海底240mで石炭の塊発見!

昭和27年(1952)に炭鉱が開発されて以来、石炭産業が基幹産業として地域発展の中心的役割を果たしてきた池島炭鉱。しかし、内外炭の価格差などで経営維持が困難となり、平成13年11月に閉山。42年間に渡る炭鉱の歴史に幕を降ろした。現在は、実際に立坑跡や斜坑模擬切り羽などを見学することができる、体験型の観光スポット(但し、現在は団体のみ受け入れ)として活用されている。平成18年に本番を迎える「長崎さるく博‘06」においても、体験ツアーが実施される池島炭鉱跡に、ナガジン取材班、出動っ〜!!


ズバリ!今回のテーマは

「日本の一時代を支えた池島炭鉱跡を探検!」なのだ


●JR長崎駅からのアクセス

■JR長崎駅から神浦桟橋まで
長崎バス〜さいかい交通/長崎駅前バス停から板の浦連絡・桜の里ターミナル行きに乗車し、桜の里ターミナルバス停下車。さいかい交通板の浦行きに乗り換え、外海行政センター前バス停で下車、神浦桟橋まで徒歩3分。
車/長崎駅前から約1時間。
問い合わせ/外海行政センター0959-24-0211

■神浦桟橋から池島まで

アクセス/池島行きフェリー(西海沿岸商船)
料金(片道)/大人380円、小人190円
1日5往復(所要時間片道30分)
問い合わせ/西海沿岸商船0959-22-0649


九州最後の炭鉱の島・池島


周囲4kmの小さな池島
国策として戦後復興の原動力となり、経済成長を支えてきた石炭産業。そしてまた、日本高度成長期、活気に満ちたいわゆる“いい時代”は、炭鉱産業が栄え、男達が汗水流した時代と符合する。
こんもりとした山のことをぼた山というが、これはいわゆる炭鉱用語。元々は採炭した際に出たぼた(選炭した後に残る岩石や石炭のクズ)を、積み上げた円錐状の山をぼた山と呼ぶのだ。ぼた山という単語が流通しているあたり、炭鉱や石炭というのは、かつては一般にとても馴染みのあるものだったことがわかる。
さて、そんな炭鉱のひとつが、九州で最後に閉山した池島炭鉱。外海・神浦から西へ7km、フェリーで30分の場所にある周囲4kmの池島炭鉱の採炭の範囲は、3km離れた蟾島(ひきしま)まで及ぶ海底炭鉱だった。

池島炭鉱は、福岡にある三井松島産業の100%出資子会社、松島炭鉱が海底での開発を手掛けたのは昭和27(1952)。朝鮮戦争さなかで、全国には850もの炭鉱があったそうだ。池島炭鉱は、それから7年後の昭和34年(1959)に営業出炭を始めた。
鉱区は3万5500ヘクタール。坑道延長は96km。最盛期の85年度は153万トンを出炭、従業員数は2400人(協力会社を含む)に上った。
しかし、国内炭と海外炭との価格差による基準炭価の値下げに苦しむことになる。池島炭鉱の石炭は九州電力など国内の電力会社が買い取ってきたのだが、海外炭に比べ3倍の1t当たり1万3000円する国内炭への圧力は強まった。その結果石炭鉱業審議会は、池島炭鉱などの二鉱を2006年度まで存続させる代わりに、炭価を1万円以下にするよう求める答申を出したのだった。
これを受け会社側は人員削減や給与カットを行なうなどのコストダウンに努めた。が、その矢先、2000年2月に坑内火災が起こった。その影響で2000年度出炭量は82万トンに激減。松島炭鉱はその年の3月期の決算で約54億円の債務超過に陥り、安い輸入炭との価格競争に加え、国の石炭政策として国内炭鉱を支援する「石炭鉱業調整臨時措置法」が年度末で打ち切られるため、存続は困難と判断した。
そして、2001年11月29日、九州からヤマの灯が消えたのだった。
正式提案から1ヶ月半という短い時間での閉山だという。

池島炭鉱を経営する松島炭鉱は同日付で従業員を全員解雇した。
商業ベースの採炭事業から撤退、閉山を迎えた後は、施設の一部が研修施設として残され、国の新たな施策として始まる外国炭鉱技術者を研修する「炭鉱技術移転五カ年計画」を進めるための新会社が設立。希望する従業員が再雇用された。

一つの時代の終わりと共に、新たなスタートを切った池島炭鉱。
今回、ナガジン取材班は長崎県内の高校で活躍される社会科教師の皆さんの体験学習に同行し、海底炭鉱という未知の世界へ足を踏み入れてきた!


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