もうひとつの夏〜特攻基地・牧島〜

ルイズ正子が見た戦争

軍国少女・ルイズの前に
特攻兵現る!

  配備されたものの兵舎とてなく、校舎の一部が隊員らの宿営舍となる。残る問題はお風呂である。そうなるとお風呂が設備されている家庭に五、六人づつ割り当てられ、我が家の風呂(五右衛風呂)に、
補充兵一人(十七歳の私には「おじいさん」に見えたが、四十歳前後であったらしい)
特攻兵二人(二十二、三歳?)
予科練二人(十五、六歳)
合計五人が週二回、風呂浴びに来ることを知らされると、さぁ大騒ぎ。
  それもその筈、前年末から飛行機もろとも敵艦に体あたりして散華した話題の特別特攻隊員と同じ〈実物〉と、「若鷲の歌」で讃えられている十五、六歳の予科練のこれも〈実物〉が来ると言うのだ。

ルイズが記しているように、牧島に昭和20年4月に「川棚突撃第三特攻隊」が配備されたが、はじめ兵舎などはなく、7月初旬、第四二震洋隊に基地移動が命じられ、牧島震洋隊基地が設置された。配属されたのは「第四二震洋隊・高橋部隊」。士官7名/搭乗員50名/本部付21名/整備隊員37名/基地隊員74名の 総員 189名だったという。

  さて、彼ら基地隊員の出現により、それまで国のためとは言え、銃後で間接にしか役に立っていない印象で田畑やその他の勤労奉仕に出ていたが、今度こそは、第一線において努める勢いで基地の戦闘準備の作業に直接従事するという充実感があった。作業とは、彼らが自爆挺を格納するべく横穴防空壕を掘ったさいの土砂を満載したトロッコを私たちが波打ち際まで押したり、モッコを担いだり、時おりダイナマイト棒を削る作業であった。
  これらの仕事が勝利の達成に通ずると思うと充実感を覚えたものだ。

直に兵隊に接することとなった軍国少女・ルイズのその後の興奮冷めやらぬ行動は、これが戦時中であるということを忘れさせるほど、はつらつとしている。

そこで、ナガジン!取材班は、ルイズが過ごした戸石の風情を確かめに、また、戦争遺構・牧島の震洋特攻隊基地跡を求めて牧島へと足を運んでみた。
5世紀末から7世紀初めにかけてつくられた国指定史跡の『曲崎古墳群』を擁する牧島は、橘湾に浮かぶ周囲5キロの小島。昭和35年に対岸の戸石と吊り橋「牧島橋」で結ばれていたが、昭和44年に現在の「牧戸橋」が架けられた。


曲崎古墳群
国指定史跡「曲崎古墳群」

曲崎古墳群周辺
美しく穏やかな海と山々に抱かれた牧島では度々懐かしい風景に出会う。

牧島橋の遺構
牧戸橋の横に残された牧島橋の遺構

終戦間際、この牧島に基地が置かれた震洋特攻隊とはどんなものだったのだろうか?

太平洋戦争末期、長引く戦争で戦局が悪化する中、搭乗員を養成しても、乗る飛行機とガソリンがないという絶望的状況に陥っていた。そこで、連合軍の上陸部隊に打ち勝つには揚陸艦艇を沈める以外はないという結論に達した日本軍は、本土決戦を水際で抑えようとする陸海軍と共に〈特攻〉という世にも恐ろしい肉弾攻撃を考え出す。特攻隊というと、爆薬を乗せた飛行機で敵艦に突っ込んでいく「神風特攻隊」が最も有名だが、他に「回天」「震洋」「桜花」「伏龍」など多数あった。

昭和19年4月、魚雷発射試験場がある長崎県東彼杵郡川棚町三越郷に隣接した小串(おぐし)郷駅近くに、横須賀の海軍水雷学校から分かれた「川棚臨時魚雷艇訓練所」が新設された。小さな漁村の一角に急設されたこの訓練所には、多くの若者が志願して集まり、数万人もの10代の若者が特攻隊として苛酷な訓練を受けた。そのなかには、鉄の不足と油の枯渇で乗る飛行機がなくなった海軍飛行予科練習生も多かったという。

この「川棚臨時魚雷艇訓練所」は、海軍の水上特攻機としての魚雷艇乗員訓練基地であり、主に1〜2人乗りの粗末なベニヤ板製のモーターボートで、後部に爆雷を積んだ○四(マルヨン)と呼ばれる〈震洋艇〉に乗り組むための訓練所だった。太平洋を震撼させるという意味で名付けられた〈震洋〉だったが、言ってしまえば肉薄攻撃用の自爆挺。ベニヤ板で造られた長さ5.1m、幅1.7mの小さな船であり、トラックエンジンを載せ、先端に250kg爆薬を積んで、敵艦に全速力でぶつかって撃沈するための兵器だった。訓練中は爆薬の代わりに同じ重さの砂袋を入れ、夜間に碇泊している船艦めがけて体当たりの演習が行われたという。

