再び、東望入口の交差点へ。国道34号線、東望の交差点を抜けると左手に、正面、木々に覆われた小さな祠のある濱の大王神社がある。この前の脇道から続く道が、長崎よりの日見宿と矢上宿を結ぶ、かつての長崎街道だ。濱の大王神社にも恵比寿様発見!


濱の大王神社


濱の大王神社の恵比寿様

長崎街道は東海道、中山道(なかせんどう)、日光街道、奥州(おうしゅう)街道、甲州街道の五街道に次ぐ脇街道のひとつで、正確にいえば豊前小倉(一説には大里)から長崎までを結ぶ道筋。長崎は天領となり長崎奉行所が設置されたため、この街道筋は長崎へと続く要路だった。そして、寛永16年(1639)に鎖国令が出てからは、日本で唯一の海外へ開かれた窓へと続く道でもあった。

旧街道の面影を宿す恵比寿様が今も大切に祀られた街道沿い。道幅や微妙なカーブも往事の光景を偲ばせる。


街道沿いの恵比寿様

しばらく長崎街道沿いを進むと八郎川の支流である中尾川に架かる橋が見えてくる。文字通り、近くに番所があったから番所橋。橋横には矢上番所の跡を示す碑が建てられている。旧矢上村は佐賀鍋島藩の家老・諌早氏の知行地で長崎代官支配地と境界を接していたため、ここに番所が置かれ、役人達が往来者の取締りや警備にあたった。

長崎奉行の交代、黒田(福岡)・鍋島藩(佐嘉藩)などの長崎警固のための往来、江戸参府のための往来、長崎に漂う異国文化の香りを求めた文人墨客、商人、芸人、蘭学を志した人々、そして維新の志士達など、様々な目的の往来者。誰もがここで通行手形を示し、いくつかの決められた質問に答えたことだろう。山手側が番所、海手側が高札場となっていた。

番所橋は、天保9年(1838)、長さ16m程の眼鏡橋が架けられたが、慶応3年(1867)に洪水で流失。その後幾度か架け替えられたが、「番所橋」という名と、由緒ある如く、親柱の擬宝珠が残されている。


番所橋の擬宝珠

東長崎エリアに沿って流れる全長9.2kmの八郎川は、いわば東長崎の“母なる川”。8支流が合流して矢上を貫き、橘湾に注いでいる。番所橋が架かる中尾川の上流には、どのような光景が広がっているのだろう。車を走らせ遡ってみた。

下流の方は、晴れた日には水量も少ないようだが、中尾ダムに近づくに連れ、川音が聞こえてくる。5分も車を走らせると、緑に包まれた別世界が広がる。そのまま山越えすれば、西山木場へと抜ける山道。中尾大橋を渡ると、さらにのどかな農村風景が広がっていた。

それにしても、この橋上のオブジェには度肝を抜かされた。まるでシンガポールへ来たのかと見紛うようなマーライオン風狛犬? 思わずパチリとしたくなるオブジェだ。

中尾川沿いの農村風景


中尾大橋上のオブジェ

それと、中尾ダムの上は公園になっていて、その一部がテニスコートになっているのにも驚いた。しかし、景観はバッチリ。さぞかし爽快なプレイができるに違いない。早春のこの時期、自生の梅だろうか、ところどころに紅梅や白梅が満開を迎えていた。果樹園のミカンもおいしそう。

すり鉢状の山間に見事な段々畑。のどかな風景が目前に広がってくる。地元の方に話を聞くと、これからの季節はドライブ客で賑わうのだそうだ。隠れた癒し空間を発見!


中尾ダム上のテニスコート


美しい梅


ミカン畑

さて、番所橋へ戻り、再び街道沿いを進む。しばらく進むと諫早領役屋敷跡が見えてくる。

ここは長崎開港に伴い、佐賀鍋島藩(佐嘉藩)諫早領主が家臣を派遣、堀を巡らせて睨みを利かせた場所で、佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理、また周辺の民事、刑事等の案件その他などを3名が執務処理していたという。建物は民間に払い下げられ、明治7年(1874)に一部改築、今では庭園だけが昔の姿を留めているそうだ。内部を見ることはできないが、ここは外観だけでも十分雰囲気が伝わってくる。


諌早領役屋敷跡

諫早領役屋敷跡から少し離れ、国道34号を隔てた場所、今は長崎自動車学校となっている所は、往来する大名や幕府関係者の宿泊、休憩所であった本陣跡。ここには、広大な敷地に豪壮な建物があり、便所も床付き漆塗りが施されたりっぱなものだったという。明治初頭に解体され、今は面影も残っていないのが残念な限り。

