丸山遊女のこと

花街・丸山は寛永19年、世界でも珍しい公娼制度として江戸幕府公認の元に誕生した。
江戸から昭和初期まで時代と共にその形態は変化を遂げていった花街・丸山。
ここでは鎖国時代、日本三大花街として賑わった丸山に生きた遊女たちの特色を、キーワードに沿って少しだけ紹介しておこう。

●国際的

丸山遊女が吉原や島原などの遊女と違うのは、外国人と交流があったということ。
鎖国以降、丸山遊女は日本行き、唐人行き、オランダ行きに分かれていた。

●遊女の格

長崎では遊女を太夫、みせ女郎、並女郎の3階級に区分していた。
太夫は小舞を習い、茶の湯をたしなみ、祝儀や催しに招かれ、能舞台にもあがった。
太夫屋には能舞台の設備があった。日本行きの遊女が最も格が高く、容姿の美しさはもちろん、歌舞音曲はもとより茶道、生け花、香道、文学にも通じていたという。

●絵踏

禁教の時代、正月4日から長崎では絵踏が行なわれていた。
病人には病床で踏ませ動かれないものには足に絵板をあてた徹底したものだった。
9日で絵踏は終わるが、8日の丸山遊女の絵踏はとにかく華やかなものだったという。
その日の遊女の衣装は絵踏衣装と言われ、馴染みの男たちは競って美しい衣装を遊女に贈ったのだとか。

●丸山遊女請取行列

唐人は遊女の揚代として砂糖を長崎会所に出していた。
会所はそれに相場をつけて代銀を渡す。
暮れの29日になると丸山遊女たちは美しく着飾って長崎会所にカゴで乗り付けた。
その道中を見ようと見物人が押し寄せていたらしい。

●花歌舞伎演目

江戸(吉原)のキップに京都(島原)の器量、長崎(丸山)の衣装で三拍子揃うといわれていた程、丸山遊女の衣装は華やいだものだった。
吉原や島原の遊女と比べ、丸山遊女は格段に自由で、廓から自由に外出して唐人屋敷や出島に外泊する遊女も少なくなかった。
妓楼のそんな賑わいが歌舞伎の演目として今の時代に伝えられている。
寛政元年(1789)初演、並木五瓶『漢人韓文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり)』は、長崎丸山の遊廓を舞台に唐人との言葉の障害によって起こるトラブル、恋のもつれと成就、通事殺しが繰り広げられる異色作だ。