手に持ち出して、学校に行って“パッ”と先生を写して、黙って元の場所に戻しておいたりしていましたね。現像したネガを見て、父が首を傾げているのが可笑しかった(笑)」。

かくして、写真への興味はふくらみ、写真学校進学へ。その時、高原さんの生涯の仕事が決まった。

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発見!長崎の歩き方

「記録写真家・高原至が見つめ続ける長崎」

長崎密着の写真と映像

そんな高原至さんは、会社設立から現在に至るまで、写真と映像を通し、常に地域に密着しながら歩み続けてきた。自らをコピーマン、メモリーマンなどと謙遜されるが、その膨大な量の写真と映像は、貴重な記録としてだけでなく、多くの市民の思い出を甦らせる感慨深いものばかりだ。


活水周辺洋館群 (昭和36年)

今回の写真展で、多くの人がその場から動けなくなった大パネルが数点あった。昭和27年、長崎県から依託を受けて行った長崎市の空撮写真だ。入場客の多くは、それらの写真を前に、指を差し、食い入るように自らの思い出の場所を確認していた。

高原至さん「今までに見たことない角度で、長崎の街を見渡せたこの経験は、貴重なものでした。1週間、あっという間でしたね」。


空撮 磨屋小・中島川・長崎中・本大工町市民グランド・市役所
(昭和27年)

この空撮は、高原さんにとって、とてもエキサイティングな経験だったようだ。

高原至さん「私はいつも撮ってしまったら落ち着いて、整理した写真は寝かせたまま。それを周りが形にしてくれる、いつもそんな感じなんです(笑)」。

原爆で倒壊した旧浦上天主堂を撮影した貴重な写真も、周囲の手によって私達の目に触れる運びとなった。2010年に発行された写真集『長崎 旧浦上天主堂1945-58 失われた被爆遺構』だ。

高原至さん「かねがね私は豪傑で知られる浦上天主堂の中島神父様と懇意にしていました。被爆後のある時、その中島神父様が天主堂からの道をトボトボと歩いて来られて、“コンチクショー”と言われるんです。それは、被爆の爪痕を残す浦上天主堂の取り壊しを長崎市が決めた時でした」。


写真集
『長崎 旧浦上天主堂1945-58
失われた被爆遺構』

長く苦しい弾圧の時を超え、やっと手にした浦上の信者さん達の心の拠り処であった浦上天主堂。それが、被爆、取り壊しという無惨な結末を迎えることになった。

高原至さん「それでも中島神父様は、信者さん達のことを一番に考えるのが神父の役割だと、一刻も早く新しい教会をつくることに心血を注がれました。私が撮影させて下さい、と言うと、“好きなように撮っていいよ”とおっしゃって下さり、私は取り壊されていく浦上天主堂の敷地内を心のままに動き、撮影しました。その様子を見ながら、私はすべてから脱皮したい、そう思ったのを憶えています」。


廃墟で縄跳び遊びの女の子たち
(昭和32年)


土ぼこりを上げ倒壊する南塀
(昭和33年)

それは被爆から13年後、昭和33年の出来事だった。原爆の爪痕が刻まれた旧浦上天主堂と、それが解体される様子を捉えた数々の未公開写真「旧浦上天主堂の記録」展が、長崎・東京・愛知などで開催され、写真集と合わせ大きな反響を呼んだ。


首にロープを巻きつけられ転がされている聖ヨハネ像
(昭和33年)

高原至さん「このお話も、執筆者の横手さん、岩波書店の方から導かれたようなものでした」。
 

ポルトガルに懐かしい長崎を見つけて

昭和43年、高原さんが制作した長崎県観光映画『長崎の詩』が日本観光映画コンクールで運輸大臣賞受賞する。そして、その後も長崎を撮り続けることで、この街の魅力を、しかも高原さんならではの新しい角度によって、深く追究していく活動が加速していく--。

昭和52年、映画『ポルトガル』を自主制作。また、昭和54年、天正遣欧少年使節の足跡を追った約1ヶ月に及び取材を行い、史実に基づく16ミリドキュメンタリーカラー映画を制作。そこには、長崎とは縁深い、ポルトガルとの出会いがあった。

高原至さん「はじめリスボンに着いた時、街全体が古き良き姿を留めていることに感動しました。家の外見はそのままに、内装は時代に応じて新しくして暮らしている。長崎との違いに、街の造り方を考えさせられました」。

ポルトガルの中でも、長崎市と姉妹都市関係を結ぶ「ポルト」の街が高原さんのお気に入り。

高原至さん「ポルトには30回は行っていますね。やっぱり大通りは好きではなくて、横道に入った所がいいんです。七輪を外に出してイワシを焼いていたりね、これをパンに挟んだら美味しいんですよ。そんなふうに昔の長崎でも出会った光景、人とのふれあいが、今現在もあるんです。当時のベローゾ市長さんとは、今も友人で、度々メールで会話しています。私より3ヶ月お兄さんで、返信しないと、“元気にしてるのかー”って電話がかかってきますよ(笑)。結局私は、街ではなく人、人とのふれあいを求めているんだと思います。“また見に行く”ではなく、“また会いたい!”ってね」。

古い街並みを大切に守っている街、ポルトガル。古いものが決して良いだけとは限らない。ただ、古いものを残すということに“人のぬくもり”が潜んでいるような気がする。

取材後、写真が見渡せる展示スペースの中央で、高原さんは多くの方に声をかけられお話されていた。昔、交流があった方、伴侶がお世話になったと訪ねて来られる方、写真に感動して思わず声をかけてしまう方……そんな方々一人ひとりに、高原さんは笑顔で応えておられる。その傍らに素敵な御夫人がおられた。

高原至さん「家内には感謝しかありません。私が好き勝手やってこられたのも、あとのこと全部をきっちり家内がやってくれたお陰ですよ。本当に感謝、感謝です(笑)」。

そう言いながら胸ポケットから2枚のモノクロ写真を出して見せてくださった。 どちらもお二人が出会った頃のもので、1枚は奥様の顔写真、そしてもう1枚は旧浦上天主堂の遺構の傍に佇む奥様の写真だった。シャッターを切った時の高原さんの感動がそこはかとなく伝わってくる。

今に繋がる写真。写真は時を結ぶ--そう思った。


“賃つき餅”本籠町町角歳末風景
(昭和33年)


さくら満開の日見街道を走る県営急行バス
文明堂植樹(昭和33年)


川遊びの子どもたち
中島川も格好の遊び場(昭和35年)


浜町アーケード街
テラゾー舗装で“都会”の装い(昭和44年)

最後に--。
常に新しいことを追い求める、探究心。お人柄が前面に出た豪放磊落な話しぶり。
展示された数々の写真には、心のおもむくままに歩んで来られた、そんな高原さんのイキイキと輝く人生を垣間見ることができる。これからも高原さんが見聞きし、感動した時、指はいつの間にかシャッターを切っていることだろう。
誰にとっても写真は、日頃しまっている心の扉を開く魔法の鍵。高原さんの写真は、市民の心にいつも豊かな財産が眠っていることを教えてくれる、そんな魔法の鍵だ。

参考文献
『長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産』写真・高原至、文・横手一彦、訳・ブライアン・バークガフニ(岩波書店)/『長崎くんち回顧録(昭和30年代の賑わい)』(株式会社 DEITz)