発見!長崎の歩き方

「I LOVE浜んまち!
 --歴史ある町に感謝!!」

昔から長崎っ子の定番は、「銀ブラ」ならぬ「浜ブラ」。長崎開港から100年、1671年に誕生した長崎市の中心地、通称「浜んまち」は、市民に親しみ、愛されながら昨年340周年を迎えた。長い年月、長崎の中心として賑わい、文化を育んできた草創期に迫る。

ズバリ!今回のテーマは
「浜んまちの“まち”たる由縁が見えてくる!」なのだ。

“まち”と呼ばれて340年!? 長崎開港から間もなくして貿易品を運ぶ水運路として活用された中島川やその支流を中心に栄えた長崎の町の中心地、浜んまち界隈。ここには、今も私達のなかに息づく「長崎風土」が漂っている。

♪ハァー むかし栄えた南蛮文化 いまじゃ繁昌の アーケード  咲いたネオンが 人情の花が 招く世界の 人の波  ソレ 嬉しか筈たい 浜市音頭 ハイハイ繁昌の 花の顔(一番)

これは、昭和53年、創立75周年を迎える長崎市浜市商店連合会(当時150店舗)が「ながさき浜市音頭」と「浜市商店街 を舞台とした情緒豊かな歌謡曲」の歌詞を前年の暮れに募集し誕生した「ながさき浜市音頭」という歌。数ある長崎ゆかりの歌謡曲のなかでも、私達、長崎人の心にドドンと響く歌である。

昨年7月、浜の町の中心として「浜屋」と双璧をなしてきた百貨店「博多大丸長崎店」が157年の歴史に幕を下ろした。それは、“まち”の顔として、長く慣れ親しんできた多くの人々にとって、とても寂しい出来事だった。

「博多大丸長崎店」は、安政元年(1854)創業の貿易商「徳島屋」(創業当初は古町)から1934年 百貨店「岡政」、1988年 「長崎大丸」の流れをくんだ百貨店。1854年といえば、あのロシアの海軍プチーチャンが軍艦4隻を率いて長崎に再入港した年であり、日本全体でいえば、国を大きく動かしたペリー来航の年だ。その後明治36年(1903)に、“まち”の中央に位置するあの地に移転進出して「岡政呉服店」に改称。その後、私達が知るところである現代まで、生活に潤いを与えてくれる様々な商品を取り扱い、提供してくれる場所だった。


田栗奎作著『長崎浜の町繁昌記』

ここに『長崎浜の町繁昌記』(浜市商店連合会刊)なる一冊の本がある。著者の故田栗奎作氏は、『長崎印刷百年史』や、『埋もれた歴史散歩 長崎-唐紅毛400年のロマン』、そして昭和30年~昭和42年まで『長崎手帳』という小冊子(全40冊)を書き記してこられた長崎在住作家だった。

以降は、この全516ページにおよぶ田栗氏の『長崎浜の町繁昌記』に記された興味深い内容を元に、「浜んまち」の歴史と変遷に迫ってみたい。

長崎の風土と繁栄の姿を残す「浜んまち」

長崎開港から400有余年、一貫して対外貿易港として繁栄を続けてきた類い稀な歴史を持つ長崎の町。そこでの主役は、つねに長崎町人だった。


暗渠となった観光通り

草創期の「浜町(はまのまち)」を振り返ってみよう。その町名からも想像できるように、浜町は、浜辺の新開地に誕生した。長崎の郷土史家 渡辺庫輔著『長崎町名づくし』『長崎町づくし』を比べ見ると、どうも慶長13年(1608)前後には、すでに造成されていたようだという。北隣りの万屋町(当時の本鍛冶屋町)だけが唯一の町境だったが、前面も東側(現ししとき川)も西側(中島川)も、深い入江だった。また、すでに暗渠となっている現在の観光通りの下にも細い入江があり、これが、長崎特有の「えごばた」の前身となったという。

開港後の町建てによって、現在の長崎県庁の地である長い岬の突端一帯に「内町」と呼ばれる町が6町でき、文禄2年(1592)には、26町となる。その後、慶長2年(1597)、内町に隣接した田畑を整地し、「外町」と呼ばれる材木町(現賑町)、袋町(栄町)、酒屋町(栄町、魚の町)の3ヶ町が誕生。以来、後方地帯や中島川以東に広がりながら外町建設は進み、元和2年(1616)には、内町外町合わせて40ヶ町を数え、人口24,693人の市街地に発展していった。これが浜町が誕生した頃の長崎の様子だ。

