越中先生と行く「心田庵」

長崎に息づく茶匠の心
神代松陰が伝えた長崎の茶道

広大な敷地の約半分は庭園が占めている。池を中央に、その周囲に園路を巡らせた“池泉(ちせん)回遊式庭園”だ。園路に栄える庭木は、実に150本を越えるという。池泉回遊式庭園の特徴は、築山や池の中に設けた小島、橋、石などで、各地の景勝をあらわし、そこを歩くにつれ変化していく景観を楽しむことにある。
母屋の目前、飛び石に導かれ庭園へと歩みを進める。飛び石周りには苔がむしている。この苔もまた、美しい庭園を構成する大切な一部。踏んだりしないように気をつけたい。
飛び石

橋を渡り東屋へと進む。かつては長崎港が見渡せたというが、現在は残念ながら海は見えない。東屋から母屋を、園路を巡りながら周囲の木々を眺めていると、変化する景色、輝く陽光、鳥のさえずり、風の温度差、様々なものを五感で感じている我に気づかされる。

園路から景観1

園路から景観2

少し色づきはじめたヤマモミジが風にそよぐ、なんとも風情ある光景が広がる。見上げるとわかるが大木も多い。中には兆晋の時代からこの地に聳(そび)える樹齢340余年のクロマツ、サルスベリ、イヌマキもあるという。
越中先生「こちらでの見所は、このお庭とお茶室です。方丈(四畳半)の茶室と、二畳の小間(四畳半より狭い茶室)がありますね」。にじり口からの景色、天井、茶掛……お茶室は、日本の美意識が詰まった空間です」。

茶室
茶室(方丈)

薬として日本に伝わったお茶は、しだいに飲料として飲まれるようになった。中国では、すでに8世紀には茶詩(茶を主題に詠んだ詩)の世界に入り、洗練された人々の楽しみのひとつとなった。そして、日本では15世紀に入り、お茶は美を追求する道「茶道」にまで高められていった。

慶長8年(1603)、長崎のコレジヨで出版された『長崎版 日葡辞書』には、「茶の湯」「茶屋」「茶盆」……すでにお茶や茶道に関する表記が多々見受けられる。

Chanoyu チャノユ(茶の湯) 茶(Cha)をたてるための湯を沸かして,それを飲む支度をする所.

Chaya チャヤ(茶屋) また,休息して茶(Cha)を飲むために,道中に建てられる家.その茶は売っているのでも,そうでないのでもよい.

Chabon チャボン(茶盆) 盆に似た小形の食卓[膳]で,茶の湯(Chanoyu)の道具を載せるもの.
 

越中先生「長崎でも、この頃より、豪商達の間で茶道が大いに流行したようです。亨保の頃(1716〜1735)、長崎の茶道の中心を担っていたのが、出来大工町の若杉喜徳郎(わかすぎ きとくろう)という方で、おそらく裏千家だったと思われます」。

湯を沸かし、茶を点て、振舞う芸道――茶道。兆晋も茶道を嗜んでいたのだろうか? 先程の『鳥瞰図』を見る限り、建物と庭の配置こそ変わっていないが、母屋は、今とは全く違う造りのようだ。

越中先生「何 兆晋の死後、幕末近くの1830年(天保元)頃に「心田庵」の家主となったのは、唐通事で、大通事までのぼりつめた神代四郎右衛門(くましろ しろうえもん)でした。この方の号は「松蔭(しょういん)」。“神代松陰”といって茶人としても有名な方でした。この松陰が、現在の「心田庵」の茶室の基礎を造ったといわれています」。

