左から梅屋庄吉、孫文、庄吉の妻・トク
<小坂文乃氏所蔵>


貿易商 梅屋家に養子入りし、二十歳を迎える前には香港で写真館を経営。先見の明と、バイタリティ溢れる行動力で、実業家としての地位を築いた梅屋庄吉。孫文に多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与。革命後も度々日本に亡命した孫文への援助を続けた彼の人生に迫る。


ズバリ!今回のテーマは
「一人の人間の可能性に感動!」なのだ



 
梅屋庄吉――最近になって、その名を知ったという人も多いことだろう。長崎出身にして、明治政府をはじめ、時の要人達と親密な交流を重ね、その巨万の財力から影響力をふるい、かつ関わる人々に心からの信頼を寄せられた人物。隣国 中国革命の総指揮者である孫文を、生涯をかけて支援し続けた男である。
 

革命へ向けた強い信念

孫文と梅屋庄吉
心の交流から盟約へ

近年まで、彼の名が忘れ去られていたのには理由があった。彼が遺したノートに以下のように書き記されていたのだ。

  ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係
  スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ

自らが行なったことが公になることで、迷惑を被る人がいることを案じてのことだと推測される。親族は、堅くその遺言を守り、庄吉の日記や革命の志士達と交換した書簡、委任状、武器発注書、写真などの資料を保管してきた−−。

孫文と梅屋庄吉、二人の出逢いは香港にて。明治28年(1895)のことだった。とある慈善パーティーにおいて、英国人 カントリー博士を介し初対面を果たした2日後、庄吉が経営する写真館「梅屋照相館」へ孫文がポートレートを撮って欲しいとやって来た。撮影はすぐに終了したが、孫文は庄吉へ何か話したそうにしていた。それを察知した庄吉は、書斎へと案内し、庄吉も孫文もいつの間にか常日頃から考えるそれぞれの持論をぶつけ合うこととなる。

庄吉はいつも話している調子で自分の考えを話しはじめた。中国に在住する欧米人の治外法権の濫用に対する怒り、横暴の限りを尽くす西洋人に対する怒り、われわれ東洋人はなぜ小さくなり、これほどの屈辱に耐えていなくてはならないのか−−。

すると、庄吉の話を無言で聞いていた孫文は、せきを切ったように話しはじめた。「カントリー博士からあなたのことを、中国を愛し、東洋人の将来を心から憂いている人物だと聞いていた。それが真実であることが、今日お会いしてよくわかった……このままでは、中国は西欧列強に分割され、奴隷にされてしまう。中国と日本は不幸にも戦争をしたが、いまこそ中日両国は団結して中国を植民地化から救わなければならない。中国の4億の民を救い、アジア人の屈辱をそそぎ、世界の人道を回復するには、まず我が国の改革を成就させ、清朝を打倒する以外にはない。私達を支援してほしい。それが引いては東洋を守る第一歩ではないか」。

時の経つのも忘れ語り合った孫文と庄吉。このとき、庄吉は孫文に必ずや革命を成功させてほしいと思い、そのために自分ができることは資金を提供することだと考えた。そして孫文に次のように告げたという。

  君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す

1000年余りの歴史を持つ清国を打倒し、人々が平等で平和な社会をつくるという孫文の理想に共鳴し結んだ二人の盟約だった。孫文29歳、庄吉27歳のことだった。
 

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