また、出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人が罪を犯した場合、幕府は原則として刑罰を加えない方針だったので、オランダ人に関しては商館長が処理を行なったんだとか。
●カピタンの悩み 貿易摩擦にあの手この手? 貿易上の駆け引きやトラブルを解消することは、カピタンの手腕にかかっている!そして、日本側の直接的な交渉相手が長崎奉行所の役人達。歴代のカピタン達はあの手この手で、彼らとの親交を必死に務めたという。文政3年(1820)、日本からの輸出品である銅や樟脳(しょうのう)の調達、引き渡しがうまくいっておらず、出島に輸出品がなかなか運び込まれていなかった。さらに輸出量を多くし、オランダからの輸入品の評価額を上げたり、日本滞在の間の経費を抑え、貿易による利潤を少しでも多くしたりの交渉も難航していた。そこで当時のカピタン・ブロムホフは、長崎奉行を離任する筒井和泉守政憲と新任の間宮筑前守信興を出島に招待。2人に玉突き(ビリヤード)をさせたり、オランダ商館員やオランダ船の乗組員による素人芝居を見せ、その間に軽食を振るったりと盛大に歓迎したという。これっていわゆる接待! 最高責任者のカピタンは意外と気を使う仕事だったのだ。
チョコレートも、出島に移り住んだオランダ人達が日本にはじめて伝えたもののひとつ。丸山遊女の「貰い品目」(寛政9年(1797)『寄合町諸事書上控帳』に、シヨクラアト六ツと記録されている。当時はお菓子ではなく薬用飲料と考えられていた。この商品は“出島ミュージアムショップ”でのみ販売。
〈2/3頁〉 【前の頁へ】 【次の頁へ】