第19回 日野浩二さん

今回は、長崎の鯨の歴史とともに歩まれてきた、長崎のクジラ商「日野商店」二代目である日野浩二さんに長崎における鯨の文化についてお話しを伺った。

クジラと付き合われてもう何年になられますか?

日野さん「クジラを商売として扱うようになったのは、日野商店に入ってからなので、55年くらいですが、小さい頃からクジラは身近にあった食べ物だったんですね。長崎ではお正月には必ずクジラ料理がでてきますからね。
私は子どもの頃は母方の祖母に育てられたもので、一緒に買い物に行くと、祖母が店の人に「今日のクジラはイワシクジラね。こいは硬かと?柔らかかと?」と聞いていたのを覚えています。長崎の昔の主婦は、クジラの種類を見分けることができたんですね。すばらしいことですよ。」

長崎の人が特に好むクジラの部位ってあるのですか?

日野さん「長崎の人は江戸時代からクジラを食べていたからおいしいところを知っていますよ。特に好んで食べるのは「ウネス」の「ウネ」ですよ。クジラのベーコンは白い部位と赤い部位があって、白いところが「ウネ」、赤いところが「スノコ」です。これを一緒にして「ウネス」といいます。長崎市内の人は「ウネス」から硬い「スノコ」をはずした「ウネ」だけを食べるんです。五島の人もそうですよ。「スノコ」のところしか食べない地域もあるんですから、クジラの食文化はおもしろいですよ。」


今はクジラを食べることがよくないことのような風潮がありますね。

日野さん「それは、クジラを食べる、食べないに集約されるのではなく、「捕鯨」の歴史を知る必要があります。石油が現れるまでは鯨油を取るために、その後は、酪農が発達するまでバター等の原料にするため、ヨーロッパやアメリカの国々が積極的に捕鯨を行っていました。15世紀、スピッツベルゲン島に50万頭もいたセミクジラが20年で絶滅するほどの勢いでした。捕鯨争いはまさに世界の勢力争いだったのです。
その後、世界事情が変わり、捕鯨に関する考え方も意図的に変えられた部分があります。IWCにおける日本の立場は微妙です。いわゆるクジラモラトリアムでは、クジラという資源が減ったらモラトリアムをするということで、資源が回復したらモラトリアムは解除して商業捕鯨を再開する約束なんですが、これがなかなかその通りには行かないのが現状です。平成元年に日本の調査捕鯨のデータでは、南氷洋にはミンククジラが76万頭以上も生息していて、毎年3千頭から7千頭捕獲しても資源に何ら影響を与えないという結論が出ているし、このことは、IWCの科学委員会で認められています。これは、世界中の科学者、反捕鯨の科学者たちも認めていることなのです。
しかし、いつの間にか捕鯨は、非人道的なことだと信じる人が増えました。これは過激な自然保護団体の運動によるもので、日本国内にもそういう人もいますが、本来は違うということを私は身近なところから啓蒙していきたいと思っているのです。歴史的な事実を検証すること、そしてそれを伝えること、そういう活動に余生を捧げたいと思っています。」


長崎ではクジラを食べることを当たり前に思っていましたし、おくんちの演し物にも登場するように、クジラに対して特別な思いもありますよね。

日野さん「そうですよ。クジラを食べる文化があるところには、クジラの出し物がありました。戦後廃れたところがほとんどですが、長崎、唐津にはありますね。それが今でも残っているということは、とても親しい食べ物だったということです。「ヨッシリヨイサ、ヨッシリヨイサ、大きな大きな大背美(おおせみ)よ」という囃子言葉があるように、おくんちのクジラは背中が美しいセミクジラです。 長崎近海にも昔はたくさんいたと思いますよ。」

給食にくじらを出すという取り組みもされていますが、他にはどのようなことをされていますか?

日野さん「給食は、県や市がクジラを導入したいとのことでしたので、協力しました。評判はいいですよ。小さい頃からクジラの味に親しむのはいいことですよね。後は調査捕鯨船の長崎入港にかかわりましたね。調査捕鯨船を長崎に入れたら、いろんな人が助かるんじゃないかと思いたち、多くの人の協力を得て、平成8年に長崎に調査捕鯨船が第一回目の入港をしたのです。これはよかったですね。実績として残りました。二回目は県の発案で誘致運動が起こり、これに協力して結局平成14年に入港しました。捕鯨母船の入港はいいですね。地元が大変潤いますからね。」



日野さんが執筆された本「鯨と生きる」
〜長崎のクジラ商 日野浩二の人生〜
長崎文献社 2000円

地元の活性化のためにまたぜひお願いしたいですね。最後になりますが、長崎で一番好きなところ、またはお奨めの場所はどこですか?

日野
さん「それは、工場と住まいがあった出島ですね。子どもの頃は、出島、江戸町界隈は遊び場でしたから。特にミニ出島には思いの深いものが二つあるんですよ。戦前、県庁は江戸町通りに裏門があったんです。ところが、原爆でそこの裏門が倒壊しました。その裏門を支えていた丸い石の門柱が倒れて長い間放置されていました。先代が馬車を使って運んで、出島の私の工場、それはオランダ時代からの石倉庫ですが、その前に転がしていたんです。すると、通りすがりの人が、その門柱にVOCのマークが刻印されているのに気がつき、これは歴史的価値があるのではと、市に申し出たのです。なんと今ではミニ出島への出入りの門柱になっているんです。
もう一つは、私の工場に使われていた鉄の扉です。これもミニ出島復元のときに移設され、ミニ出島の石壁の中に組み込まれています。この鉄の扉は、当時のオランダ屋敷の時代のものなのです。この扉だけが唯一現存しているんですね。その他の扉は、すべて復元のため制作されたものです。私の工場の倉庫の扉として使っていたので、シリンダー錠を私がつけました。これがはずれないので、シリンダー錠をつけたまま、ミニ出島を復元するときに移設されたのです。ミニ出島の前を通りながら、真鍮製のシリンダー錠を見るたびに、昔を思い出しています。」


歴史的事実をきちんと検証しながら、長崎に生きてきたクジラの文化を後世にきちんと伝えたいといわれる日野さん。それは商売でクジラを扱っているからではなく、クジラの食文化というものを大事にしたいと思っているからだという。全国的にクジラを食べる習慣が減ってきている今、本当においしいクジラは長崎で食べられるんだというようになれば、心強い地域おこしとなるだろう。


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