■DATA■
滞在期間/文化元年〜2年(1804〜1805)の1年間
連れ/なし
目的/長崎奉行勘定役として


大田南畝●おおた・なんぽ
/寛延2年〜文政6年(1749〜1823)。狂歌師。戯作者。江戸牛込仲御徒町にて誕生。名前は覃(たん)で通称・直次郎。「南畝(なんぽ)」は少年時代から晩年まで使用した号だ。天明期には四方赤良(よものあから)、文化文政期には蜀山人(しょくさんじん)などの筆名で全国にその名を轟かせた狂歌の天才。


江戸で大ブームの狂歌、長崎到来!
笑いの文芸をもたらした天才・南畝

「彦山の 上から出づる 月はよか こげん月は えっとなかばい」

わずか一年間の滞在で長崎弁を使いこなし、万人の笑みを誘う長崎情緒を歌い上げた江戸の狂歌師、蜀山人こと大田南畝。そもそも狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した本歌(和歌)のパロディ。和歌の形式を模してはいるが、文学的には別物と捉えられている笑いの文芸だ。 “江戸の天明狂歌ブーム”といわれた天明年間は、狂歌人気が過熱。南畝も狂歌三大家の一人として四方赤良の名で一世を風靡した。当時、経済的には勢いのあるバブル期だったが、つづく寛政年間にはデフレ期が到来。何やら現代と似通った風の吹く、そんな時代、南畝は人間が好きだ!生きることが好きだ!という歌を多数詠んだ。

そんな南畝が幕府直轄領であった長崎に長崎奉行支配勘定方として派遣され、一年間滞在。数々のエピソードを残している。

「岩かどに 立ちぬる石を 見つつをれば になへる魚も さはくちぬべし」

これは南畝が時津街道沿いの奇妙な形の岩を見て詠んだ狂歌。題材はご存知!「鯖くさらかし岩」である。落ちてきそうな岩を怖がり、落ちるのを待っていたらとうとう鯖を腐らせた〜。ウソかマコトか、今でも笑えるこの話の発信源は南畝だったのだ。

江戸っ子ならではの洒落っ気たっぷりの面白い人物!というイメージが先行する南畝だが、実像は江戸屈指の読書家で勤勉かつ有能な勘定方でもあった。そのことを物語るのが“昼の南畝に夜の蜀山人”の異名だ。

江戸時代後期の名君として知られる松平定信。彼が人材登用の手段としてはじめた学問吟味を、南畝は齢41歳にして受験し、将軍に拝謁できない目見得以下のクラスにおいて見事主席で合格。ちなみに旗本以上のクラスの主席は、かの遠山の金さんのお父上である遠山金四郎景晋(かげくに)だった。つまり、現代でいえば、老年期である41歳で官僚試験を受験し、48歳で支配勘定という今でいう財務省に登用された勤勉家なのだ。そして、53歳で大坂銅座へと栄転。一時絶縁していた狂歌界にカムバックする。実は蜀山とは銅の異名で、この頃から蜀山人と名乗り狂歌師としてまたも活躍、名声を轟かすこととなる。

そして、56歳で長崎奉行所勘定所に着任。当然ながら、長崎にも南畝の狂歌名、“蜀山人”は轟いていた。彼は唐人屋敷の中国人達と漢詩を交換したり、出島の和蘭商館を訪ねてはコーヒーを飲んだり、ビリヤードを見物したりしている。そして、長崎の地で再会したのが、後に長崎奉行に着任する遠山金四郎景晋。ロシア使節のレザノフ来航によって長崎で顔を合わせたのだ。通商交渉に来たロシア使節レザノフと南畝は握手。翌文化2年、遠山景晋が長崎に来て交渉、南畝は景晋のために岩原の官舎を明け渡して本蓮寺へ移ったという。そしてその年の秋、南畝は江戸へと帰る。

「故郷に飾る錦は一歳(いっさい)を ヘルヘトワンの羽織一枚」

大坂銅座、長崎奉行所と役得の多い職に就き、一財産を成す人もいるというのに、南畝が長崎土産として自分のために手に入れたのは、南蛮渡りのラシャの羽織ただ一枚。文化人との交流や書物への投資で、貯蓄には無頓着だったというところがいかにも周囲からは変わりもの扱いされたアーテイストっぽい。


平成2年、彦山を望む諏訪神社境内に南畝の狂歌が刻まれた句碑が建立された。これは南畝が長崎を満喫した一年間を思い起こさせる記念の碑なのだ。



諏訪神社境内諏訪荘前にある
蜀山人句狂歌碑



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