その頃は、もちろん扇形の出島(寛永13年(1636)に完成)もなく、足元の砂浜から広がる湾内の緑したたる美しい眺め、多くの南蛮船や朱印船が出入りする光景を一望できる浜町は、最高の景勝地として親しまれていったという。

しかし、その風景は、大浦に外国人居留地ができ、各国の艦隊、商船のすさまじい出入りにより、港が近代化を帯びてきたところで終焉を迎える。しかし、町名に由来する海の風景にはじまった浜町は、その風景が終わりを迎える頃、つまり明治期になって本格的な発展への一途を辿っていくこととなる。

ちなみに、内町と外町の区別はというと、貿易の町、キリシタンの町、町人の町として生まれた長崎の場合、城下町のように武士と町人という区別ではなく、キリシタンの豪商など、特権町人の居住地域が「内町」、そして、一般商家や職人などの居住地域となったのが、「外町」だった。

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甦る遠い昔、江戸時代の「浜町」遠望

■ 初代「鉄橋」を思う。

今も浜町の代名詞となっているのが「中央橋」。これはまさに築町と浜町を結ぶ「鉄橋」のこと。この前身となる橋は、寛永9年(1632)に6月、浜町の完成から24、5年頃に架設された「大橋」だ。当時は、もちろん木造橋。しかし、それは「廊橋」と呼ばれるもので、同様の廊橋に中島川上流の堂門川に架かる「堂門橋」(現大手橋)があった。堂門橋について、江戸中期の長崎の郷土史家 熊野正紹(くまのしょうせいしょう)著『長崎港草』に以下のように記されている。

「郭門画棟朱欄金碧交々輝ケリ」

堂門橋は、彩色も鮮やかな城門風の門に屋根のついた美しい橋だったようだ。大橋の彩色については不明だが、堂門橋より2倍以上もある屋根付きの堂々たる橋だったことがうかがえる。

■ 意外な事実、浜町に門ありて……。

また、延宝元年(1673)からは、唐蘭貿易が糸割符仕法から市法賃物仕法、いわゆる「市法商売」となり、長崎の繁栄に拍車をかけた。市内各町の要所には町民に「町木戸」あるいは「木戸」と呼ばれる柵の門が建てられ、防犯はもとより、抜け荷対策がなされていった。浜町界隈では、万屋町側に3つ、銅座町側に2つ、合わせて5つあったという。

■ 今はなき長崎初の「浜町夜市」。

文政元年(1818)、浜町で夜市がはじまった。「大川」(現中島川の古称)の川岸筋か、はたまた現在の観光通り筋か、場所は不明だが、祭日でもない普通の日に、盛り場が突如出現! ぶらりと出掛けて楽しむことができる「浜んまち」のルーツとも呼べる賑わいが広がっていたようだ。当時の夜市風情を垣間見れる唯一の資料、向井元成(向井去来の弟)など、歴代、長崎聖堂の塾主(祭酒)を務めていた向井家8代目当主・向井閑斉の『閑斉日乗』という日記には、その様子が次のようにある。

「十月九日晴、大人と霊鷲菴(下筑後町)に遊び、夜、阿象と共に浜の町の繁盛ぶりを見物する。思うに、これは前々より浜の町でよろずの品々を集めて売ることを、役所に請願していたもので、値段はふつうより非常に安い。これを市という」

■ 明治前期の「水帳」からわかること。

水帳とは、土地台帳のことで、『長崎浜の町繁昌記』には、明治元年(1868)の東浜町の水帳の略図が掲載され、前述した「町木戸」の場所も記されている。(原図は長崎歴史文化博物館所蔵)本町通り(現浜市アーケード)の道幅は3間2尺(約6m)、長さ121間3尺余(約221m)と、浦町〈裏丁〉(現浜屋、浜屋別館の間の裏通り)の道幅2間(約3.6m)、新地通り(現S東美から浜市アーケードへ抜ける裏通り)1間半(約2.7m)ほか、えごばたが存在していた現在のベルナード観光通りも道筋、道幅ともに現在とほぼ変わっていないことがわかる。えごばたには、2ヶ所、本通りと新地通りに小さな石橋も架かっていた。


