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コラム 長崎が舞台の小説を読んでみた

「セイヤーは自分でアジア基地への島流しと称して、とめどなく不平を並べながら、今度艦が着いたら、もう乗船するまいと以前から決心していた。日本海域での勤務を休息と考えるわけにはいかず、前に二回乗船を断ったこともある。しかしピンカートンは地中海の勤務を済ませて、初めてここに来たのだった」 『原作蝶々夫人』から抜粋

 ジョン・ルーサー・ロングが1898年に発表した『蝶々夫人』はこのような書き出しではじまりました。この後、長崎に向かう軍艦の船上でピンカートンと同僚のセイヤーの会話が展開されていきます。ジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』は、この作品を原作にして作られているのですが、オペラをご覧になったかたは「あれっ?」と思われたのではないでしょうか。オペラにはセイヤーという登場人物はいませんし、物語の始まりは蝶々さんとピンカートンの「結婚式」でした。現在でも小説を映画化・舞台化することはよくありますが、原作を忠実に映像化したものもあれば、随分違った内容になっているものもあります。蝶々夫人の場合はどうだったのでしょうか。1981年に出版された『原作蝶々夫人』を参考にしながら、小説版とオペラ版の違いを確認してみたいと思います。

<プッチーニのオペラ 蝶々夫人~第1幕>

 まずは、オペラ版蝶々夫人のあらすじをおさらいしておきましょう。オペラは3幕に分かれていて、全幕「ヒガシ・ヒル」にある蝶々さんの家と庭が舞台。第1幕は、周旋人(しゅうせんにん)のゴローとピンカートンの会話からはじまります。ゴローから使用人のスズキ他2名を紹介されたところに、アメリカ領事のシャープレスが結婚式に出席するためやって来ました。「すべての土地の花々と、美しい女性をこの腕に抱く」などとお気楽なピンカートンに対して、人格者のシャープレスは「汚れのない羽をむしり取ってはならない」と諭しますが、ピンカートンはまったく意に介しません。続く「私が本当に結婚する日と、花嫁になるアメリカ女性に乾杯!」というセリフからも、ピンカートンが蝶々さんとの結婚を真剣に考えていないことがわかります。

 そんなこととは知らない蝶々さんが大勢の親族たちと到着しました。シャープレスとの会話で、もとは裕福な生活をしていた武士の娘で、帝の命令で父親が切腹して家が貧乏になり、芸者になって家族を養っていたという過去が語られます。

 祝福ムードで式は進行していましたが、そこに突如、僧侶の伯父が怒鳴り込んできました。蝶々さんがキリスト教に改宗したことを知って激怒したのです。夫と同じ神様を信じたいという気持ちでの改宗でしたが、伯父からは「お前は皆を見捨てた」と罵られ、親族たちからも縁を切られてしまいました。一人悲しくて泣いている蝶々さんを「あの連中のために、その美しい涙を流すのはもったいない」とピンカートンが慰めます。ここから延々と二人が愛を確かめ合う歌が歌われるのですが、これだけ聴いていると、ピンカートンは蝶々さんを愛しているように錯覚してしまいます。

<プッチーニのオペラ 蝶々夫人~第2幕>

 第2幕は、スズキが嘆くシーンからはじまります。ピンカートンが日本を去って3年、何の連絡もなく、残していったお金もそこをつきかけていたのです。それでも蝶々さんは、「わざわざ丈夫な鍵を付けていったのはなぜだと思う。それは蝶々をこの家に閉じ込めておくため。だから帰ってこないはずがないでしょう」と言って、ピンカートンの帰宅を疑いません。そしてオペラ史上最も有名な『ある晴れた日に』を歌います。ある晴れた日に、白い船が姿を現し、「桜の香りのかわいい奥さん」と言ってピンカートンが帰ってくる、という歌詞です。

