発見!長崎の歩き方

「唐通事と阿蘭陀通詞」


出島への唯一の出入り口だった表門を望む

鎖国時代、長崎と交易のあったオランダと中国には、それぞれの貿易に不可欠だった言語の相違を補う通訳を仕事とする人がいた。当時、現代の通訳兼外交官的役割をも担っていた唐通事と阿蘭陀通詞という職業について調査!

ズバリ!今回のテーマは
「彼らの仕事ぶりに向上心を学ぶべし!」なのだ。

異国情緒を代名詞とする長崎の街には、建物に、祭りにと中国文化があふれ、すっかり定着している。


諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」の奉納踊り「龍踊り」

出島図【長崎歴史文化博物館所蔵】

中国とオランダ、このふたつの国は、いずれも古くから貿易を通じて結ばれた長崎と縁深い国。しかしその縁は、国家間を隔てる大きな障害「言葉の壁」を解消しなければ、決して成立することはなかったことだろう。「唐通事と阿蘭陀通詞」……日本と中国、日本とオランダ。互いの国を結び、長崎の異国情緒、国際色を形成してきたこの職業に迫ってみたい。

唐通事と阿蘭陀通詞の決定的な違いとは?

■ 外国人?日本人?

ふたつの職業は、当然、国家間の言葉の壁を取り払う「通訳」が基本的な仕事。しかし、唐通事と阿蘭陀通詞に決定的な違いがあることに気づいた。それは、唐通事のほとんどは、中国から来航した貿易商人らが日本に移住し、帰化した中国人家系の地役人で構成されたのに対し、阿蘭陀通詞は地元長崎か平戸から移住した通詞、つまり生粋の日本人である地役人が務めていたということだ。

それには、以下のような背景がある。

かつての出島の住人であったポルトガル人は、長期滞在して日本語を操り、キリスト教の布教と貿易活動を行なったのだが、オランダ人にはそれが許されなかった。逆にポルトガル人との間で起きたトラブルを考慮し、キリスト教布教と密貿易を厳しく取り締まるため、商館長(カピタン)の一年交代をはじめ、滞在を短く制限したのだ。そうなれば、当然日本語を身につけるヒマはない。しかし、日本側としても貿易業務は円滑に行なわなくてはならない訳だから、通訳を用立てなければならない。ということで、常に人員を確保すべく、オランダ語の通訳官“阿蘭陀通詞”の養成がすすめられ、年々、組織立てられていった。

一方、中国との繋がりは、そのポルトガル船来航よりも早く、長崎港が開かれた元亀元年(1570)、すでに福建周辺の貿易商人は禁止されていた日本への渡航を試み密貿易を行なっていたという。やがて鎖国に入り、長崎港が正式な対中貿易港と定められると、来航した貿易商人たちは市中に家を構えた。彼らは「住宅唐人」と呼ばれ、長崎奉行によって屋敷取得が許され永住権を獲得。多くは日本女性を妻に持ち、帰化する者も多くいた。実は当時の中国は明朝時代。しかし、明人たちは密貿易時代から自らの素性をあやふやにするために「唐人」と名乗り来航していたため、中国人=唐人となり、中国にまつわるものには「唐」の名が付いた。かくして通訳官も“唐通事”と命名されたわけだ。

■ 唐通「事」と阿蘭陀通「詞」

注目すべきは、唐通事の「事」と、阿蘭陀通詞の「詞」、同じ「つうじ」でも漢字が違うところ。オランダ貿易において通訳や翻訳を主な仕事としていた阿蘭陀通詞が「詞(ことば)」に通じたのに対し、唐通事は「事(こと)」全般に通じる……つまり、通訳はもちろん、長崎に在住する中国人たちの管理、貿易許可証である「信牌(しんぱい)」の発行など、唐貿易全体の業務を仕事とした。何せオランダの場合は、オランダ東インド会社という企業一手の貿易だったわけだが、中国に関しては、中国各地からやってくる民間の貿易商人たち。きっと同じ中国人でしかこなせない業務があったに違いない。

