■ 復元されたカピタン部屋に接近!

屋根付き階段がシンボル!カピタン部屋

出島の最高責任者であるカピタン(商館長)の部屋は、倉庫の2階に住んでいた商館員に比べ、とってもゴージャス! 入口正面には左右両側から登ることができる屋根付きの“三角階段”と呼ばれる階段があり、これが他の建物と大きく違う特徴となっている。
当時、扉には「1808」という完成の年号が書かれた。これは寛政10年(1798)、後に“寛政の出島大火”と呼ばれる大火に見舞われ、当時のカピタン部屋を含む出島の大半を焼失。文化5年(1808)まで日本側と商館長の意見が合わず再建まで10年もの年月を要したのだという。「1808」の文字は、きっと完成を祝う記念の印だったのだろう。
現在、復元されたカピタン部屋の1階では、出島の歴史や生活に関する展示、2階では商館長の生活の様子を復元展示している。

カピタン部屋

1階の展示

内部は、1階が食料品と物品の倉庫で、中央は裏にある乙名部屋に続く通路。同じくその通路を出て右へ行くと料理部屋へと出ることができ、それも再現されている。




料理部屋への通路

そして、2階がカピタンの事務所兼住宅だ。日本の役人や大名などが出島を訪れた際も接待の場所として使われていた。宴会場やビリヤード台などが置かれ、公邸としての役割が大きかったようだ。再現された食堂にはリッチ感が漂う。


食堂

商館員達は、このカピタン部屋で朝夕2回、食事を共にしたのだという。
それにしても、どの部屋に入っても、文様の入った壁紙に目を奪われる。
これは、日本の伝統的な文様をモチーフにした木版刷りの美術紙で“唐紙”。


唐紙

室町時代から建物内部の壁や襖の装飾に使われてきたもので、出島の建物でも使用されていた。ケンペルが出島に関する説明をした文の中にも「……自費で壁紙代わりに絵柄のついた紙でこの国の習慣通りに整える。」と唐紙のことと思われるくだりが登場する。
また、絵画、天文、地理など多くの分野に明るくユニークな人物として知られる司馬江漢(しばこうかん/1747〜1818)も天明8年(1788)、42才の時に出島を訪れ、その時の旅行記録を『西遊旅譚』に記している。その中にはカピタン部屋内部のスケッチもあり、そこには、壁には額に収められた数多くの絵画が架けられ、椅子が並べられ、机の上にはワイングラスと水差しが置かれ、天井からはシャンデリアが下がるという、まるで洋風な部屋が描かれている。
さて、カピタン部屋の総まとめは、当時は長崎湾を一望することができたベランダ。復元された現在のベランダは、路面電車が通る国道沿いを眺めることができる憩いの空間となっている。


ベランダ


ベランダからの眺め


■ カピタン部屋に住んだカピタンに接近!

●カピタンの仕事
多くの責務を担った出島の最高責任者
出島和蘭商館はつまり貿易のために日本(出島)に置かれたオランダ東インド会社の支店。カピタンの任期は1年と定められていたが、なかには数年引き続いて在職したものもいた。平戸に和蘭商館が置かれた時代も含め、251年間でその数ざっと163人。カピタンは東インド会社という特殊商社の日本駐在代表であり、国家権力の代行者でもあり、貿易商社員であると共に外交官でもあった。カピタンの毎年の大仕事に江戸参府があった。制度化されたのは寛永10年(1633)で、寛政2年(1790)以降は4年に1度になった。江戸参府とはカピタンが江戸に上り、将軍に拝謁して献上品を贈り貿易に対する謝意を表す行事のこと。嘉永2年(1850)に廃止されるまでの218年間に116回行われた。片道約50日、江戸滞在も含めて120日に及ぶ大旅行になることもあったという。


シーボルト著『日本・江戸参府図』(シーボルト記念館蔵)


また、出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人が罪を犯した場合、幕府は原則として刑罰を加えない方針だったので、オランダ人に関しては商館長が処理を行なったんだとか。


