「築町」の名は海を埋め立て築かれた町という意。創設は天正13年(1585)?文禄元年(1592)とも、関ヶ原の合戦が行われた慶長5年(1600)ともいわれています。いずれにせよ元亀2年(1571)の開港から20年足らず。開港時にできた6町以降、続々と新しい町が造成され、拡大していった草創期の長崎の町の発展ぶりがうかがえます。しかし、現代の長崎には「埋め立てた町=築町」というイメージは浮かぶのでしょうか。長崎人にとっての「築町」は、市街地を往来する路面電車の電停。またはかねてより食の台所と呼ばれた市場のイメージです。
同額運賃で路面電車の乗り換えができる唯一の電停「築町」は連日多くの人で賑わいます。この電停は現在の築町からは、ちょっと離れた場所にあり、「なぜここが築町?」と疑問を抱くかたも多いことでしょう。かつての「築町」は広範囲な町で、築町電停の場所もかつては築町でしたが、中島川の埋め立てと町の分断を繰り返したため、今の範囲まで狭くなりました。普段は往来する人々の賑わいで隠れていますが、長い歴史を持つ築町のそこここには、時の流れを感じるポイントも多く残されていて、散策にも適しています。何といってもまずは「食」。鯨肉専門店、蒲鉾店、からすみ店、乾物店などの老舗が点在。店構えも貫禄があり品揃えも豊富。長崎の食文化にふれるには打ってつけのエリアです。かつて路上には、その日に水揚げされた新鮮な魚を据え売りするおばさん達の姿があり、それがこの町の代名詞でもありました。平成10年(1998)、昔ながらのトタン屋根が特徴的だった公設市場を建て替え、新しい食の発信基地「メルカつきまち」が誕生しました。地元で獲れた魚が並ぶ鮮魚店のほか、長崎ならではのお惣菜なども販売していて、長崎の旬の味覚に触れることができます。
また、この「メルカつきまち」の裏手は丘になっています(国道34号線側)。これは、長崎が誕生した頃の地形に由縁するもの。歩くと、もともと海に長く突き出した岬から「長崎」の語源になったという説を実感させられます。
今回おすすめするのは、市街地一の繁華街である「浜町」の隣町、「築町」で見つけるシャッターポイント。長崎ならではの食文化や、歴史を感じる石垣、石段、先人たちの人間模様……。長崎らしさ、長崎の町が抱く物語に思いを馳せて、シャッターをきってみてはいかがでしょうか?
日清戦争直後に業者が集まり開設した「魚菜市場」、明治37年(1904)に開設された「築町市場」「小野原市場」、この3つの市場の総称が、長年市民に親しまれてきた「築町市場」。現在は「メルカつきまち」の1Fがその名を引き継ぎ、長崎の食の文化の発信基地となっています。
「長崎版 忠臣蔵」の現場。深堀家の深掘三右衛門と柴原武右衛門の2人がこの坂を歩いていて、はねた泥が町年寄高木彦右衛門の仲間にかかり争いになったのが事件の発端。高木家の面々は、深堀屋敷(現 五島町)に殴り込みをかけて乱暴を加えました。無念に思った深堀藩士たちは、翌日未明、深堀から駆けつけた20余名で高木家へ討ち入り。高木彦右衛門の首をあげました。
「メルカつきまち」の裏手、長崎県庁南東側に断続的に連なる石垣は、一説には、開港当時(16世紀後半)の遺構であると考えられています。当時、長崎はキリシタンの町であったため、攻撃してくる敵対勢力に対抗するためのものだったかもしれません。道なりを歩くと、その立派な石垣に圧倒されます。
寛永9年(1632)、現在の浜市アーケード入口で、中島川を挟む「築町」と「浜町」をつなぐ橋が築かれました。現在、「鉄橋」と呼ばれる「くろがね橋」。当時の橋名は「大橋」といい、木でできた屋根付きの木造橋(木廊橋)でした。前述の『長崎版 忠臣蔵』で討ち入りした一人、志波原武右衛門は、本懐を遂げ、この大橋の上で切腹したといいます。
長崎市街地から程近い漁場、茂木(もぎ)漁港直送の鮮魚を販売する店。かつては、路上で据え売りをしていた漁師の奥さんたちも働いていて、長崎ならではの魚の特徴や、その美味しい調理法などを教えてくれます。通りには、ほかに数軒の鮮魚店があり、直送出来るお店も。ぜひ新鮮な魚をお土産にどうぞ。
市街地の中心にありながら、素通りしがちな築町界隈。実は地形や道の構造にも長崎の歴史が垣間見られる穴場スポットです。ぜひ、あなたが出会ったベストショットを撮影してみてください。
【 築町界隈 】