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発見!長崎の歩き方

「唐通事と阿蘭陀通詞」

日本文化に影響を与えた唐通事という仕事

■ 唐通事の創設

唐通事が創設されたのは、江戸幕府が長崎を直轄支配地とした直後の慶長8年(1603)。初代長崎奉行の小笠原一庵為宗(ためむね)着任早々だったという。一庵はまず、山西省出身と伝わる住宅唐人の馮六(ほうろく)を唐通事に登用した。彼ら一世の住宅唐人の多くは中国姓を称し、こうえん(林/りん・こうえん)などの諱(いみな)や、一官、二官など、排行(はいこう)と呼ばれる通称を名乗る者が多かった。しかし、二世になると、日本人妻方の姓(馮六の二代は平野姓)や、父の出身地にちなんだ日本風の姓、あるいは姓はそのままでも藤左衛門や庄左衛門など、日本風の名を名乗り出した。当時の日本人にとって、文化度の高い中国人は憧憬の的。唐通事自身もその中国人を祖先に持つ家柄を誇りとし、中国の文化、風俗、慣習を重んじ代々受け継いでいった。また、彼らは儒学に通じ、書画、詩文などに長けた人物も多く、人々から尊敬を集めた。そして、そんな中国人の血を引く唐通事は、阿蘭陀通詞よりも格上とされていた。

■ 唐通事の構成と世襲

初期の慶長、元和の頃は、2、3人の小規模構成だったのが、寛永期に入って鎖国政策が進むと唐船貿易の重要性が増し、定員は徐々に増員されていく。寛永17年(1640)の構成を見てみると、大通事4人、小通事2人という二階級制だが、翌年には大通事5人、小通事2人とその下部組織も誕生。その後、万治元年(1658)には大通事4人、小通事4人、寛文12年(1672)には大通事4人、小通事5人となり、この大・小通事が「本通事」といい、「唐通事九家」として定数化し、幕末まで受け継がれた。この間、承応2年(1653)に稽古通事が設置されたり、私的な通訳「内通事」が公認されたり、はたまたそれらから分化して、様々な役が新設されたりしたが、唐通事の基本構成は、大・小通事に稽古通事が加わった「唐通事三役」だった。そして、他の地役人と違わず、唐通事の家系も世襲制。唐通事の家筋である70数家は、常に11、12席程度の地位を目指し精進していたわけだ。

■ 唐通事の文化的貢献

職務とも密接に関わってくるため、中国文化との接触や受け入れなどの面において文化的貢献を果たしたのも唐通事の特徴だ。

詩文麗しく、長崎奉行のお気に入り
唐通事 林道栄

唐通事の家筋のうち、前述した林こうえんを始祖とする林家。そのこうえんの息子が名通事、文筆の人として名高い林道栄(どうえい/1640~1708)だ。明末期に渡来した父・こうえんと大村藩士の娘との間に誕生した道栄は、小通事から大通事、唐通事目附、唐船風説定役などにのぼりつめた。父・こうえんは唐通事ではなく、長崎奉行下の唐年行司という役。道栄の代以後、代々唐通事の職を世襲し通事屈指の家筋となった。そんな道栄と双璧を成し、隠元禅師の通事を務めた先輩通事・彭城仁左衛門宣義(さかき にざえもんのぶよし/1633~1695)と詩文の交友を持っていたが、当時在任していた名奉行で知られる長崎奉行・牛込忠左衛門は、二人の詩を愛してやまなかったという。忠左衛門は、日夜奉行所に二人を招き楽しみ、また、宣義へ東閣(とうかく)、道栄へ官梅(かんばい)の号を与えた。また、隠元禅師が興福寺、崇福寺に入山した頃まだ少年だった道栄も、隠元禅師に可愛がられたという。かつて“道栄が浜”と呼ばれた大村藩領だった大浦海岸は、大村藩と関係の深かった道栄に下賜されたことにちなみ、名付けられたといわれている。

