ジャガタラ文とお春の人生

じゃがたらお春の一生
お春の人生は哀れだった?
渡海後の彼女の足跡

昭和に入ると、日本における東南アジア地域の研究が飛躍的に進んだが、戦争により研究は一時停滞してしまった。しかし、その後日本学士院会員の東京大学・岩生成一(いわおせいいち)文学博士が現地資料による研究を発表。その中には、もちろんお春が実在の人物であったことを証明する事実も……なんと、お春の遺言書が発見されたのだ。それは、まさに『長崎物語』が世に発売され、多くの人々が「じゃがたらお春」の悲哀を口ずさんだ昭和14年頃のことだった。

『長崎夜話草』では、お春が追放されたのは14歳の時とあるが、現地資料には15歳とある。やはり、お春の「ジャガタラ文」は如見の創作だったのか……。

正保3年(1646年)、11月29日、お春は、バタビア(ジャガタラ)の教会において、会社の事務員補で平戸生まれの青年、シモン・シモンセンと結婚した。彼の父は平戸の商館に勤務していたため、シモンセンが平戸生まれであるということは、母親は日本人である可能性が高く、彼もまた、お春同様の境遇にあった一人ではないかといわれている。

シモンセンは出世の階段を上りつめていき、2人は裕福な暮しを手に入れている。そして、お春はシモンセンとの間に三男四女、7人の子どもを産み、3人の孫をもうけた。

バタビア(ジャガタラ)に住む日本人は、老いたり、病気を患い余命幾ばくもないとわかると、正式な遺言書を作成するのが通常だったという。その時代の日本ではありえないことだろう。

お春の遺言書は3通あり、そのうちの第2の遺言書こそ、岩生博士が発見した遺言書。そこにはお春がこの世に残した筆跡「せらうにましるし」の仮名書き署名が記されていたという。第1の遺言書は夫婦揃って作成し、両人のうち長らえた方が最終的な遺言書を作成する旨などが書かれた。そして第2の遺言書は、夫の死後20年を経た1692年、お春67歳の時に作成。埋葬執行人の指名委任と、埋葬後の遺産の分配方法などが書かれ、また第3の遺言書は第2の遺言書の追加、補正となっている。

これら遺言書や同じく発見されたお春の子どもの洗礼書が私達に教えてくれるのは、一家の構成と、奴隷を保有し譲るべき財産のある豊かな生活を送っていたことなど、彼女が身を置いていた環境……第2の遺言書の中でお春は、自身の死後、同時に奴隷に自由を与える旨を記している。彼らの境遇に思いを重ねる部分があったのではないだろうか。

古賀十二郎著『丸山遊女と紅毛人』には、東京石井研堂氏所蔵『異国漂着集』の写本に「シモンス後家お春より峯七兵衛、峯次郎右衛門宛書面」の写しが掲載され、「右は阿蘭陀通詞今村源右衛門所持直筆写也」となっているとあるそうだ。お春がジャガタラからオランダ船に託し、長崎のおじに宛てた「ジャガタラ文」……。『長崎夜話草』に掲載された「ジャガタラ文」ほど美文ではないが、全文ほとんどが仮名書きの口語体で書かれ、真の「ジャガタラ文」ではといわれている。その手紙には、「菊の花を送って欲しい」「お酒の大樽を二つ出島の商館員に預けて欲しい」など、お春が日本のものを所望している様子のほか、お春からも多くの人にたくさんの贈り物をしていたこと、なにがしらの商売をやっていたことが伺える。その内容から、夫シモンが亡くなった後も、お春が豊かな生活を送っていたことがわかる。
 

じゃがたらお春の一生
「ジャガタラ文」が代弁する
故郷を離れ生きたお春の心情

筑後町界隈
筑後町界隈

聖福寺
聖福寺

お春が幼少期を過ごしたとされる筑後町。お春の追放後に建立された唐寺・聖福寺の境内には、自然石の「じゃがたらお春の碑」が建つ。そこに刻まれた吉井勇の句は、やはり物悲しいものである。

じゃがたらお春の碑
じゃがたらお春の碑


じゃがたらお春の碑
書はキリシタン語研究の草分けでもある言語学者・新村出によるもの

長崎の鶯(うぐいす)は鳴くいまもなお
じゃがたら文のお春あわれと

そこにはやはり、『長崎夜話草』の「ジャガタラ文」の世界観が広がる。

じゃがたらお春の碑
 


裏面、吉井勇の句
吉井勇の句が刻まれた碑の裏面

しかし、故郷を追われ、艱難辛苦(かんなんしんく)を味わったお春だったが、研究者達によって新たに見出された資料は、お春のその後の人生が決して哀れではなかったことを雄弁に物語っている。その事実を知り、改めて聖福寺の碑文に思いを馳せてみた。すると鶯は、当時のこの町をグッと高い位置、鳥瞰(ちょうかん)で見ていたように思えてきた。キリスト教の脅威を恐れた幕府の強攻策である禁教令、鎖国政策が生んだ混血児追放という悲劇。しかし、流罪となった人々は信仰心を忘れず、自分が身を置く場所で精一杯、自分の生をまっとうしたのである。長崎の鶯は、長崎を追われた少女の頃のお春を哀れみ鳴いた。その後、お春が逞(たくま)しく生き抜いた姿を知るすべがない。遥か南方の空の下までは見渡せないのだから−−。

日本を離れ、良き伴侶、たくさんの子宝、親切な異郷の仲間、豊かな資産に恵まれた人生を歩んだお春。けれど、故郷を追放された深い悲しみがなかったはずはないのだ。

幾萬(いくよろ)づの人か、此世にむまれきたる中に、我身いかなれば異国の人の子とむまれ出でたる事も、前の世のむくひありてこそとおもひ参らせ候。しからば今さら、世をも人ももううらみ申まじき事にて御ざ候。

現代語訳
幾万の人がこの世に生まれ来た中に、どういう訳か私が外国の血をひく子供として生まれ出たのも、きっと何か前世の報いがあったのだと思うのです。そうであれば、今さら世も人も恨むことではありません。

『長崎夜話草』の「ジャガタラ文」がたとえ如見の創作だったとしても、この一節は当時のお春の心情を言い当てているような気がする。
 

最後に--。
悲運な境遇を乗り越え、遥か異国の地で生きた「じゃがたらお春」は、元禄10年(1697)、72歳でその生涯に幕を下ろした。後世に残るお春のものと思われるおじ宛の「ジャガタラ文」は、異国の地とはいえ、彼女が信仰を貫きながら家族と共に過ごしていた穏やかな暮らしぶりを想像させてくれる。それは、その時代に生きた日本女性が絶対に手に入れることのできなかった“自己表現に満ちた生き方”−−お春の人生は、決して哀れではなかったのだ。

参考文献
『じゃがたらお春の消息』白石広子(勉誠出版)
『埋もれた歴史散歩 長崎 唐紅毛400年のロマン』田栗奎作(白馬書房)
『ジャヤガタラお春 海を越えた少女』小島笙(海鳥社)
『太陽スペシャル 長崎遊学−オランダ坂から世界が見える−』(平凡社)


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