島の記憶

島の人口増加は、昭和20年代から40年代がピーク。当時この島には何もかもが揃っていた。

坂本さん「映画館、スナック、パチンコ、郵便局、お寺、病院、遊郭までもがありました。当時、船も9往復していて、行商の方も多かった。墓だけはありませんでしたが、生まれて死ぬまでのすべてがこの島と近隣の島でまかなえるように考えてあったんです」。




また、25年ぶりに訪れた故郷を目にしたとき、坂本さんの頭によぎったのは、郷愁の思いとともに、この島で、汗だくの真っ黒になって働き、自分達を養ってくれた父親への想いだった。

坂本さん「島のあらゆる建物は、階段と渡り廊下で繋がっていました。奥に見えるあの階段は、桟橋近くから、ずっと地底を通っていて、坑道へ続く階段です。そして、ここの間口が大きい場所は鉱員風呂の跡です。地底から上がってきた鉱員さんは、みんな炭で真っ黒です。まず、作業着を着たまま作業衣洗い用の浴槽に入って、洗いながら脱ぐ。洗い終えると隣の浴槽に入って汚れと疲れをゆっくりと落としていました。そんな、様子を思い起こすと父への感謝にたえないですね。また、授業中でも事故発生のサイレンが鳴ると、友達同士で父親の今日の作業時間を確認し合いました。300人近い鉱員が、作業中に爆発などで命を落としました」。


そして、エネルギーの需要が石炭から石油に移るという「エネルギー革命」によって1974年1月、端島は閉山。同年4月に無人島となった。

坂本さん「さきほど着岸したドルフィン桟橋も、本当は昔のままで残しておいて欲しかったですね。あそこは、閉山が決まってから3ヶ月で島を離れなければならなかった状況で、毎日のように友達と別れを繰り返した思い出の場所で、唯一当時と変わっていない所でしたから」。
 

島を想う

上陸クルーズがスタートするにあたり、坂本さんは、訪れる人々に何を話すべきかと悩み考えた。今、若者を中心に「廃墟ブーム」が起こっている。端島が全国的に注目を集め、続々と観光客が詰めかけているのは、「廃墟と化した島」としてなのである。
坂本さん「少しだけ、この島の音を聞いてみてください」。

晴天、凪。目を閉じ、耳をすますと、聞こえてくるのは静かに打ち寄せる波の音以外何もない。島の存在が浮き彫りになる。


坂本さん「高度成長期に急速に成長していった、この島は早すぎた繁栄の象徴。環境を考えることもなく自分達の繁栄を重んじていると、日本の未来はこのようになるでしょう。そのとき、この島と同じように、誰もいなくなればいいのでしょうか? この島の姿は、過去の繁栄と廃墟と化した現在という、目に見えるもの以外に、未来の私達のあり方というのも教えてくれているような気がします」。



建物の解説だけでは、過去と現在を伝えるに留まってしまう。それならば、単なるガイドである。「未来からの警告」「廃墟のメッセージ」この島の存在を大事に思う気持ちは、坂本さんが進もうとする「未来をも語っていく語り部」への道へと後押しした。坂本さんは、故郷・端島に未来への夢を託しているのだ。


「NPO軍艦島を世界遺産にする会」では、『軍艦島 住み方の記憶』という本を出版している。その中に掲載されている数多くの写真は、時代を物語るモノクローム写真。生活の臭いがプンプン漂う、活力にみなぎった人々が写し出されたものだ。しかし実際にこの島を訪れ、自分のこの目で見つめる同じ建物は、当然ながら天然色。過去と現在、実際に目にしたこの二つを重ね合わせると、この本の中に存在するかつての住人が一斉に動き出すかのような錯覚を覚えた。

この本の発刊にあたり寄せた坂本さんの文章に以下の一節がある。
「世界遺産の登録まではまだまだ困難があるだろうが、そこはあくまでも手段であって目的ではない。(中略)無人島になって三十年余りもそのままの姿であり続ける島には、過去の日本を支えてきたダイナミックなエネルギーの痕跡と、そこに暮らした人々の生活環境が残されている。世界にも類がない産業遺構である。それは日本近代化の流れを知るうえで貴重な資料となるだろう。単なる廃墟や観光の見世物としてではなく、真の「軍艦島」に新たな視点を築いていただければと思う」。

解説の締めくくりに、坂本さんはおっしゃった。
「広島の原爆ドームが世界遺産から外される日がこなければ、世界は平和になったとは言えないんじゃないでしょうか」。

端島との再会から十数年、坂本さんが見つめ続け、考え抜いてきた故郷・端島の存在意義は、過去と現在の記憶を未来へ繋げようという思いを重ねた、平和と環境への道標である。上陸して目にした光景の中で、風化を続ける建物より、かつて「緑なき島」と呼ばれたこの島にうっそうと茂る緑こそが印象的だった。そしてそれは、未来への前進を物語っているかのようにたくましく栄えていた。
 

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