かつての浦町


かつての新地通り

■ 長崎新名物「鉄橋」。

木造橋である「大橋」から「鉄橋」となったのは、明治元年。長崎の近代化はこの鉄橋からはじまったといっても過言ではなく、そしてまた、明治からの華やかなりし浜町の歴史も、この橋によってはじまった。この鉄橋を創案したのは、日本近代活字の祖として知られ、当時、長崎製鉄所の頭取を務めていた本木昌造。日本最初のこの鉄橋は、瞬く間に新名所となり、遠方から見物客も多数かけつけたという。総工費はなんと!約16500両。金繰りのよくなかった長崎製鉄所や役所のお金だけでは賄えず、民間からの借入金や有志の冥加銀(租税の一種)で賄ったといわれ、一説には、豪商の多かった浜町が全町をあげて協援したともいわれている。

♪金であるべき銭が紙で 木であるべき橋が金とは  こりゃ さかさまじゃ 世も末じゃ エー ションガラ エー

鉄橋が名物となった頃、当時流行していた「ションガラ節」にのせた、こんな替え歌がはやったとか。

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異国の文化が急速に入り、時代の流れが大きく変わった明治時代。浜町にも変化が訪れる。

ハイカラな町へと移り変わる明治時代

■ 明治初期、「浜町」は銀行の町へ。

明治9年(1876)、本通りの中央に旧田辺屋程十郎の屋敷跡(現浜屋)に、長崎警察署が、翌年に第十八国立銀行(現十八銀行)が開設。すでに西浜町のかつて薩摩屋敷があった場所に日本初の私立銀行、三井銀行長崎支店があり、浜町は、2つの銀行を持つ「銀行の町」となった。

■ 明治10年代、商店街形成期。

十八銀行と時を同じくして開業したのが、舶来小間物商「田中屋」。現在のタナカヤだ。残された当時の帳面には、“イギリス木綿”“アメリカ上生金巾”“英吉利ネル”の文字が見える。竹谷屋寿吉郎が浦町(前述)から現在の東浜町へ移転してきたのも明治10年のこと。神力膏、神力湯の免許を得て、薬種商「竹谷健寿堂」を創業。「どんばら膏薬」と名付けた評判となった神力膏のPRマスコットが、今も店頭で出迎えてくれる「浜町名物」布袋さんだ。

竹谷健寿堂
竹谷健寿堂

初代の布袋さん
たけや初代の布袋さん

二代目の布袋さん
「浜町名物」二代目現代の布袋さん

明治18年発行『商工技芸崎陽魁』という当時の“長崎名店案内”書には、古い商風の町から脱皮を計り、各店、新しい宣伝法に乗り出すべく、店舗広告が掲載されている。店の全景、店内の模様、看板、舶来の軒燈など、あるいは路上に遊ぶ子どもや、当時流行した洋傘、洋装の女性、西洋人男女、弁髪姿の中国人など、当時の風俗が描かれたとても興味深いものだ。掲載されている広告は、商店・会社・質屋・湯屋など42業種108店。なかでも藤瀬セキの洋酒・飲食店の看板は、当時流行した英語の看板で(同じくロシア語も流行)、長崎ではじめて“レストラン”の文字が踊っていた。

明治期の竹谷健寿堂
『商工技芸崎陽魁』に掲載された 竹谷健寿堂の広告(店頭に複製展示)

この本が発刊された前後には、2006年に惜しまれながらも閉店した二枝鼈甲店(明治16年創業、27、8年頃本通りに移転 [閉店時の場所ではない])や、現存する石丸文行堂(明治16年創業は「石丸文具店」、21年に勝山町より現在地へ移転)が、福岡から進出。また、明治17年(1884)、新地通り(前述)には、西洋料理店「清洋亭」が創業した。

■ 市外開発進み、えごばた改修。

明治19年、本通りと交差するえごばたの改修が行なわれた。これは、前年に死者617名を出したコレラの流行が原因で急速に施行した下水工事。これは、浜町以外の市中全域で行なわれたもので、板石を船底型に敷き詰め、危険防止のため、溝岸には“足留め”と呼ばれる一尺角の石が並べられた。今もししとき川の一部に見られる敷き石などは、この時の改修工事の名残りだという。えごばたの改修を終え、本通りはひと際目立つ通りへと生まれ変わった。

■ 明治22年、長崎市発足時の周囲の町々。

長崎奉行西役所のお膝元の町として浜町より10年早くできた築町は、大橋の架かる中島川をはさんで、浜町と競い合った町。もともと商家筋の町だった築町は、鎖国初期から中期までは、浜町をしのぐ賑わいを見せていたが、その後は浜町に一歩越される存在となった。明治時代の言葉に「築町は卸の町、浜町は、小売りの町」というのがあるという。