文化人が集うサロンを建立
唐通事 何兆晋

文化人として名高い唐通事といえば、万治元年(1658)、小通事4人のうちのひとり、何仁右衛門(が にえもん/1628-29?~1686)。
彼は、崇福寺大檀那で隠元禅師招致の中心人物のひとりである何高材(が こうざい)の長男で、諱を兆晋(ちょうしん)といった。興福寺の心越(しんえつ)禅師から教わった七弦琴(しちげんきん)の名手でもあり、文化人としても知られる存在。兆晋は小通事の職をわずか10年で退き、その約10余年後の延宝年間に、心越禅師ほか著名人が集う別荘「心田菴(しんでんあん)」を建立。今も市内に現存するそこは、当時の文化サロン的な場所だったという。兆晋は、唐通事を退いた同年、父・高材、弟・兆有とともに清水寺本堂を寄進している。


何兆晋が寄進した清水寺本堂

文化に通じ財力を持つ、尊敬の的であった唐通事は、地域貢献にも大いに力を注いでいたことが今の世にも伝わる。それは、寄進の品がいまだ存在したり、その痕跡を残していたりするからだ。市内の寺社を巡っていて見かける燈籠には、かつての偉人たちの名が刻まれていることも多い。

ゆかりの寺社に残る寄進品
唐通事 頴川彌藤太

ザボン発祥の地として知られる西山神社で、陳九官(官兵衛)を祖とする頴川氏家系の五代、頴川彌藤太(えがわやとうた/1680~1742)が寄進した燈籠を見つけた。陳九官は、隠元禅師招致の際、唐三ヶ寺の檀越代表の筆頭に名があげられた人物。三代で唐通事職を世襲できず四代が稽古通事に採用されたが早死。この五代目彌藤太は昇進し、大通事までのぼり、家名を挽回した。この燈籠の寄進された年を見ると「享保四年巳亥」とあり、当時は小通事末席の職だった彌藤太。唐人ゆかりの西山神社に、お家の繁栄を祈願したのだろうか。


頴川彌藤太が寄進した西山神社の燈籠

隆盛を伝える各地に残る寄進品
唐通事 頴川藤左衛門

唐姓の陳を日本姓に変え、頴川(えがわ)姓を名乗った「住宅唐人」には十家程の家系があったといわれている。そのうち6つが唐通事の家系。開祖・陳冲一の長男の陳道隆、初代・頴川藤左衛門(えがわとうざえもん/1616?~1676?)は、唐三ヶ寺のひとつ、福済寺随一の大檀越だった。前述した何兆晋が寄進した清水寺本堂に、福済寺住職、木庵禅師が書いた「清水寺」の扁額を奉納したのは藤左衛門だった。また、最も有名なのは、江戸時代「長崎十二景」のひとつと呼ばれた絶景を成した蛍茶屋と中島川の風景。長崎街道の重要地点であるその川に架けられた唐風石橋「一ノ瀬橋」は、承応2年(1653)、現在の橋は、藤左衛門が寄附したもの。現存する橋は、明治20年頃に架け替えられたものだが、その場所と、いちばんはじめのところという“一ノ瀬”の名は今も受継がれている。


木庵禅師が書いた「清水寺」の扁額


明治期までは樹木が生い茂り、川のせせらぎが聞こえてくる風情ある名勝地だった
【長崎大学附属図書館所蔵】

日本事始めニュース!「唐通事の功績」

「中国の高僧・隠元禅師」を日本に招く
日本への隠元禅師招致運動にも、絶大な支援を行なった唐通事たち。彼らの支援なくしては、現在の日本中にあふれる中国伝来文化は存在しなかった。
「万国公法」の翻訳
欧米の近代の国際法「万国公法」を中国語に翻訳されたものを、唐通事が和訳。後に坂本龍馬が「いろは丸事件」の賠償交渉で用いたともいわれている。
英和辞書「附音指図・英和字彙」を出版
林道栄の子孫・林道三郎は、英語も堪能で、明治6年、緊急を要していた本格的な英和辞書を出版。それまで和英辞書はあったが英和辞書は初めてだった。

