● シーボルトの植物園


オランダ商館医として来崎したシーボルトは、着任後間もなくオランダ領東インド政庁依頼の業務を開始。その依頼業務とは、日本の博物学的・民族学的研究調査と日蘭貿易の再検討をすることでした。渡来直後すでに、日本人に医学および自然科学を講義。さらに天然痘の予防接種の導入や白内障の手術を行なっています。また、そのわずか3ヶ月後には、最初の著書『日本博物誌』を発表。シーボルトの大きな目的のひとつは、日本の植物についての研究でした。出島からの外出が制限される中、長崎近郊の散策できる機会をとらえては、珍しい植物を採集し標本作成。また、自らの代わりに門人達に旅をさせ、日本各地の植物の採集にいそしみました。

1824年11月24日付、東インド総督ファン・デル・カペレンへの手紙には以下のように記されています。

「私の最も好きな植物は、すでにヨーロッパで勉強していたため、最も熱心に研究している。昨年すでに私自身の勘案で出島に植物園を作り、ここで珍しい、注目すべき植物を栽培している。(中略)私は生きている植物、また乾燥した植物で、さまざまな新種を見出したが、植物学の新しい本がないため、現在まだ新しい属は定めていない。(中略)私は長崎の植物を大部分集め、乾燥し、最も珍しいものの一部は、植物園で栽培し、また他のものは、写生させた。来年私の植物学の研究をバタビアに提出できると思う」

これによるとシーボルトが出島に植物園を作ったのは1823年。なんとシーボルトが来崎した年なんですね。実に早いスピードで薬草園を整えた、その関心の程が伺えます。

シーボルトの手足となり植物採集の旅に出たのは、高 良斎(こう りょうさい)、美馬順三(みま じゅんぞう)という共に阿波出身の蘭方医と蘭学者。彼らが採集した標本は、シーボルトの大著『日本植物誌』の素材となりました。
さて、シーボルトが植物園を作ってから2年後、総督ファン・デル・カペレンによって植物園の再建が認められました。その規模はさほど広いものではありません。シーボルトの時代の『出島図』から見積っても、約4000坪の出島全面積の十五分の一か二十分の一、面積にして約200〜300坪程度だったと推測されています。シーボルトが帰国する1830年までにこの植物園に植えられた日本に定着した中国の有用植物と鑑賞用植物の苗木は、実に1400種を越えました。

実はこの植物園、シーボルトの植物研究そのものよりもオランダが植民地経営のために世界に張り巡らせた大きな植物園組織のひとつで、ジャワからオランダへ便船を待つ間の植物の育成と移植のための馴化を目的としたものでした。つまり、シーボルトもその一翼を担わされていたひとりで、採集した植物は、長崎出島→バイテンゾルフ(ジャワ)→ケープタウン(南アフリカ)→ライデン(オランダ)とつながる植物園の組織によって移送されていたのでした。

シーボルト以前の商館医でも、ケンペル、ツュンベリーなど、医師であり博物学者、植物学者の大先輩がいました。今も出島の片隅に残る「ケンペル・ツュンベリー記念碑」は、シーボルトが尊敬する彼ら大先輩を讃え建立したものです。ラテン語で刻まれた碑文には、以下のようにあります。

  ケンペル、ツュンベリーよ
  見られよ!君たちの植物がここに、くる年ごとに
  緑きそい、咲き出でて
  そが植えたる主をしのびては、
  めでたき花のかずらをなしつつあるを
      ドクトル・フォン・シーボルト(呉秀三 訳)


そして、今は摩滅して読むことができませんが、裏面にはこう刻まれました。

    わざによりて生を高めることこそ美徳なれ
                  ヴェルギリウス




その後、出島の植物園は※1「シーボルト事件」発端の1828年9月17日の台風で1000種以上の植物が高波によって損傷します。その際、「1828年春に植物園に植えられていた植物の地方名」、「よく分からない植物」、「水谷助六から送られた珍しい植物」としてケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ……約360種のリストが現在、東洋文庫のシーボルト関係書に保管されています。このリストは、シーボルトが帰国する際、後継者のビュルゲルに指示したもので、これを記したのは、1827年9月から翌年3月まで長崎に留学していた門人 伊藤圭介。そして、現在『日本植物誌』にシーボルトが目にした日本の植物の姿と特徴として収められた150点もの美しい彩色図版は、シーボルト帰国後もビュルゲルを通してシーボルトに仕えたシーボルトのお抱え絵師、川原慶賀のものといわれています。

平成12年(2000)、日蘭交流400年記念事業の一環として、オランダ ライデン大学附属植物園からカエデ科のイロハモミジ、ブドウ科のナツヅタ、マメ科のフジ、アケビ科のアケビ、ニレ科のケヤキの5種類が出島に里帰り。ミニ出島周辺の庭園に植樹され、現代に生きる私達にかつての交流を伝えています。
 
 
★出島ワールド人物伝★
1828年9月17日の「巳年大(台)風」を受け、それまでに植えられていた植物の名を記録した伊藤圭介。彼は名古屋の人で、後に蘭方医、本草博物学者として活躍します。幼い頃から植物を好み、父や兄から医学を学んだ圭介は、後に江戸時代後期の本草家 水谷豊文について植物学を修めました。シーボルトとの出逢いは文政9年(1826)、江戸参府の途上、熱田宿を訪ね、師である水谷らとともに博物学上の知識を交換したことにはじまります。そして、翌年長崎に遊学し、シーボルトについて西洋博物学を学び、シーボルトの研究に協力しました。彼の長崎滞在期間は半年足らずの短いものでしたが、鳴滝塾で学ぶよりも、シーボルトの収集した植物の整理などをしていたので、二人は師と門人というよりももっと親密な友人関係にあったといわれています。
 
※1シーボルト事件/文政11年(1828年)9月、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、翌年、シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けたというもの。





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