●長崎山 清水寺(清水観音 清水寺)(真言宗霊雲寺派)
電話095-823-3319 鍛冶屋町8-43

●創建
元和九年(1623) 創建。
山城国の僧(京都清水寺の真言僧)慶順が仏像を抱いて来崎し、薬師石(瑞光石)が光った場所に寺を開いたと言い伝えられている。

●文化財
清水寺本堂(県指定有形文化財)



清水寺の梵鐘(市指定有形文化財)


絹本著色不動明王三童子像(国指定重要文化財)

●住職さん

一月 正人さん

●取材メモ1「お寺に千羽鶴?祈願寺ならではの光景」

本堂奥の観音様には祈願寺、特に子授け、安産、子育てなど女性にまつわる祈願の仏様のためか、通常お寺では見受けない千羽鶴が供えられている。
その数は途絶えることがないとか。
厄払いも通常神社へ行くが、昔から清水さんへの女性の参拝は多いらしい。
取材当日もお宮参りや、七五三の家族連れが参拝されていた。


●取材メモ2「境内の随所に見られる風頭石」

長い坂段、本堂前の石畳、石造りの欄干、清水寺内に使われているほとんどが 風頭の石を使用。
京都清水寺の僧だった開基の慶順は、この寺を京都の清水寺以上の名所にしたいと考え、清水の舞台に模した石の舞台を造ったと言われている。


●取材メモ3「境内をのら〜りとブラつく老犬・ゆき」

下の通りから清水さんを見上げると中門の所に寝そべる犬1匹。
寺で飼われている柴犬のゆき(オス)は、少し年をめされて動きがスローリー。
陽の当たる場所や、撫でてくれる人を探してゆっくりと動き寝そべる姿に心癒される。


●取材メモ4「人形いもの伝説が残る千日大祭(千日祭)」

千日大祭は、観音様をお奉りしているお寺で行われる大きな行事で、昔からこの日に観音様詣りをすると千日間お参りしたのと同じ功徳を受けることができると言い伝えられているもの。
昔は旧暦の7月9、10日(8月9、10日)に行われていて原爆投下のため戦後途絶えたが、昭和53年頃から8月17、18日に日を改め、復活。
暑気払い、無病息災を祈念した伝説にも残る「人形いも」や細く長く元気でという願いが込められた「そうめん」がふるまわれ賑わいを見せるとか。

●取材メモ5「言い伝え」

「言い伝え1・瑞光石(ずいこうせき)」

開基の僧・慶順が霊地としていい場所がないかと敷地を探していた頃、おそらく小島の辺りにおられたのか、ある夜東方に妖しくも白光が続けさまに上るのが見られた。
翌朝、光の発する所へ行ってみると、大石から光を発している。慶順はかねてから信心する観音様のお告げと喜び、この地に清水寺を建てたという伝説が残っている。
瑞光石は本堂裏にあり、石の裏に千手観音の種子(頭文字)が梵字で刻まれている。


「言い伝え2・人形いも」
昔、京都のさるお姫様を乗せた舟が長崎に来る途中で難破し、疲労と空腹に苦しんだ。
一行はようやく飯香ノ浦に流れついた。村人の親切な看護と掘りたての芋をご馳走になり、ようやく気力を回復し長崎に入り清水寺に安住することになった。
それ以来、この芋の味を忘れられないお姫様のお声がかりで、飯香ノ浦の芋を千日祭の時に売るようになったと言い伝えられている。
「人形いも」と名付けられたのは、小指くらいの大きさなど、中には人形のように可愛い形をした物があったからとか。
昔の千日祭では、寺付近の各家が蒸かした芋をだし、浴衣姿の老若男女で賑わったとか。

●取材メモ6「長崎の女傑・大浦お慶の墓」

中門まで上る坂段のちょうど中程に山門があり、そこをくぐると左手に聖天堂がある。
このお堂は、江戸末期、製茶貿易で勇名をはせた長崎の女傑「大浦お慶」が信仰していた「歓喜天」が祀ってあるため、お慶が熱心に参拝したと言われている場所。
油屋町の油問屋・大浦太平次の娘のお慶は、嘉永六年(1853)、21歳のとき肥前嬉野茶の販路を海外に求め、兼ねてから親交があったオランダ通詞の品川藤十郎の手引きで出会った出島在留のオランダ人テキストルの協力を得て日本脱出に成功。
輸出船が港を出るまでトランクの中に身を隠していた話は有名だ。
日本茶の輸出方法と需要の状況を把握し帰国したお慶は日本茶を英米に輸出することになり、日本における製茶貿易の皮切りを果たした。
その後諸外人の信用を得て莫大な利益を得て大金持ちになったが、独り占めせず、その利益で国事に奔走していた坂本龍馬、高杉晋作、大隈重信などを援助したことで知られる。
明治十七年56歳で死去。
お慶の墓石は清水寺本堂から100m程上った隣町の高平町にある。