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発見!長崎の歩き方

「唐通事と阿蘭陀通詞」

日本近代化の立役者阿蘭陀通詞という仕事

■ 阿蘭陀通詞の構成

16世紀の貿易用語はポルトガル語だった。ゆえに、オランダ人と日本人が最初に会話をしたときも、ポルトガル語の通訳が介在した。そして、ポルトガル人が国外追放されると、次はオランダ語が日本における第一外国語となり、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となっていった。鎖国時代、出島のオランダ人と最も接触の機会に恵まれていたのが、この「阿蘭陀通詞」という仕事。日本人地役人の世襲制に基づき、多い時にはその数150人にのぼった。

彼らは出島勤務を通じ、通商、外交、そして文化交流の事務役を務めると同時に、天文学や医学、化学、物理学を学んだ。江戸時代の蘭学の発達はもとより、西洋科学を広め日本が近代化の道を進む上で、彼ら阿蘭陀通詞が最も重要で大きな役割を果たしたといえる。

阿蘭陀通詞の代表格といえば、長崎生まれの吉雄耕牛(幸左衛門/1724~1800)。彼は、14歳で稽古通詞となり、25歳で大通詞に昇進。50年余りも年番大通詞として活躍した。彼はオランダ語だけではなく、天文、地理、医学などにおいても指導的立場にあったといわれ、吉雄流外科を打ち立て、杉田玄白、前野良沢、平賀源内、司馬江漢をはじめとした数多くの門弟を指導。蘭学の発展に多大な功績を残した。杉田玄白らによる『解体新書』の序文を書いたのは、彼、吉雄耕牛だ。


【長崎歴史文化博物館所蔵】


長崎県庁前、国道34号線沿い長崎県警察本部敷地内にあった吉雄耕牛宅

さて、彼の例を見てもわかるように、阿蘭陀通詞は稽古通詞にはじまり、小通(こ)詞、大通詞へと、その実力によって出世していく。その構成は、大通詞4名、小通詞4名、稽古通詞若干名が基本で、その下に私的な通訳を担う内通詞の一団があって、すべての通詞の監督を担う通詞目付2名があった。時代が下るに連れ、大通詞―小通詞―小通詞並―小通詞末席―稽古通詞―内通詞の職階があり、通詞の補助員として通詞付筆者、稽古通詞付筆者、内通詞付筆者、通詞付小使、通詞付筆者小使……とそして、吉雄耕牛が50年余りも勤めた年番大通詞という役職が、名実ともに通詞の代表、阿蘭陀通詞集団の実力者だった。

■ 阿蘭陀通詞の仕事あれこれ

阿蘭陀通詞の仕事にもいろんなものがあり、江戸参府の同行など、大掛かりなものから遊女代の計算まであった。遊女屋からのひと月分の請求書を阿蘭陀通詞が日本文に蘭訳文を添えて書き改め、商館長に渡すのだ。残された当時の文書からは、商館長ブロムホフ、11日間、糸萩を代82匁5分で、9日間、糸萩を代135匁で、7日間、左門太を代105匁で呼び寄せていたことが伺える……商館長は、ひと月30日のうち、27日間も遊女を側に置いていたことになる……その間の通訳も、阿蘭陀通詞の仕事だった、ということだろうか。

■ 阿蘭陀通詞と商館医

商館医ケンペルが育てた
阿蘭陀通詞 今村源右衛門

「私が出島入りをした直後、私から薬物学を学ぶために従僕として与えられたのである」とケンペルが明記する人物は、後に大通詞となる今村源右衛門。 ケンペルは、まだ青年だった源右衛門に直ちにオランダ語の文法的に教え込み、「幸いかれは早くもその年の終わりにはオランダ語で一応文書を書き、日本の通詞といわれる連中が足許にも及ばぬほどよく話せるようになった」と、その上達を喜ぶまでに鍛え上げた。

ケンペル帰国後、元禄8年(1695)、出島カピタン部屋において日本人の青年たちがオランダ語の会話と外科医学についての通弁の試験が行われた。今村源右衛門は、好成績をおさめ、試験からわずか4日後、直ちに稽古通詞に任命された。ケンペルが出島の地を踏んだ1690年からちょうど5年目のことだった。以来、それまで内通詞の家系だった今村家は、正規の阿蘭陀通詞の家になった。ケンペルがヨーロッパにはじめて日本という国を総合的に観察し紹介した『日本誌』の刊行は、この今村源右衛門の協力なくしては成し得なかった功績だったのだ。


