TEL095(844)3496 上野町22-6

開館  9:00〜17:00
入館料  15歳以上100円(※小・中・高校生は無料、図書館の利用は無料)
休館  12月29日〜1月3日
駐車場  1台(福祉車両及びタクシー専用)


●JR長崎駅からのアクセス
路面電車/長崎駅前電停から赤迫行きに乗車し、大橋電停下車。徒歩10分。
長崎バス/長崎駅前バス停から8番系統・下大橋行きに乗車し、如己堂バス停で下車。徒歩1分。
車/長崎駅前から約15分。



苦しみを胸に、願い祈った平和への思い
永井隆博士の精神がこの記念館に在る


医学博士であり、厚い信仰心を持つカトリック信徒だった永井隆博士は、長年取り組んでいた放射線の影響により、被爆前にすでに白血病を患い、余命3年の宣告を受けていたという。原爆によって愛妻を亡くし、自分もまた被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と発表を続けた博士。寝たきりとなってからは、如己堂(にょこどう)と名付けた2畳一間の部屋に2人の子どもと住み、そこで多数の著書を執筆した。
そして、余命3年と宣告されてから6年、昭和26年に永眠の時を迎えた。死後、解剖執刀医は、「死を賭して精進した結果、死期がのびた」と発表したのだそうだ。
病と戦いながらも力の限り発信し続けた博士の願い、祈りとはどんなものだったのだろう? 如己堂に隣接する平成12年に全面改築した永井隆記念館には博士の遺品、書画のほか関係写真などが多く展示されている。年間を通し全国から15万人以上の来場者が訪れ、ピーク時には修学旅行生が1日で4,500人を越えることもあるという。展示を見た多くの人々が博士のメッセージを受け止めこの記念館を後にする。そんな全国の学生の平和学習の発信基地として永井隆博士の遺志を発信し続ける永井隆記念館へ……探検隊いざ潜入!




平和の尊さを書き綴り、訴え続けた6年間
永井隆博士が後世に残したメッセージ

永井隆博士のことを知るには、やはり著書を読むのが一番だ。医学と信仰における人類愛、探究心、また博士が見て感じた原爆落下直後の長崎の町と人々の様子。残しゆく子ども達への思い。平和への願い、祈り。

思い出すために努力をせねばならぬほど弱い印象は1つもない。(『平和塔』より)

あの8月9日の悪夢の日を最後に世界に平和が訪れ、その平和の尊さを後世に伝えるためにと書き綴ったのだろう。
また、博士は「平和を」の書を千枚書き、知人や世界各国の人々に送り平和を訴えた。そして、原子野を花咲く丘にしようと、桜の3年苗木1000本を浦上の学校、教会、病院、道路などに植えた。“永井桜”“千本桜”と呼ばれるこの桜は、今も春になると浦上の丘を彩っている。

爆心地近くの山里小学校、城山小学校にもこの桜があるが、山里小学校には、「子ども達よ、あの日死んだ友を忘れるな」というメッセージが込められた博士が作詞した『あの子』という歌があり校歌と共に歌い継がれている。

博士のこれまでの功績を讃え、また闘病生活を見舞うために、床に伏してから亡くなるまでの3年の間に博士の元へは様々な人が訪れた。昭和23年、ヘレン・ケラー女史が何の前触れもなく如己堂に訪れた。昭和24年、昭和天皇も足を運びになりお言葉をかけられた。同年、教皇特使ギルロイ枢機卿も見舞いに訪れ、その翌年、教皇からロザリオが贈られた。同じく昭和24年、長崎市長の表彰を受け、博士には第一号の長崎市名誉市民の称号が贈られた。
そして昭和25年、当時の吉田茂首相から表彰を受け、天皇からは銀杯一組を贈られた。それから約1年後の26年5月1日、博士は長崎医大で亡くなった。(享年43歳)



人類愛に満ちた医学博士、世界の平和を祈る作家、そして子どもを愛する父。永井隆博士が残した精神は、現代に、そして未来に生きる人々の平和活動の礎となっている。




おすすめチェックポイントベスト5


1.恒久平和と隣人愛を発信し続けた場所〜如己堂

ここは永井隆博士の病室兼書斎。原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたこの建物を、博士は“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂(にょこどう)”と名付け2人の子どもと共に暮らした。
北側の壁に香台、本棚を取り付け、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置き、寝たきりの博士は執筆に励んだという。如己堂について著書『平和塔』に次のように書き記している。
「この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。(中略)如己堂…己の如く他人を愛すという意味を名にとったこの家は、家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。そして今にいたるまで、その数々友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。」
現在この如己堂は、多くの人に受け継がれている永井隆博士の恒久平和と隣人愛の精神の象徴となっている。





2.遺品で、映像で、永井隆博士の生きざまを知る!

