● 平戸から出島へお引っ越し

かつて港に突き出した扇形の築島「出島」は、その姿形も役割も、ひと際異彩を放った存在でした。日頃忘れてしまいがちなのは、現在、長崎の市街地沿岸部はそのほとんどが埋め立て地だということ。江戸時代の様々な絵図を見る度にその事実を実感、そして、この地形の変化が長崎の町の変遷を物語っていることに気付かされます。
出島が誕生したのは、1636年(寛永13年)。キリスト教の布教を禁止するためにポルトガル人収容を目的に徳川幕府の命により築造されました。しかし、完成翌年には島原天草でキリシタン農民による一揆が勃発し幕府とポルトガルとの関係が悪化。やがてポルトガル人の日本渡航が禁止され、わずか3年で出島は無人島になりました。そして、次に居住者となったのはオランダ商館の商館員達。1609年(慶長14年)に平戸に開設されたオランダ商館が、1641年(寛永18年)、幕府の命令で出島に移転することになったのです。



出島初代のオランダ商館長マクシミリヤン・ルメールの日記には、引っ越しの日の出来事が綴られています。

引っ越しが行なわれたのは、1641年6月25日(寛永18年5月17日)。商館員達を乗せたオランダ船は日の出の頃長崎港に到着。彼らは直ちに自分達と日本人商館員の部屋を決め、家主である25人の※1出島町人にさっそく部屋の修繕を依頼しました。

そして午後には主なオランダ人達が※2奉行所に出向き挨拶を行なっています。彼らは奉行所で、これまで平戸で使用人として雇っていた日本人達は自分達の習慣をよく理解しているのでそのまま雇いたい意向と、船用の木材や船荷などの置場と羊やその他家畜の牧場の指定を願い出ました。すると、雇い人達は★大目付井上筑後守氏の到着まで雇い続け、その後は彼の指示を受けるように申し付けられました。また、材料置場と牧場については、※3長崎代官 末次平蔵氏に申し出るよう言われ、※4町年寄達に挨拶回りするよう命じられています。

命じられたとおり町年寄を歴訪し、最後に末次屋敷へ。しかし、末次氏はあいにく病気のため市外にいたので、乙名が代わりに面会し、明日、場所を検討し希望地を知らせれば、平蔵氏に話して便宜を計ると言われ帰宅しています。
(マクシミリヤン・ルメールの日記より『長崎オランダ商館の日記.第一輯』)

このように、長崎の初日は慌ただしく過ぎていったようです。これが、218年という長きに渡り続く出島を舞台にした、幕府とオランダ東インド会社、長崎とオランダ商館員達との交流のはじまりの一日でした。
 
 
★出島ワールド人物伝★
出島へ移る前年、1640(寛永17年)、平戸に出向き、西暦が記されているという理由で、オランダ商館の破壊を命じた人物がいました。徳川幕府大目付の井上筑後守政重(1585〜1661)です。平戸オランダ商館長フランソワ・カロンは、オランダ人200名を指揮し、倉庫の物資を移して商館を破壊。以後、商館は出島に移ることになりました。この井上筑後守はとても矛盾に満ちた人で、幕府のキリシタン禁教対策の中心人物でありながら、一方では西洋の医学、薬学、砲術、天文学などを高く評価。興味を抱き、情熱をもって情報を入手していたといいます。
 

※1出島町人/出島の建物は、長崎を代表する25人の豪商による共同出資によって築かれた。
※2奉行所/江戸幕府の遠国奉行。奉行所は、江戸町にあった。
※3末次平蔵/貿易商人、キリシタン代官。禁教後は棄教し、キリシタン弾圧を激しく行なった。
※4町年寄/鎖国以前に朱印船貿易で栄え、長崎のじげ者を統率してきた地役人。当初は高木・高嶋(高島)・後藤・町田の4人体制の世襲制。





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