祭りや慣習、食に建物。いまだ長崎の町に色濃く残る中国文化は数知れず、隠れているものも含めたらいったいどれだけ中国の影響を受けているのかを疑問に感じる時がある。そこで、中国を表す「唐」という字に絞り込んで、現在も長崎で耳にする常用語字典なるものを作ってみた。


ズバリ!今回のテーマは

「“唐”の項、集中勉強!」 なのだ




【唐(とう)】

618年、李淵(りえん)が隋(ずい)を滅ぼして建国した中国の王朝の名称。「唐」という字は「ひろい、おおきい」という意味を持ち、文字通り7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国となり、朝鮮半島や日本などに、多大な影響を与えた。初唐は7世紀初頭からで、晩唐は9世紀半ばから10世紀初頭にかけて(618〜907)。日本はその頃、飛鳥・奈良時代から平安時代だ。唐がいちばん栄えたのは8世紀初頭で、日本からは遣隋使に変わって遣唐使が送られ、交流を深めたことで知られている。
 

【唐灰汁(とう-あく)】

炭酸ナトリウム、炭酸カリウムを配合した薬品。長崎のちゃんぽん麺のほとんどは小麦粉にこの唐灰汁が入った唐灰汁麺だ。昭和初期に上海から伝わった麺作りに欠かせないこの唐灰汁は薬品のため、これを作るには許可が必要。現在この営業許可を持って唐灰汁を製作している人は長崎市内の製麺所にわずか4人しかいない。唐灰汁麺の魅力は一番に独特の風味を持った味わい。また、消化を助け、さらには食欲を増進する優れもの。防腐、殺菌の作用もある。餃子やワンタンの皮や饅頭の原料にもなっているということも知られざる事実。端午の節句に戴く長崎特有のちまきにもこの唐灰汁がたっぷり入っている。


唐灰汁


唐灰汁麺
 

【唐三カ寺(とう-さんかでら)】
長崎の3つの唐寺(※下記【唐寺(とう-でら)】参照)、興福寺(元和6年建立)、福済寺(寛永5年建立)、崇福寺(寛永6年建立)を唐三カ寺と呼ぶ。日本寺院になく、唐三カ寺に共通するものは、航海の神「媽祖(まそ)」を祀っていること。また長崎の唐寺の特徴は、旧市街を囲む緑深い山の麓に参道を開き、魔除けのために山門から本堂である大雄宝殿への主心線をずらした伽藍配置がなされていることだろう。

崇福寺
 

【唐人船(とう-じんせん)】
諏訪神社の秋の大祭・長崎くんちの演し物のひとつで、明治15年から大黒町が奉納している。唐人船は引物であると同時に唐船乗組員の上陸行列。大黒町がもともとは海辺で、その昔唐船が入港して賑わった町であったことや、当時唐船(※下記【唐船(とう-せん)参照】をつないでいた「唐船ともづな石」が町内にあり、唐船とはゆかりの深い町であったことから奉納されるようになったという。

唐船ともづな石
 

【唐人菜(とう-じんな)】

長崎の伝統野菜。ルーツは中国山東省から伝来したとされる中国のヒサゴナ・江戸唐菜の土着種である長崎白菜。別名「唐人菜」として知られる長崎白菜。他の白菜と比べて結球せず、葉は立ち外開きになる。早生・晩生があり、葉色は黄色がかった緑色でシワが入り、晩生ほど濃緑とシワが顕著。大正期にかけて長崎市内で栽培の広がりをみせ、山手の西山木場地区で早生種が、低地では晩生種が作られていて、現在でも、木場町・田手原町・東長崎地区等で生産されている。漬物として、また長崎雑煮に欠かせない長崎ならではの食材。


唐人菜
 

【唐人墓地(とう-じんぼち)】
  中国人墓地ともいう。唐貿易(※下記【唐貿易(とう-ぼうえき)参照】)で多くの中国人が長崎に住むようになったが、当然、死者も出れば葬る場所がいる。唐人墓地は、江戸時代の初めに毆陽華宇(おうようかう)と張吉泉(ちょうきつせん)という有力唐人が菩提寺とした稲佐・悟真寺に、百間四方の墓地を定めたことにはじまり、現在でも多くの在留華僑が墓地を造成していて、その墓碑の数は230基にものぼるとか。悟真寺・中国人墓地の唐人祭壇は現在、長崎市の史跡に指定されている。春徳寺にある県指定の有形文化財・東海家の墓も唐人墓地のひとつ。10代に渡り唐通事を勤めた。この東海家の墓は5段から成り、完成まで数年を要したというだけあって、とにかく壮大だ。