●カピタンの悩み
貿易摩擦にあの手この手?
貿易上の駆け引きやトラブルを解消することは、カピタンの手腕にかかっている!そして、日本側の直接的な交渉相手が長崎奉行所の役人達。歴代のカピタン達はあの手この手で、彼らとの親交を必死に務めたという。文政3年(1820)、日本からの輸出品である銅や樟脳(しょうのう)の調達、引き渡しがうまくいっておらず、出島に輸出品がなかなか運び込まれていなかった。さらに輸出量を多くし、オランダからの輸入品の評価額を上げたり、日本滞在の間の経費を抑え、貿易による利潤を少しでも多くしたりの交渉も難航していた。そこで当時のカピタン・ブロムホフは、長崎奉行を離任する筒井和泉守政憲と新任の間宮筑前守信興を出島に招待。2人に玉突き(ビリヤード)をさせたり、オランダ商館員やオランダ船の乗組員による素人芝居を見せ、その間に軽食を振るったりと盛大に歓迎したという。これっていわゆる接待! 最高責任者のカピタンは意外と気を使う仕事だったのだ。


●カピタンの珍エピソード

貿易総額の2割が花街に?

オランダ船が入港している忙しい時期を除くと退屈な生活を過ごすことになり、出島に滞在するオランダ人達の唯一の慰めは、“酒、女、歌”だったという。出島から外へ出られない商館員などは特に、ストレスがたまる一方だったろうが、カピタンの中にもそんな人物がいた。とあるカピタンの場合、厳格な母親のいいつけを守り、滞在中、遊女を寄せつけることがなかったが、しだいに情緒不安定になったことから、阿蘭陀通詞であり吉雄流外科の開祖として知られる吉雄耕牛の診察を受けた。なんとそこで吉雄耕牛が与えた薬は“遊女”。しかし、この薬でカピタンの情緒不安定は改善したのだという。一説には、遊女に支払われた金額が年間の貿易総額の2割だった年があったというから驚き!

『吉雄耕牛肖像画』
(長崎歴史文化博物館蔵)
 
コラム★絶対ゲットしたい!出島みやげ

出島みやげをゲットできるのは、2ケ所。西側入場口メインゲート近く、商館長次席・ヘトルの住居であるヘトル部屋1F、総合案内所に隣接する“出島ミュージアムショップ”と、明治11年(1878)、現存する我が国最古のキリスト教神学校 “旧出島神学校”1Fにこの春オープンした売店“でじまや”だ。旧出島神学校は東側入場口としても利用されている。


出島ミュージアムショップ

“出島ミュージアムショップ”は、コンプラ瓶やオランダ東インド会社のVOCマークが刻印された皿、書籍やはがきなど、出島にちなんだオリジナル商品が豊富に揃っているのが特徴。
●営業 8:00〜18:00(※〜10月9日までは夜間営業〜21:30)
●TEL.095-820-3355


でじまや

一方“でじまや”は、懐かしい駄菓子類をはじめ、長崎の銘菓などを多数販売している。
●営業 8:00〜18:00

Check it! 【唐紙(からかみ)】唐紙カードセット420円

カピタン部屋を持ち帰ろう!
唐紙は、今もなお職人さんの手作業で制作されている数少ない日本の伝統技術で、伝統的な文様をモチーフにした木版刷りの美術紙のことをいい、室町時代から建物内部の壁や襖の装飾に使われてきたもの。出島で復元された建物の中でも壁や天井のいたる所にこの唐紙を発見! 今回再現された柄は主に菊や七宝などの幾何文様で、これらは当時作られた出島の模型に張られている柄を参考に作られたもの。出島の2つの土産物店では、この美しい唐紙がカードになったものを購入することができる。出島見物の思い出にぜひどうぞ。
唐紙カード

Check it! 【和てぬぐい】525円
出島の歴史が一枚の布に!


出島和てぬぐい「出島入船」
出島和蘭商館時代、長崎土産として全国に知れ渡っていた名品の中に“長崎花てぬぐい”があった。この“出島和てぬぐい”は、当時の風物をモチーフに制作されたもの。この春完成した「カピタン部屋」に「オランダ人」、出島に連れられてきた駱駝を描かれた「駱駝図に豆絞り」に「市松模様」、「紅毛図読書図」、「出島入船」、「VOCに鳳凰芙蓉」と、全7種類。どれもこれもエキゾチックで素敵なモチーフばかりだ。

Check it! 【長崎・出島シヨクラアト】1本210円

あま〜い出島を召し上がれ!

チョコレートも、出島に移り住んだオランダ人達が日本にはじめて伝えたもののひとつ。丸山遊女の「貰い品目」(寛政9年(1797)『寄合町諸事書上控帳』に、シヨクラアト六ツと記録されている。当時はお菓子ではなく薬用飲料と考えられていた。この商品は“出島ミュージアムショップ”でのみ販売。


シヨクラアト

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