如己堂横の記念館では様々な展示を通して永井隆博士の生涯、精神、そして平和への祈りを知ることができる。原爆が落ちた後、患者の救護にあたり忙しかった博士は、3日目にやっと家へ帰った。そこは一面の焼灰。しかし、博士はすぐに台所の跡にあった黒い塊を見つけた。緑夫人の亡骸だ。その側にあったロザリオ。著書『ロザリオの鎖』に記された、この原爆で焼けただれた緑夫人の十字架のついたサンゴのロザリオは、原爆の脅威と共に、博士と緑夫人との絆を示している。
また、映像鑑賞コーナーでは『永井隆博士の生涯』『原爆と医療活動』『医学と信仰』『平和を願って』の4種類、それぞれ約5分間の映像が鑑賞できる。
これらの映像を目にすることによって、博士が体験してきたことをより身近に感じ、より直接、メッセージを受け取ることができるだろう。








3.永井隆博士のメッセージが込められた著書


写真は永井隆博士の主な著書。テーマは原爆、人間、愛、平和……いずれも博士自らの体験をもって後世に伝えておきたいと願ったメッセージ性に富んだ作品ばかりだ。なかでも『長崎の鐘』『この子を残して』は名高い。博士の青年時代から原爆被爆、そして死までの生き方を2人の子ども達を交え、長崎の鐘に託した愛の物語『長崎の鐘』を原作に、日本で初めて原爆を扱った同名の映画と藤山一郎が歌った同名の曲が誕生した。また、寂しくてもつらくても強く生きていって欲しい……重症の床に伏す薄命の父が愛惜の情を込めて書き残した遺訓書『この子を残して』も映画化され広く人々に親しまれている。記念館内にはこれらの初版本をはじめ、外国語に翻訳された著書も展示されている。世界各国で読まれている永井隆博士の作品群。博士のメッセージは万国に通じる願いなのだ。





4.うちらの本箱〜子どものための図書室健在!

永井隆博士は、戦後子ども達のすさんだ心を少しでも豊かにしようと、私財を投じて子どものための図書室「うちらの本箱」をつくった。そして博士の死後、博士の考えに賛同したブラジル在留邦人の寄附金と私費によって昭和27年(1952)、長崎市立永井図書館が完成した。その後改称、改築を重ね、様々な展示を通して博士の意志を伝えるべく記念館として現在に至っている。そんな中、「うちらの本箱」はこの記念館の2階に現存していた! 博士の著書や平和関係はもちろんのこと様々なジャンルの本があり、この場で読むことも長崎市民なら借りることも可能。また、この図書室では定期的に子ども達に読み聞かせを行っている。



5.如己堂は張方(ちょうかた)屋敷跡

如己堂がある場所は、潜伏キリシタン時代の指導者である張方屋敷跡だった。慶長18年(1614)、徳川家康が禁教令を発布し、宣教師は国外追放、教会はすべて破壊された。当時長崎地方には約5万人のキリスト教徒がいたが、以後約250年間、武装抵抗することもなく潜伏したのだ。
帳方とは司祭の助力なしに教義、儀式の維持と伝承につとめる互助組織で、総頭(そうがしら/帳方)、触頭(ふれがしら/水方〜洗礼を授ける役)、聞役(ききやく〜水方を補佐し日繰りなどを各戸に伝える役)の三役体制の最高責任者・総頭のこと。帳方は日繰り(教会暦)を所持して年間の祝日や教会行事の日を繰り出し、祈りや教義を伝承していたという。
初代帳方は孫右衛門がなり、これを代々子孫が受け継ぎ、安政3年(1856)、浦上三番崩れでミギル吉蔵が検挙されるまで7代続いた。永井隆博士の妻、緑夫人はミギル吉蔵の子孫にあたるのだそうだ。浦上ではサンタ・クララ教会を世話していた孫右衛門によって組織された。



記念館の玄関には “汝の近きものを己の如く愛すべし”(聖書:マルコ12章31節)から「如己愛人」という句が掲げられている。
永井隆博士の生き方とはどんなものだったのか。何を願い、祈り、何を残したのか。永井隆記念館には、現代に生きる私達が知っておかなければならないことが溢れている。毎年夏には様々な企画展も催される。一度ゆっくり訪れ、博士が遺した「如己愛人」の言葉の重みを感じてほしい。



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