「戦争は勝ち負けではなく、滅びしか生まない」
永井隆博士の生誕100周年に当たることから、今年、8月9日に行われる平和祈念式典において長崎市の田上市長が読み上げる平和宣言文に、永井隆博士の理念を反映させることが検討されている。

博士が語りかけるコトバの数々には、戦争と平和だけにとどまらず、いつも人の命を大事にする心があふれている。
それは、【胸にズシンと迫りくるコトバ】や、【頭ではわかっていても実行できずに、何だか申し訳ない気持ちになるコトバ】。


■徳三郎さん
「戦争も原爆の被害も体験していない私が、たとえ祖父のことだとはいっても“わかった”といえばうそになると思うんです。しかし、今わかる部分でも次代に語り継いでゆけば違うと思うんですよね。今、多くの修学旅行生が永井隆記念館を訪れてくれていますが、その中の一人でも、永井隆のメッセージを真に理解してくれて、伝え続けてほしいと思っています。」
平和を願い続けた博士は病床で筆を執り「平和を」の文字を千枚書き、知人や世界各国の人々に送り平和を訴えた。そして、原子野を花咲く丘にしようと、桜の3年苗木1000本を浦上地区の学校、教会、病院、道路などに贈り植樹された。“永井千本桜”と呼ばれるこの桜は、今も春になると浦上の丘を彩っている。


「平和を」

◆ゆかりの地 浦上の永井千本桜

“永井千本桜”と呼ばれるこの桜は、今も春になると浦上の丘を彩っている。
この千本桜が贈られた爆心地近くの山里小学校には、「子ども達よ、あの日死んだ友を忘れるな」というメッセージが込められた永井博士が作詞した『あの子』という歌があり、校歌と共に歌い継がれている。

◆ゆかりの地 山里小学校の「あの子らの碑」

病床にあった永井隆博士の発案で『原子雲の下に生きて』の本が出版され、その印税により造られ山里小学校の校庭に建立された。

「あの子らの碑」


次世代の人々に語り、歌い継がれている戦争、被爆の記憶。しかし、現代に生きる大人達も、戦争を知らない世代が大半となってきた。そして今、博士が生きていた時代から懸念されているようなことが、大きな問題となっていることも多い。それは---親と子のつながり。

乳房は子の所有であります。娘さんの胸のふくらんだ乳房はいつか母となる日の、子のためのものであります。けっして娘さん本人の使用権はありません。いまだかつて自分の乳を吸っている女を見たことはない。いわんや男には使用権は全くありません。もし男なるものが乳房を我がもの顔にもてあそぶならば、それは子供が頂いた博多名物の「鶴乃子」の箱のふたをこっそり開けて、中に並んだお菓子をぺろぺろなめてみるのと同じです。(中略)母と子とを結ぶ情愛は心と心とが抱き合うことですが、初めから心だけの抱き合いで真の深い情愛が育つでしょうか?……やっぱり肉体の抱き合いが伴わねば深い情愛は育たないと思われます。この子を生んだという血のつながりだけでは、まだ半分です。乳房を子にまかせて初めて完全になるのではありますまいか?--

『原子野録音』
『原子野録音』収蔵 乳房(一)より---聖母の騎士文庫

■徳三郎さん
「永井隆は死んで半世紀になります。その精神力は認めますが、果たして超人的な力の持ち主だったのでしょうか。私は、祖父は天上の世の人ではない、被爆者としての、カトリック信者としての働きをしたにすぎなかったんじゃないかと思うんですよ。祖父は病床から島根時代の友人に“私を褒めるようなことをしてほしくない”と手紙を出していたそうです。祖父は自分を褒め讃え、役割を自分一人に押し付けるのではなく、多くの人に実践してもらいたいと願っていたんじゃないか、最近そう感じています。」

博士は「隣人愛」について、こんなふうにも語っている。

世の中にこんな親切な人がいるものかとびっくりすることが、一カ月のうちに二度や三度ではありません。見ず知らずのお方が、私のところへ来て、親子の面倒を見てやろうというのです。(中略)けれども幾日も汽車に乗らねばならぬような、遠い長崎に住んでいる私を助けようと思いついたところに誤りがあります。(中略)「わざわざ長崎に来なくとも、あなたの町内に長く寝ている人がいるでしょう。親のない子がいるでしょう。先ずその人達に、この隣人愛をそそぐのがほんとうです。(中略)」そう私が言いますと、その人が答えて言うには、「あなたは社会の役に立つよい本を書いていますから、それを手伝うことは、私もまた社会に役立つことになると思います。私の町内に困っている人も、もちろんありますが、その人達を助けたところで、そんなに社会的に意義がありませぬ。」そこで私は答えました。それはまちがっています。(後略)
『原子野録音』収蔵 隣人愛 より抜粋---聖母の騎士文庫

■徳三郎さん
「永井隆のメッセージを集約すれば“如己愛人”にたどり着きます。しかし、永井隆が書いた17作品を読んでもらえなければ、集約しない部分、真のメッセージは伝わりません。多くの人に作品を読んでもらって、共感してほしいと願っています。そして、皆さん自身が身近に起った出来事に、同じような精神で取り組んでいただければ、そしてそういう人が多ければ多いほど、平和に近づいていくんじゃないでしょうか。生誕100年を迎え、もうそろそろ祖父の存在的役割も終わりにしてあげたいと思うんです。その精神は、17冊の本にいっぱい詰まっていますから。」



博士からのメッセージ


永井記念館の玄関には、“汝の近きものを己の如く愛すべし”(聖書:マルコ12章31節)から「如己愛人」という書が掲げられている。きっとこれは、博士が後代に示した最大のメッセージなのだろう。

永井隆博士の作品を胸に、これからは多くの人が博士の精神を実践していく段階の時期にきているのかもしれない。私たちの心に「如己愛人」の精神を培っていきたいものだ。まずは家族から--。

「如己愛人」

◆ゆかりの地 永井隆の墓(坂本国際墓地入口)

余命3年と宣告されてから6年、昭和26年に永眠された永井隆博士。原爆によって亡くなった愛妻・緑さんと共に坂本国際墓地入口の一角に眠っている。

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