日本の近代化を支えた偉人 トーマス・ブレーク・グラバー /(1838〜1911)


日本政府から授与された勲章を胸にしたトーマス・B・グラバー

プッチーニの歌劇「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は世界的に有名なオペラ。
幕末、明治の長崎を舞台に、港の見える丘で帰らぬ人ピンカートンを待っていた悲しい女性の物語だ。
園内に「マダム・バタフライ」を当り役とした三浦環の像があるが、決して劇中の人物ピンカートンとグラバーを混同してはダメだ。
幕末に日本を訪れ、日本人女性と結婚、子をなしたまではピンカートンと同じだが、グラバーは妻と子を置き去りにしてはいない。
2人の子どもに恵まれ、妻ツルと共に終生日本で幸せに暮らしているからだ。

トーマス・ブレーク・グラバーは天保9年(1838)、イギリス、スコットランド北部の小さな漁村、フレーザーバラで生まれた。
少年時代はアバディーンという町で過ごし、名門校に通う。
さらにこの頃沿岸警備隊に勤務する海軍大尉の父から船舶の操縦技術も学んでいる。

グラバーは安政6年(1859)9月、開港と同時に上海経由で長崎へ来航。
同じスコットランド人であるケネス・R・マッケンジー(大浦国際墓地参照)が経営していた貿易商社に勤務する。
グラバーは21歳だった。
文久元年(1861)、マッケンジーが中国へ去ると、その仕事を引き継ぐと同時に「グラバー商会」を旗揚げ。
そこで彼は坂本龍馬などの志士たちに銃や艦船や機械類を大量に販売。
茶、絹、銀、そして各地方の様々な特産品を輸出した。
最初の5年間で莫大な利益をあげたという。
取り引き相手が倒幕を画策する西南諸藩だったため、グラバー自身も明治維新の政治情勢にも深く関わることになる。

長崎港を見下ろす南山手の丘にグラバー住宅を建設したのは、南山手が外国人居留地となった文久3年(1863)。
彼は50年あまりを日本で過ごしているが、はじめの10年が貿易という経済的な面で、明治以降はいわば純経済人としての活動期に入り、それと共に彼は日本の近代科学技術の導入に貢献した。
例えば慶応元年(1865)、大浦海岸に我が国初めての汽車(アイアンデューク号)を走らせる。

そして慶応2年(1866)、小菅に「ソロバンドック」を建造して我が国の造船、修船事業に貢献。



さらに、明治元年(1868)、長崎港外「高島炭坑」(三菱炭坑)に画期的な洋式採炭法を取り入れ開発。


高島のグラバー別邸跡

これらを含む様々な最新技術の導入に尽力したのがグラバーだった。
また「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後の「キリン麦酒株式会社」)が横浜に設立される際も重要な斡旋をしている。
キリンビールのシンボルマーク、麒麟の髭はグラバーの髭がモデルなのだとか。


キリンビールのシンボルマーク

グラバーの髭

さらに東京では「鹿鳴館」の外国人名誉書記も務めていたという。
明治30年(1897)、グラバーは日本人の妻ツルと共に東京へ転居。
そこで、三菱の顧問としての余生を送った。
そして日本政府は明治41年(1908)、外国人としては初めての勲二等旭日重光章をグラバーへ贈り、彼の功績をたたえている。

それから3年後の明治44年(1911)12月13日。
グラバーは慢性腎臓炎の発作に襲われ東京の自宅で死去。
73歳でその生涯の幕を閉じた。
遺体は火葬に付され、埋葬のため長崎へ運ばれた。
お墓は長崎市の坂本国際墓地。
妻ツルとともに息子の倉場富三郎夫妻とならんで眠っている。