再び長崎街道沿いへ戻り、矢上八幡神社へ。実は「矢上」の地名の由来には4つのいい伝えがある。そのひとつに昔、鎮西八郎為朝が、八郎橋の上から八幡神社にある大楠を的に矢を射たという為朝説がある。この伝説の大楠が残るのが、八幡神社慶大、石段の上にある2本のクスノキだ。南側は最高幹囲5.3m、北側は10.15mというこの県下有数の巨木(市指定天然記念物)は、かつて街道を往来した幾多の人々を見守り続けたことだろう。この地は、江戸時代は八幡様と滝の観音の末寺(放生山)であったそうだ。伝説からも遠い昔からこのエリアの要所であった様子が伺える。


矢上八幡神社のクスノキ

「矢上」の地名の由来のもうひとつに弘安4年(1281)に、当村平野区字平原という場所で発見された宝剣にまつわる宝剣説がある。それはその年、「平原」で夜毎に不思議な光があり、土地の人が見に行ったところ、それは宝剣だった。この剣は「天国の剣」で、神様が外敵を追い払う時にこの剣を「箭(や)の神」と称して祀ったものだったという。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが「矢上」の由来というものだ。この出来事をはじまりとして、古くから矢上村の産土神として尊崇されてきた矢上神社(江戸時代は、大王社・大王権現と称した)は、領主諫早氏も深く信仰した神社だった。

注目すべきは拝殿の天井に掲げられた幕末の絵や書画。折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)と呼ばれるその天井を飾る天井絵の中には、ナガジン!でもたびたび登場した勝海舟や坂本龍馬など、幕末の志士とも交流があったといわれる長崎の豪商であり篆刻家の小曽根乾堂によるものがあるというのだ。近く改修工事が予定されているが、この天井絵は新しい拝殿天井でも再利用される予定だという。
境内にある観音堂には、やはり街道沿いにふさわしく馬頭観音などの観音像も祀られている。


矢上神社拝殿の天井絵

矢上神社の前には「長崎街道 矢上宿跡」の石碑。 矢上宿は往路の最初の宿場であり、帰路の最後の番所だったため、それ相応の設備や対応が求められていた。この辺りには、一説には戸数200余り、旅籠(旅館)11軒、売店10軒、※駕籠(かご)100丁余り、 ※駅馬(えきば)48頭、酒造屋7軒とかなりの規模だったという。
駕篭/竹でできた乗物。人が座る部分の上にゆるい曲線をした馬車の梶棒を1本通し、前後から担いで運ぶもの。
駅馬/律令制で、駅に用意しておいて官用に供した馬。


矢上宿跡

その先、慶長12年(1607)開山、浄土真宗本願寺派の教宗寺(きょうそうじ)は、文政9年(1826)、江戸参府のため早朝に長崎を出発したシーボルト一行が昼食をとったお寺。また、佐賀藩が長崎警備の際、家臣団の宿泊所としたそうだ。山門の風情ある佇まいを、当時の人々も眺め通ったのだろうか。


教宗寺

それでは、東長崎エリア巡行、今回の最終目的地である幻の名陶を生んだ伝説の地、現川へ。

元禄4年(1691)、もともと諌早家の被官だった田中刑部左街門(宗悦)が職務を退いて、二男甚内を伴い開窯したのが、この現川の地。以降、現川焼は、寛延元年(1748)頃までのおよそ60年間、焼き継がれ、「西の仁清」「刷毛目文様の極致」と賞賛される数々の名陶を生んだ。現川焼の一番の特徴は、鉄分の濃い粘土を素地に刷毛目技法。さらに、各種の化粧刷毛目と舟形・隅切などの大胆な器形、それと四季折々を描いた図柄との合致が素晴らしく美しいと評価された。幻、と呼ばれる由縁は一度目にするとわかるはずだ。現存するものは数少ないが、長崎歴史博物館でも目にすることができる。

現川の地、小高い丘に現川焼陶窯跡(県指定史跡)が残っている。また、窯跡の横には宝永元年(1704)に建てられた窯観音には、現川焼創設者の田中宗悦・甚内・重富茂兵衛などの銘が刻まれた田中家の墓地がある。
この、現川周辺も区画整理されていない農地が広がり、昔ながらののどかな風景が心に安らぎを与えてくれる美しい町だ。


現川焼陶窯跡

田中家の墓域


現川の美しい風景
 

今回、東長崎エリアを回り、海沿いと山間、そして長崎街道沿いと様々な風情を楽しむことができた。歴史だけにとどまらない、今なお優しい風吹く東長崎エリアへ、一度ゆっくり出掛けてみてはいかがだろうか。

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