 そこにゴローとシャープレスがやって来ました。ゴローが以前から蝶々さんに勧めていた縁談相手のヤマドリも一緒です。ヤマドリは自分と結婚してくれと懇願しますが、蝶々さんは頑として首を縦に振りません。傷心のままヤマドリは出て行きました。シャープレスはピンカートンからの手紙を渡すためにやって来ていました。手紙には「あれから3年も経っている、彼女が私を覚えているはずがない、彼女が今も私を愛し待っているなら、領事殿には慎重に事を運んでもらいたい」という辛い内容が書かれていましたが、蝶々さんには上手く伝わらず、逆に「戻ってくる」と大喜びです。シャープレスが「こんな事を言うのはつらいが」と言ってヤマドリとの縁談を勧めると、蝶々さんはショックを受けて、奥の部屋に飛び込んで小さな男の子を抱きかかえて戻って来ました。ピンカートンとの間の子供でした。驚いたシャープレスは、子どものことをピンカートンに伝えると約束して帰って行きました。

 港から大砲の音が。ついにピンカートンを乗せた軍艦が入港して来たのです。蝶々さんとスズキは庭の花を全部詰んで部屋に敷き詰め、ピンカートンを迎える準備をしました。ところがいくら待ってもピンカートンは戻って来ません。蝶々さんは一晩中、寝ずに夫の帰りを待ち続けました。

<プッチーニのオペラ蝶々夫人~第3幕>

 夜が明けてもピンカートンは戻って来ません。スズキは、戻ったらすぐに起こすからと、失意の蝶々さんを部屋に入れました。そこにシャープレスとピンカートンが訪ねて来ます。スズキは蝶々さんを呼ぼうとしますが、二人に止められました。二人の後ろにはピンカートンの妻ケイトが立っていたのです。驚くスズキにシャープレスは、ピンカートン夫妻が子どもを引き取りたいと考えていることを蝶々さんに伝えて欲しいと頼みました。その方が子どもの未来のためになると言うのです。ここでピンカートンは、良心の呵責に耐えられずその場を離れました。そこに蝶々さんが戻って来てケイトと鉢合わせ、ピンカートンの妻であることを悟ります。「私を許してくださいます?」と言うケイトに対して、蝶々さんは「私のために悲しまないで、いつまでもお幸せに」と答え、子どももピンカートン自身が来てくれるのならば30分後に渡すと約束しました。蝶々は子どもと最後の別れをして、父からもらった短刀で自害。遠くから「蝶々さん、蝶々さん」と呼ぶピンカートンの声が聞こえたところで幕は閉じます。

<ロングの小説蝶々夫人~第1章>

昭和30年に八千草薫主演で製作された映画「蝶々夫人」のパンフレット 個人蔵

 それではロングの小説版蝶々夫人のあらすじをご紹介します。冒頭は、先述したように長崎に向かう軍艦の船上での会話から始まります。ここでは長崎での「結婚」について否定的だったはずのピンカートンが、次のシーンでは結婚しただけでなく家まで手に入れていました。オペラの第一幕にあった結婚式のシーンは小説にはありません。すでに終わった結婚式を思い出して、ピンカートンが「大勢来てうるさかった」などと感想を言うだけ。従ってオペラの第1幕は丸ごとプッチーニの創作ということになります。小説ではこの後、日本の文化を尊重しないピンカートンに、蝶々さんの親族たちが文句を言いに来るのですが、彼はすぐに洋酒とパイプ煙草を勧めて、最後には皆と仲良しになりました。ピンカートンが出てくるのはここまで、わずか10ページほどで日本を去ってしまいました。以降、ヒガシ・ヒルの自宅に残された蝶々さんが「駒鳥が巣を作る頃には帰る」と言って去った夫を待ちわびる日々が描かれます。ピンカートンとの間に生まれた「茶目(トラブル)」と名付けられた赤ん坊がいることから、約1年の時間が経過していることが分かります。

 蝶々さんとスズキとの会話で話は進んでいくのですが、会話というよりはほぼ一方的に、ピンカートンが帰って来た時のことを蝶々さんが想像して喋り続けます。このシーンの中で、ピンカートンにもらったお金が残り少ないことが語られました。そこに周旋人のゴローがやって来て、ヤマドリとの縁談を持ちかけました。最初は相手にしなかった蝶々さんでしたが、悪戯心が働いてその気もないのに会うことをOKしました。見合いの日、元藩主のヤマドリは「お城をあげます」「召使いは千人」と言って一生懸命口説きますが、蝶々さんは全く受け付けません。必死のヤマドリは「外国人の船乗りは港々に恋人を持っている」とか「アメリカでは子供は収容所に送られる」などと有る事無い事を話して、蝶々さんを怒らせ、結局は破談になりました。