「牧戸橋」を渡り、島に上陸。ルイズも作業を手伝ったという震洋艇の格納庫とした防空壕が残っているかもしれない、という期待を胸に、島人にお話を伺った。

潮風が漂う海沿い、大きな屋根を設けた屋外の作業場で漁具の手入れをされていた数名のご年配の方に防空壕の場所を尋ねてみる。

「ここから見えるあの段々畑の下辺りに防空壕が並んであったけど、今は上の畑が全部崩れて埋まってしまって、わからんごとなっとりますよ」。
「その奥の方に昔、船大工さんの2軒あって、そこが兵舎になっとったとですけどね。今はもう何もなかですよ」。


戦後67年、時の流れが歴史を風化させてしまう。わずかな形跡を求めて、御婦人が教えてくれた段々畑の麓に向かうと、入り口に一軒の民家があった。声をかけて、奥へと入らせて頂く。
段々畑麓の民家
灼熱の真夏日、左側が海に面した道を、草をかき分けながら進む。
震洋艇格納庫跡を探して

先程目にした段々畑の下段にあたる場所は、光を通さない程に木々に覆われ、太い竹さえも天高くそびえ立っている。確かなものは何も確認できなかったが、この木々の奥に〈震洋艇〉を格納した防空壕があった気配を感じた。

震洋艇格納庫跡
現在は鬱蒼とした木々に覆われ何も確認できなかった。
震洋艇格納庫跡

来た道を戻っていると入り口の民家の方が迎え出て下さり、昭和11年生まれの岸川誠人(せいと)さん、弘子(ひろこ)さんご夫妻にお話を伺うことができた。

終戦の年、戸石村国民学校(戸石尋常小学校)3年だったという誠人さんは、横穴に彫られた震洋艇を格納した防空壕の記憶を語ってくれた。

「その頃はまだ小さくて何の穴かはわからんでしたけど、格好の遊び場で、中に入ってよう遊んでました。ここには5つの防空壕が並んであって、中に船が2基入る程の広さで、そんなに大きいものではありませんでした。牧島は大きく牧中、弁天、島の池、という3つの地域に分かれとるとですけど、牧中の〈下津の浦(げつのうら)〉と呼ばれるところにも、2つの防空壕がありました」。

戸石村国民学校(戸石尋常小学校)だったとあり、ルイズさんをご存知ないか尋ねたところ、なんと、奥様・弘子さんのご実家は、ルイズの母・ヤイの実家の隣にあったという。なんというご縁だろうか。

「ただ、私は年が離れているのでよくは知らんとですけど、今の大久保病院の横に立派なお家があったのは覚えていますね」と弘子さん。

誠人さんも「私もだいぶ下だったので、よくは知らんですけど、上級生にその方がいたのは知っています」

確たる戦争遺構を探し出すことはできなかったが、まさにルイズが過ごした戦時中の記憶を裏付けてくれる方とお話ができたのは、うれしい収穫だった。

  (前略)毎朝、教官に引率されて牧島の切宮岬の防空壕掘りに行く二列縦隊(数えなかったが約十二〜十五人?)の予科練が家の前を通っていた。

「切宮岬」とは、誠人さんがおっしゃった下津の浦のことのようだ。

  それはさておき、私は特攻基地になったからには、牧島及び戸石が戦略上、一躍九州でもっとも重要な地点となったと真剣に受け取っていた。従って敵は間違いなく長崎半島と島原半島の間に挟まれている橘湾から、特攻基地の牧島と戸石を目標に上陸すると、固く信じていた。

零戦など戦闘機の生産が底をつく中、構造が簡単で大量生産が可能であった〈震洋〉は、三菱長崎造船所をはじめとした各海軍工廠(こうしょう)、民間造船所で特攻の切り札として、終戦までに約6,200艇が建造されたといわれている。

  やがて、敵が攻めて来れば、勇猛な彼らは海から自爆艇で敵艦隊を沈め、空からは神風特別攻撃隊が反撃する間、地上の私たちは上陸せんとする敵兵を手榴弾、竹やり、ナタ、鍬などありとあらゆる物を武器として、敵撃滅! する、と闘魂に燃えていた。
  その好機が来るまで、彼らはもっぱら海上で、初めて私たちが目にする緑色の自爆艇〈体当たり〉の訓練をしていたり、防空壕掘りに私たちと励んでいた。

原爆に集約されることの多い「長崎の戦争」だが、ルイズ同様、国民それぞれに様々な戦争体験があったことを忘れてはならない。

ルイズ母子

最後に--。
日本では外国人と言われ、フランスでは日本人と言われ育った、主人公・ルイズ。ここで彼女の人生に深く触れることはできなかったが、感受性豊かな彼女の鮮烈な記憶のもとにしたためられたからこそ、見えてきた戦争の姿があった。67年の時が流れ、しだいに薄れゆく戦争の記憶を、『ルイズが正子であった頃』に見つけてみよう。極めて不思議なことだが、命の輝きが伝わってくる−−。

参考文献
『ルイズが正子であった頃』ルイズ・ルピカール(未知谷)
『川棚町郷土誌』川棚町教育委員会編集(川棚町発行)


〈2/2頁〉
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