東海の墓
 

【唐人屋敷(とう-じんやしき)】
元禄から幕末まで利用された中国商人の居住地。唐船とオランダ船の来航が長崎一港に定められて以来、中国人達は市内に雑居。長崎人と親しい関係にあったが、幕府は密貿易への対策もあり、市中に散在する中国人を十善寺地区に集め、出島と同様、中国人の居住地、唐人屋敷を造った。使用されたのは元禄2年から幕末に至るまで。広さは、9,300坪余りで、約半世紀早く出来た出島は3,900坪余りなので、比較すると約3倍の規模だった。現在は、3つの中国のお堂とレンガ造りの福建会館が点在。屋敷への境界を示す水路や石橋が唐人屋敷時代のたたずまいを偲ばせている。

土神堂
 

【唐船(とう-せん)】
唐貿易時代の中国の船。竹の皮で編まれた帆は出港する時に揚げ、航海の無事を祈願して「吉祥大黒順風」の旗がはためいていた。唐貿易最盛期、唐船は毎年初夏の頃、南西の風に乗って入港し、唐人達は長崎くんちを見物して、東北の風に変わるのを待ち中国に帰国したのだとか。
 

【唐僧(とう-そう)】
 
唐の僧侶。長崎在住の中国人達がそれぞれ出身地の寺院を建立すると、そのつど唐から高僧が招かれた。なかでも日本最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖隠元(いんげん)禅師が有名。興福寺は隠元禅師が中国から初めて日本に渡海され住持した宝地であり、その後も眼鏡橋を架けた黙子如定(もくすにょじょう)禅師、近世漢画の祖逸然(いつねん)禅師など、そうそうたる中国高僧が住持した。

黙子如定像
 

【唐寺(とう-でら)】
中国の寺院。幕府によってキリスト教禁止令が全国に発布された際、キリスト教徒ではないことを証明するために、日本人はどこかの寺の檀家とならなければならない寺請制度が設けられた。これは市中に散在していた唐人も同様。当時、唐人を受け入れていた寺は悟真寺だけだったため、自分達の寺院を建てようと唐人達自らが動き出した。そして日本ではじめてできた唐寺が、寺町に現存する興福寺。その後、福済寺、崇福寺が出身地ごとの唐人達の手によって建てられていった。建造物も黄檗宗の特徴がある。中国の寺院において本堂に相当するのが「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」で、釈迦の意味である“大雄”を本殿としているのだ。
興福寺
 

【唐八景(とう-はっけい)】
標高約305m、市内東南部に位置する山。頂上からは長崎市街地を一望することができ、天候が良ければ五島列島や天草諸島、佐世保針尾島まで見渡すことができる。なぜ唐八景というのかは諸説あり、長崎に来た中国人が中国浙江省杭州にある西の風景に似ているといったことから名づけられた、または当時交通の要所であった戸町付近を東泊口と呼んでいたため、その谷間(渓)から登った山というところから東泊渓から名づけられたともいわれている。
唐八景
 

【唐通事(とう-つうじ)】

中国語の通訳を主な職務とした地役人。そのはじまりは慶長9(1604)年。時代とともに組織や人員などが拡張され、慶応3(1867)年の解散までに、24の役職と延べ1,644人(実数は826人)を数えたのだとか。
唐通事は、もともと大通事、小通事(以上、上級通事)、稽古通事(下級通事)の3段階だったのだが時代とともに唐通事頭取、同諸立合、御用通事……と複雑に細分化された。はじめてできた唐通事の事務所は、宝暦元(1751)年に設立された唐通事会所。現長崎市立図書館の場所にあり、今もその記念石碑が建っている。唐通事は阿蘭陀通詞のように単なる通訳ではなく、貿易から中国人の私生活に関することまでこと細かく関与したため、唐通事は爐弔Δ賢瓩了が阿蘭陀通詞とは違うのだ。
 

【唐貿易(とう-ぼうえき)】
長崎港を寄港とした日本と唐との貿易の名称。唐貿易の全盛期は元禄時代。唐船が入港すると検使と目利(めきき)による乗員改めがあり、唐の船員は新地蔵に上陸。船から阿漕船に荷を積み、船改めを行うと、船頭が目録と照合し、検使が荷を封印し蔵に入れられる。この蔵入れまでの作業を丸荷役人と呼ばれる地役人が管理した。ほかに目利(めきき)と呼ばれ、輸入品の品質や値段を吟味し、違法な輸入物資を差し押さえ、追究する専門役人もいた。
貿易品




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