第9回 勝丸さん


なかにし礼原作『長崎ぶらぶら節』によって、一躍脚光を浴びた日本三大花街跡・丸山界隈。現在の丸山には往時を偲ばせるものは少ないが、市中に点在する料亭へ出向く芸者さんを一手に取り仕切る長崎検番が現存する。
今回の「愛すべき、長崎人」は、この長崎検番に席をおき、芸者の道一筋に歩んでおられる丸山芸者・勝丸さんに“長崎の魅力”についてうかがった。
 
そもそも料亭だとか芸者遊びなどとは無縁の生活を送っているいわゆる“一見さん(一見客)”にとって、芸者という仕事の中味はTVなどの情報を元にした想像の世界に終始する。芸者さんの仕事っていったいどんなものなのですか?


勝丸さん「芸者の仕事は、まずお酌と踊りですよね。踊りは数十ある四季の踊りを身に付け、その場に合った踊りを披露します。芸者の踊りは通しではなく、良い所、華やかな所をかいつまんだもの。毎月だいたい第2週目に数日連続で専属の花柳流のお師匠さんにこちらに足を運んで頂き、ベテランも若手も三味線方も合同で稽古をつけて頂いています。」


長崎検番2階にある舞台

勝丸さんが芸者になられたきっかけは何だったんですか?

勝丸さん「元々、私の母の両親が大正5年頃から置屋※をしていたんです。学校を卒業して一度は長崎を離れ就職していたんですが、長崎に帰ってきた際に母に勧められて芸者になることを決意しました。小さい時、少しだけですけど踊りをしておりましたし、他に何かしたい職業もありませんでしたしね。その時、ちょうど20歳を過ぎた頃でしたが、はじめはお稽古も大変でしたし、年上の女性ばかりに囲まれた環境で、精神的にもきつかったですね。

でも、3年、5年、10年と重ねていくうちに、ご贔屓(ひいき)さんも出来てきて、だんだんとこの仕事の面白みがわかってきましたね。会社間の商談の席によばれることも多いですが、営業の方に「よろしく頼むよ」などと言われた時には、お客様が恥をかかないようにと懸命に務めさせて頂きます。外国人のお客様の場合も身ぶり手ぶりですよ。でもその方がかえってコミュニケーションがとれるんです。昔は本当に“夜の営業部員”と、頼りにされることも多かったですよ。(笑)」
※置屋:芸妓をかかえておき、茶屋・料理屋などの求めに応じて、芸妓をさし向けることを業(なりわい)とする家。



お正月の挨拶に行った料亭で


現在の丸山芸者さんは何人ぐらいでどんなお仕事ぶりなんですか?

勝丸さん「現在、長崎検番には14名の芸者(三味線方も含む)がおりますが、30年以上のベテランさんがほとんどです。でも2年前にこ丸(21歳)、今年4月に花音(かおん)(18歳)と若手が入り、丸山芸者の後継者が出てきました。面接は行いますが、やりたい!という方には常に門戸を開いているんですよ。いろんな面で一つでも若い方がいいですから、興味のある方は早めに見学に来てみてください。私達の仕事は年末、お正月、行事が多い春が特に忙しいですね。夏場は意外と暇ですが、10月は長崎ではおくんち(長崎くんち)がありますから、またそれで忙しいんです。」

私達“一見客”が、長崎検番の芸者さん達の踊りを見られる数少ない機会が、諏訪神社の秋の神事「長崎くんち」ですね。やはり芸者さん達の熟練された踊りの美しさには惚れ惚れさせられます。

勝丸さん「お師匠さんはいつも“芸者の踊りは口では言えない色香のようなものがある”とおっしゃいますね。戦前は200人以上、戦後も60〜70人の芸者がいたんです。おくんちで踊ることができる芸者は少数なので選ばれると嬉しかったですね。私は昭和46年頃からは毎年どこかの踊町に呼ばれ、20年位連続で出ていました。今も東浜町が踊町の年は必ず踊らせて頂いていますよ。」

さて、そんな勝丸さんから見た長崎の魅力ってどんな所でしょう? 観光客、またはこれから長崎に移り住む方へ訪れて欲しい場所など具体的なアドバイスをお願いします。

勝丸さん「私はお寺が好きだからお寺の周辺を歩くとホッとしますね。興福寺、寺町通り、そして聖福寺なんかも好きです。それから長崎で一番古い商店街である中通りに今も残る町家などを見て歩くのもいいですよね。中島川沿いの光永寺と周囲に咲く花、柳の風景も大好きです。」


光永寺と中島川石橋群

中通りから寺町通りへ


丸山本通りに位置する長崎検番は、築100年以上、かつて外国人専用の遊廓だった建物で2階には洋風の出窓が施されている。玄関口の石段もおそらく当時のものだという。その建物から、ときに風流な三味線の音が聞こえてくる。
夕刻。花月、青柳、松亭など近場の料理屋さん(料亭)へ向かう着物姿の芸者さん達が歩く姿もまた、長崎の人々が愛し、観光客にお勧めしたい光景だ。



長崎検番外観


長崎検番2階の出窓

【もどる】