vol.4 長崎生まれの「艦船」たち

1865年頃に撮影された一枚の写真に、誕生間もない〈長崎製鉄所〉の全景がとらえられています。江戸幕府によって開設されたこの〈長崎製鉄所〉こそ、現在の〈三菱長崎造船所〉の前身です。造船の町、長崎の夜明けは幕末――その先陣を切った〈三菱長崎造船所〉の歴史に触れつつ、今回より2回に渡って、明治、大正、昭和、平成と、この長崎造船所で誕生した船をご紹介します。
写真提供:「長崎大学附属図書館」

安政2年(1855)、江戸幕府は海軍創設のため、長崎に海軍伝習所を開設しました。そこでの訓練船は、オランダから贈られた練習艦「観光丸」。しかし、訓練を重ねていくうちに船や機関に細かな故障が生じたため、機械設備を備えた蒸気船修理施設が必要となってきました。そこで幕府はオランダから機械を輸入し、海軍機関士官ヘンドリック・ハルデスらを招き、〈長崎鎔鐵所〉を創設。安政4年(1857)、奉行所の許可を得て蒸気船修理施設の建設工事を開始し、その4年後、日本初の本格的な洋式工場、煉瓦造りの〈長崎製鉄所(飽の浦機械工場)〉が完成しました(建設中に改称)。当初の工場は、鍛冶場、工作場、鎔鉄場の3工場を備えていましたが、船を建造するには至らず、一部の機械を製造するか、普通艦艇の小修理をする程度のものでした。明治に入ると、本業のほかに橋梁の架設、浚渫(しゅんせつ)機の製造、活版なども行っていました。グラバーと薩摩藩の協力のもと、すでに完成していたグラバーが管理する〈小菅修船場〉を政府が買収したのもこの頃、明治2年(1869)のことです。そんな中、明治12年(1879)に、政府の支持を得て明治7年(1869)に着工した「立神第1ドック」が完成します。時は西南戦争時ということもあり、以降、修理だけではなく新船を建造するようになっていきます。

しばらく官営の時代が続きますが、明治20年(1987)、政府から払い下げられ、三菱社が借用の施設一切を買い受けて正式に三菱の経営に。明治26年(1893)、三菱合資会社の設立に伴い〈三菱合資会社三菱造船所〉と改称されました。官営時代には木造の蒸気船が建造できただけでしたが、明治20年には、長崎造船所初の鉄製汽船、200tの「夕顔丸」、明治31年(1898)には、6000tの貨客船「常陸(ひたち)丸」などを建造することができるようになりました。

さて、我が国の重工業技術は、求められる(※注1)“海軍艦艇の建造” の進歩向上により発展してきたと言っていいでしょう。海軍創設期は、軍艦をイギリス、ドイツ、フランスの三国から輸入していましたが、明治32年(1899)初頭、初めて軍艦の建造命令が三菱造船所に下りました((※注1)「白鷹(水雷艇)」)。以来、三菱造船所は海軍直営の軍需工場である海軍工廠(こうしょう)と共に活躍しはじめます。明治29年(1896)に、「第2ドック」、38年(1905)に「第3ドック」が完成。そして、明治42年(1909)、イギリスから輸入された「150トンハンマーヘッド型起重機」が、三菱造船所飽の浦の艤装岸壁に設置されました。長崎港を彩る風景に欠かせない、水の浦岸壁にそそり立つ「150トンハンマーヘッド型起重機」は、今も現役にして、数々の船を見守り、送り出してきた時代の生き証人です。


150トンハンマーヘッド型起重機
写真提供:「長崎大学附属図書館」

日露戦争(明治37年(1904)〜38年(1905))後、我が国設計による装甲巡洋船「筑波」、「生駒」、戦艦「薩摩」「安藝」などの戦艦が、海軍工廠で建造されはじめます。それまでの軍艦はすべて外国から輸入していたので、この建造は我が国の軍艦建造の歴史にとって大きな出来事でした。そんな中、三菱造船所に発注され建造されたのが、27,500tの(※注1)巡洋戦艦「霧島」。はじめて民間の造船所が建造した記念すべき純国産の第1番艦であり、その後、海軍主力艦隊の大半を建造した三菱造船所の建艦技術の基礎をつくった戦艦でした。それまで、三菱造船所の工場施設は5000tクラスの巡洋戦艦の建造には事足りましたが、巨大な艦船を造るには手狭。そのため、工場の拡張、ドックの延長、そして、ガントリークレーンが建設するなどの施策がなされました。

そして、大正4年(1915)に竣工したこの巡洋戦艦「霧島」以降、大正7年(1918)に竣工した三菱造船所建造、第1号の(※注1)戦艦「日向」、大正9年(1920)に起工した戦艦「土佐」、大正10年(1921)起工の巡洋戦艦「高雄」と艦船の建造が続いていきます。ちなみに、近代化遺産として、今最も注目を集めている端島(はしま)が〈軍艦島〉と呼ばれるようになったのは、この戦艦「土佐」に似ていたから、というのは有名な話ですね。ところで、長崎生まれの戦艦といえば、やはり戦艦「武蔵」。長崎造船所が太平洋戦争終結までに建造した80隻の世界に冠たる優秀な艦艇の中で、建艦技術の頂点に立つのが、昭和17年(1942)に竣工した、この戦艦「武蔵」です。「霧島」、「日向」「土佐」「高雄」に継ぐ、この5隻目の戦艦は、当時、主力艦の数の不足を個艦の優秀性で補おうと、極秘のうちに長崎造船所第2ドックで建造された当時世界最大、最強の超弩級(ちょうどきゅう)戦艦でした。


霧島
写真提供:「三菱史料館」




日向
写真提供:「三菱史料館」
(※注1) 明治4年に設立され、昭和20年に解体した大日本帝国海軍における「軍艦」の定義は、海軍に属する船を「艦船」と総称し、その中の戦闘用船舶が「艦艇」、さらにその一部を「軍艦」と呼び、「戦艦」も「巡洋戦艦」もこの中に入る(「水雷艇」は、「軍艦」「潜水艦」などと同様「艦艇」の一部)。 それぞれの具体的な定義は非常に難しいが、「戦艦」は、海軍兵器の主軸が砲であった19世紀〜第二次世界大戦時、当時で最高の威力の砲とそれに対応する装甲を搭載した「軍艦」。一方「巡洋戦艦」は、その時代の一般的な戦艦とほぼ同等の攻撃力を持っているが、遠洋航海に耐えうるため、防御力を犠牲にして速力と機動力を獲得した「軍艦」といえるだろう。

(※注2) 旗艦とは、司令官と幕僚を乗せ、艦隊に指示を出す高いマストを有する最大最強の艦たる戦艦。

※名称の変遷/〈長崎製鉄所〉は、明治4年(1871)に工部省所管となり〈長崎造船所〉−〈長崎製作所〉−〈長崎工作分局〉−〈長崎造船局〉と改称。また、明治26年(1893)に〈三菱合資会社三菱造船所〉となった以降も、数度の改称を経て、現在の〈三菱重工業株式会社長崎造船所〉に至る。
 
参考文献
『創業百年の長崎造船所』(三菱造船株式会社)、『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』姫野順一著(朝日新聞出版)

参考ホームページ
三菱重工 http://www.mhi.co.jp/company/facilities/history/corner_06.html
 



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