● 出島復原から見えてくるもの

さて、「出島370年物語」も今回で最終回。第1回でもお伝えしたように、現代では、かつて港に突き出していた扇形の築島「出島」を実感することもできません。日頃忘れてしまいがちなのは、現在、出島の周囲がすべて埋め立てられていることにあるでしょう。それは、まず明治15年から22年の間に行なわれた第1期港湾改良工事の一環である中島川変流工事がはじまりでした。西浜町と築町との間を真っ直ぐに流れていた港に注いでいた中島川の河口を、長久橋付近から西に迂回させて、出島と江戸町の水路につなぎ、現在の中島川の流れが誕生しました。また、その際、出島の東側と築町間が埋築され、出島はその姿の一部を失い、さらに、明治37年(1904)の第2期港湾改良工事により、海に浮かぶ独特の扇形の原形を失います。それは、出島が誕生してから、実に268年後のことでした。

出島は大正11年に国の史跡に指定されましたが、日本だけでなく、世界史上においても大変価値の高い遺産です。そこで、長崎市では昭和26年度から整備計画に着手し、翌年以降、史跡内の民有地の公有化や施設整備に取り組み、平成8年度からは本格的な復元整備事業を実施。平成13年度には民有地のすべてを公有化して完全復元に向けて着々と整備が進み、18年度までに、“短中期計画”に掲げられていた「西側」のヘトル部屋、料理部屋、一番船船頭部屋、一番蔵、二番蔵、水門、カピタン部屋、乙名部屋、三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋などの10棟が完成し一般公開されています。現在は、2016年度(平成28年度)の供用開始を目標に、新たに6棟の建物の復元に取り組んでいます。
そして、“長期計画”は、なんと、四方に水面を確保し、19 世紀初頭の出島を完全に甦らせるというものです。

今も出島を訪れると、度々発掘現場を目にしますが、これまでの発掘調査でも、出島敷地内や護岸石垣周辺からは当時の生活ぶりや国際交流の様子がうかがえる遺物が多数出土。興味深いそれらの発掘物をその目で見ることができます。

「出島」築島から370年後の現代に生きている私達にとって、遥か遠い昔の長崎の町にもたらされた鮮烈な発見と驚きからくる感動を、当時と同じように体験することはとても難しいことかもしれません。でもなぜか、復元中の出島を訪れると、何の感動もなしにその場を後にすることはできません。

生活スタイル、娯楽、野菜やお肉などの食習慣、私達の周りで見かける植物達……現代の私達のルーツがここにある! そんな感動が湧いてくるに違いありません。小さな築島「出島」の大きな功績を、ぜひ、復元工事途中の今、ライブ感覚で追体験してみてください。
 
★出島ワールド人物伝★
1779年から1784年までの間、3年半を出島オランダ商館長として過ごした人物がいます。イザーク・ティッツィング(1745-1812)。彼はオランダ人最初のヨーロッパレベルの日本研究家でした。彼が商館長を務めていたのは、シーボルトの来日より半世紀以上も前のこと。1800年以前、日本の将軍(宮廷)と中国の皇帝(宮廷)両方を訪問したのはポルトガル宣教師ジョアン・ロドリゲスとティッツィングのみで、彼は18世紀のほかの東インド会社職員とは違い、自らの体験から様々な東洋文化を身につけており、シーボルトが『日本』を発表するずっと以前、すでに日本という国について詳細な知識を持つ唯一のヨーロッパ人でした。その個人的な知識と才能、精神性から、彼は前任者とも後任者とも違う比類な地位を得ます。オランダ語の本の供給を活発化させ、多くの日本人にオランダ語の読み書きを教え、自らも日本語を学ぶ――出島到着後まもなく、数名の日本人蘭学者と親密な交流を持ち、阿蘭陀通詞達の助力を得て、蒐集(しゅうしゅう)品をヨーロッパに持ち帰る正式な許可も得ていました。それは、かのシーボルトさえ許されなかったことですから、彼が受けていた厚遇がどれほどのものだったか想像できますよね。さらに驚くことに、日本人個人との私的な通信が許されました。このことを、後に出島で18年間を過ごした商館長ヘンドリック・ドゥーフは信じられず次のように述べています。「(前略)長崎奉行丹後守が異例な寛大さをもって彼に数名の高い社会的地位にある人との文通を行なう許可を与えた、というくだりである。私はこれを否定する、いかなる役人も、こんなことはしない、それはあまりに危険である。日本人と文通を許されたオランダ人はおらず、オランダ人と文通を許された日本人もいない」。しかしティッツィングは、実際に1785年から17年もの期間、優秀な阿蘭陀通詞だった吉雄耕牛幸作や、楢林重兵衛、堀門十郎ほか桂川甫周、中川淳庵などの江戸蘭学関係者と書簡を交わし、その往復書簡は現存しています。
 





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