● 龍馬と同時期に長崎で活躍した女実業家

長崎龍馬の道--21  大浦慶居宅跡




新茶のおいしい季節となりました。長崎は実はお茶文化発祥の地でもあります。臨済宗の唐僧 栄西禅師により、平戸にもたらされたのが12世紀末。もっとも、庶民がお茶を楽しむようになったのは1650年代。唐の高僧 隠元禅師が日本最古の唐寺、興福寺に釜いり茶の製法技術を教えてからのことだといいます。それから約200年後の長崎で、お茶を商売に一代を築いた女性がいます。幕末から明治にかけて、主にアメリカへ九州一円のお茶を輸出し、長崎の三大女傑のひとりにあげられる大浦慶です(1828〜1884)。お慶は油屋町の老舗の油商 大浦家に生まれました。しかし、やがて油販売業が不振となり家運が傾きます。そんな際、商人としての才覚に恵まれたお慶は、大浦家を何とか立て直そうと茶貿易に注目。嘉永六年(1853)、 オランダ商館員テキストルに嬉野茶の見本を託し、イギリス、アメリカ、アラビアへと送ります。これがきっかけとなり、安政3年(1856)、後に外国人居留地の一角(現在グラバー園内 旧オルト住宅)に大豪邸を構えるイギリス人貿易商 オルトと一万斤(約6トン)を取引。以後、居留地の外国人商人と手を組み、日本茶を海外に輸出し莫大な利益を得ました。『長崎県人物伝』には「人となり剛毅(ごうき)頗(すこぶ)る気概あり、幕末の頃薩長土肥脱藩の士、検索を免れ、遠く奔(はし)りて長崎に来るもの、皆ケイ女の庇護に依らざるなし」とあります。海援隊士 陸奥陽之助と懇意だったとも伝えられていますが、おそらくは龍馬をはじめとする他の海援隊士、幕末の志士達も、お慶の経済的支援を受けていたのではないでしょうか。大浦家の屋敷跡から徒歩5分の場所に、地元で「清水さん」と親しまれる清水寺があります。その参道、長い石段の中程左手に聖天堂という小さなお堂があり、ここにはお慶が信仰していた秘仏の「歓喜天(かんぎてん)」がまつられています。江戸時代の長崎はたとえ商人の力が強かったとはいえ、幕末から明治という時代に女性が一人で商売をすることは想像に余りあります。参詣のたびにお慶はこのお堂の前にひざまずき、きっと多くのことを祈願したのでしょうね。

期間限定の施設『長崎まちなか龍馬館』(http://www.nagasaki-ryoma.jp/)にも、お慶のコーナーがあり、かつて油屋町の豪邸の庭に配されていた石灯籠を目にすることができます。お慶はもちろん、龍馬も眺めたかもしれない立派な石灯籠です。






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