ケンペル
【出島ホームページより】

商館医ツュンベリーに師事
阿蘭陀通詞 吉雄幸左衛門耕牛

出島三学者の一人、商館医ツュンベリーは、杉田玄白らによる『解体新書』が公刊された翌年、安永4年(1775)に来崎。1年4ヶ月、出島に滞在した。ツュンベリーが来崎に備えて準備した荷物の中には、ケンペルの著書『日本誌』も入っていて、彼もケンペルに習い、植物採集の目的を果たすためにも通詞と親しくなろうと試みた。見るに阿蘭陀通詞たちの大部分は、通詞職の傍らオランダ流医学を身につけ名を高めている……ツュンベリーは、通詞らに医学や診療技術を教えるかわりに近郊の植物標本の収集を依頼した。この植物採集でツュンベリーの片腕となったのが、草花をことさら愛した阿蘭陀通詞の茂節右衛門。彼もまた、後に年番小通詞を勤めるほどに出世している。


ツュンベリー肖像画・模写
【長崎歴史文化博物館所蔵】

また、彼のお眼鏡荷叶ったのが、吉雄流医学ですでに名声を誇っていた名門吉雄家の吉雄耕牛。ツュンベリーの著作『日本貨幣考』は、耕牛がツュンベリーにせっせと贈り続けた日本の貨幣あって完成したものだった。

日本事始めニュース!「阿蘭陀通詞の功績」

本木良永の「地動説」
コペルニクスが説いた「地動説」を日本で初めて伝え、〈惑星〉という日本語を生み出したのが本木良永(もとき りょうえい)。
志筑忠雄の「万有引力の法則」
ニュートンの物理学を日本で初めて伝えたのが志筑忠雄(しづき ただお)。後に〈鎖国〉という日本語を生み出したのも彼だった。
蘭和対訳辞書「ドゥーフ・ハルマ」
オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが編集した約5万の単語と約2万の例文が載る蘭和辞書は、11人の阿蘭陀通詞の協力を得て約20年をかけ作成した。



【長崎歴史文化博物館所蔵】

最後に--。
唐通事と阿蘭陀通詞の仕事場はいかに。唐人屋敷の通事部屋、出島オランダ商館の通詞部屋のほかに、長崎奉行の監督のもと、元禄10年(1697)、八百屋町(現 上町)に設置された唐商とオランダ商館に対する貿易機関「長崎会所」と同様に、それぞれ会所なるものがあった。宝暦元年(1751)、唐通事仲間の業務、連絡の中心となる機関として「唐通事会所」が今町(現 金屋町)に設置。やがて手狭となり、宝暦12年に本興善町(現 興善町)に移転。現在、長崎市立図書館の片隅に「唐通事会所跡」の標柱があり、その地を示している。




阿蘭陀通詞であり紅毛外科楢林流の祖・楢林鎮山の邸宅は、出島に面した長崎県庁の裏門横にあった。


長崎県庁と出島の間を通る道路。楢林鎮山宅は、阿蘭陀通詞会所前にあった。

では、阿蘭陀通詞会所跡はどこに? 現在標柱は見当たらないが、出島に架けられた橋近く、江戸町に存在していたことが資料から分かっている。唐通事と阿蘭陀通詞たちは、唐人屋敷や出島とそれぞれの会所を行き来しながら、膨大な仕事をこなし、長崎の町の繁栄に一役も二役も買ってくれていたのだろう。

参考文献
『平成蘭学事始――江戸・長崎の日蘭交流史話』片桐一男(智書房)
『長崎唐通事――大通事林道栄とその周辺 増補版』林陸朗(長崎文献社)
『唐通事家系論攷』宮田安(長崎文献社)
『年番阿蘭陀通詞史料』片桐一男、服部匡延(近藤出版社)
『開かれた鎖国――長崎出島の人・物・情報』片桐一男(講談社)