一方、同じく鎖国初期の延宝6年(1678)、町名を本鍛冶屋町から改称し、様々な業種の店が軒を連ね繁栄した万屋町も、しだいに浜町の本通りにお株を奪われ寂れてしまう。明治時代の万屋町は、町内の万橋脇に新設された魚市場にともない、数多くの魚問屋が建ち並ぶ「魚問屋の町」となった。

鍛冶屋町・本石灰町・船大工町・本籠町――これらの町は、かねてから花街丸山へ、浜町へ出る外国人ルートとして賑わっていた。通りには早くから鼈甲店、漆器店、貴金属店、骨董屋、小間物店など外国人向けの店が建ち並び、明治22年頃も、その様子に変わりはなかった。

■ あかりが灯る!祭りを重んじる!

東京に電灯がついた明治20年から6年後、長崎にも電灯がつき、熊本に継ぎ、九州で二番目の電灯都市となった。この長崎電灯会社の本社も、浜町本通り、唐反物・紡績糸売捌所を営む長崎紡績所の山口徳太郎方に設けられた。ランプの時代から電灯の時代へと移り変わり、浜町商店街は店内の意匠、陳列、装飾に今まだ以上に力を入れはじめる。また、当然のことながら夜間営業へも影響が及び、革命をもたらした。

そのように近代化へと進む一方、「水あるところに神あり」と、江戸時代から続く信心深い行事「川祭り」が東浜町内唯一の年中行事として行なわれていた。しかし、浜町に限らず昔から各町内で行なわれていた川祭りも、かつてはその費用全部が奉行所持ちだったのに対し、明治以降、初代知事・沢宣嘉が「左様な行事は役所では致さぬ」といい、以来、すべてを町内で賄う自主的な祭りとなっていく。由来は不明だが、東浜町の川祭りのご本尊は、浦町にあった2つの井戸(現浜屋の裏、旧春雨タクシー辺り)だったという。祭日は基本的に5月15日。神主を招きお祓い、樽開きをする。また、甘酒を丼に入れて町内残らず配るのがしきたりだった。旧幕時代からの慣習で、世話方は浦町が行ない、新旧入れ替わる商店街の親睦行事として、町内の補助金を潤沢に使って派手に行なわれていたようだ。

大正、昭和。振り返ればいつも「変化」がある。

大正、昭和と、三階建て、洋風建築、鉄筋コンクリート建てなど、老舗商店は時代を先取りする建物に衣替えしていく。そして、戦前、戦中、戦後の時代を経て、浜町はさらに大きく変化を遂げていくのだ。

戦後、アーケード建設などで装いを新たにしながら賑わいを増してきた一方で、いつまでも、のんびりした温かさが残っている「浜んまち」。

嘉永4年(1851)創業の高橋呉服店、明治15年(1882)創業の香りと灯りの店きはら、明治25年(1892)創業の洋傘の老舗ハヤシダ、バックの市丸、明治26年創業の大曲洋傘店、前述の石丸文行堂、竹谷健寿堂……。数々の老舗店が今も点在する「浜んまち」だが、340年もの間、新旧入れ代わりを繰り返しながら、その時代、その時代を築き上げてきたという歴史がある。

田栗氏は浜町について『長崎浜の町繁昌記』に、こう記している。

「長崎的なものが、そこはかとなく漂っている」。

最後に--。
時の流れによって、“まち”の形が変化していくのはいたしかたない。しかし、草創期とほぼ変わらない道筋に長崎の風土を漂わせながら、私達長崎人の心に、いつまでも誇りと安らぎを与える存在であってほしいという願いがある。

♪ハァー 夢に見た見た 夢まで通よた ほんに浜市 パラダイス  店が客呼ぶ お客が店を 呼んであしたへ 伸びる街  ソレ 嬉しか筈たい 浜市音頭 ハイハイ繁昌の 花の顔
 (「ながさき浜市音頭」四番)

誇り高い歴史と、多くの人の愛着を集めた町並み風情。それを守り伝えていくことが、きっと長崎らしい文化継承の形なのだ。

我らの浜んまち
我らの浜んまち

参考文献
『長崎浜の町繁盛記』田栗奎作(浜市商店連合会)