茅葺き屋根の母屋は、茶室を取り入れた住宅様式の数寄屋(すきや)造りと呼ばれる。千 利休によって確立された簡素で洗練されたこの建築様式は、江戸時代以降、茶室のみならず、住宅へと広がりをみせていった。茶道は、元来“茶の湯”というが、千 利休は、“数寄道”という語も使っていたという。語源の“数寄”は、和歌や茶の湯、生け花などの風流を好むこと。よって“数寄屋” は“好みに任せてつくった家”で、茶室を意味するのだという。
茶匠は、客をもてなすために心を尽くす。灯籠を見立て、しかるべき場所に配すのも、単なる通路ではない露地を演出するのも、花を生けるのも、掛け軸を掛けるのも茶匠の好みであり、センスなのだ。 灯籠
江戸中期の特徴を持つ灯籠
露地
茶室へと誘う露地
茶花
庭には秋の茶花、ホトトギスが咲いていた

越中先生「母屋のお縁にある石灯籠は立派なものです。江戸中期、「心田庵」ができた頃と同じ年代のものだと思いますよ。露地の飛び石は、大正の終わり頃に配されたものじゃないでしょうか。神代松陰以降も、「心田庵」の所有者となっていったのは、多くの文化人でした。私も戦後、何度も招かれてここを訪れたことを思い出します。いや、懐かしいですね。しかし、当時と変らず、こちらは長崎市内で一、二の名庭だと思いますよ」。

昭和11年(1936)の改築後、現在の母屋は、茶室を含む和室7部屋である。
 
神代松陰の交流人
中島広足、木下逸雲

松陰のもとへも有名な文人墨客(ぶんじんぼっかく)が訪れている。長崎南画、三筆のひとりで、医術、茶道、管弦などにも通じ、長崎の代表的な文化人である木下逸雲(きのしたいつうん)。松陰とは、茶人仲間であった。

また、歌集、研究書など、多くの著作を残した長崎国学、三歌人の中島広足(ひろたり)や青木永章(えいしょう)なども度々訪れている。天保10年(1839)、広足が著した『橿園(きょうえん)文集』の中に記した「松陰舎記」によって、「心田庵」は長崎の名所となった。

再び、何 兆晋の時代に戻り、高 玄岱の書『心田庵記』1682年8月18日に記された一説を紹介する。

鳥が翼を張ったように左右に広がって造られている。
ここが何 兆晋の別荘である。
扁額には心田庵と書かれている。
南を臨めば、大海が陸地に入り込み港となり、
天と地は渾然一体となっている。
頭を廻らせば山々の峰が立ち並んでいる。

数多の小舟が湾内を行き交い、
波がたゆとうているその様子をひとり静かに坐り眺めていると、
千里の遠くに遊んでいる想いなり。
正に天下の美観である。
高玄岱の書『心田庵記』より抜粋(口語体意訳 稲岡博氏)
 

「心田庵」の名称の由来は『心田庵記』に記された文にあるようだ。
何兆晋の心の田畑はとても広大である。
まさに子が種をまき、
孫が耕すごとく、
心の宝である。


秋の「心田菴」


最後に――。
何 兆晋が拓(ひら)き、茶人 神代松陰が引き継いだ「心田庵」が紡ぎ出す幽玄な美の世界。江戸時代の文人の遊びは、実に優雅で、自然と渾然一体(こんぜんいったい)となった美しい姿だったことか。温故知新――古きを訪ね、新しきを知る。友人知人と出掛けるのもいいが、ときには個人で、色づいた紅葉や年輪を重ねる木々の趣きに「生」の息吹を感じ、340余年もの時を重ねた庵に、または庭園に、先人達の心を感じるのも一興ではないだろうか。耳を澄まし、目を凝らしてみると、かつてこの地に集った人々の如く、心踊る何かが見つけられるかもしれない。

参考文献
『唐通事家系論攷』宮田安著(長崎文献社)、『長崎奉行』外山幹夫著(中央公論社)、『長崎唐通事−大通事林道栄とその周辺−増補版』林陸朗著(長崎文献社)、『季刊らくvol.5 特集「心田庵」』(イーズワークス)、『長崎市史 風俗編』(清文堂出版)、『THE BOOK OF TEA 新訳 茶の本』岡倉天心著(バベルプレス)、『邦訳 日葡辞書』土井忠生、森田 武、長南 実 編訳(岩波書店)


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