<ロングの小説蝶々夫人~第2章>

 第2章は、蝶々さんがアメリカ領事館を訪ねるところから始まります。オペラでは結婚式に参列したシャープレスですが、小説ではここが初対面。蝶々さんは、唐突に「アメリカでは駒鳥はいつ巣を作りますか?」「アメリカでは一度結婚したら、男はその結婚を続けなくてはならいないのでしょう?」と立て続けに質問しました。シャープレスは、最初これらの質問の意味がわかりませんでしたが、次第に事情が飲み込めてきました。ピンカートンの気性をよく知っていたシャープレスは「ピンカートンが去ってしまったら」という意味の質問をしました。すると蝶々さんは「踊るか、えーと…。死にますわ」と答えます。

 それから間もなく、ついにピンカートンの船が入港しました。大喜びした蝶々さんはあの人が来るまでに30分もないと言って、大慌てで迎える準備をしました。ところが1時間が経ち2時間が経ち4時間が経ち、夜になっても、翌日になってもピンカートンは帰って来ません。蝶々さんの方から会いに行かないのは、「男を追う女は遊女」と思っていたからです。1週間が経ったある日、望遠鏡を覗いていた蝶々さんは、港に入って来た客船上にピンカートンが金髪の女性と手を組んでいる姿を目撃。さらに翌日には、軍艦は長崎を去って行ってしまいました。

 いても立ってもいられなくなった蝶々さんは、またアメリカ領事館を訪ねます。そこでシャープレスは、ピンカートンから預かっていたお金を蝶々さんに差し出しました。蝶々さんはその意味が分からず受け取りません。そこに一人のアメリカ人女性が「神戸にいる夫のピンカートンに電報を打って欲しい」と訪ねて来ました。蝶々さんの子どもを引き取りたいというという内容です。別室でこの話を聞いていた蝶々さんは全てを悟り、「ピンカートンの幸せを祈っていると伝えてください」と言い残して領事館を後にします。ヒガシヒルの家に帰った蝶々さんは、父の形見の短刀を喉に押し当てました。翌朝、ピンカートン夫人が家を訪ねた時、「そこには誰もいなかった」、という言葉で小説は結ばれています。

 小説とオペラでは、随分多くの違いがありました。ピンカートンが去って1年しか経っていないとか、蝶々さんの方からシャープレスを訪ねるとか、数えるとキリがありません。ところが小説もオペラもやっぱり蝶々夫人でした。プッチーニのオペラは、小説の設定やエピソードを細かく分解して、絶妙なバランスで再構築しています。これは小説を映像化した理想的な作品と言えるのではないでしょうか。しかし、実はこれプッチーニだけの手柄ではありません。彼よりも以前に、蝶々夫人を戯曲化したデビット・ベラスコというアメリカ人がいたのです。プッチーニは、このベラスコの戯曲に感動して、オペラ化を思い立ったのです。

<ベラスコの戯曲蝶々夫人>

 ベラスコはニューヨークで活躍していた劇作家で、評判だったロングの小説を1900年に戯曲化、ブロードウェイで公演して人気を集めました。大好評で、同年ロンドンでも公演が行われました。この時、たまたま「トスカ」の公演準備で渡英していたプッチーニが、ベラスコの「蝶々夫人」を観たのです。感動したプッチーニは、すぐに舞台裏のベラスコにオペラ化の許可を取りに行ったそうです。ベラスコの戯曲版は、ピンカートンが帰ってくる前日と当日2日間の話にまとめられているということですので、小説ともオペラとも構成が違っています。ベラスコがロングの小説を戯曲化しようとした時、ほとんど知識のない日本という国が舞台ゆえに、その始末に困り、作者本人に協力を要請しました。日本通ロングの知恵を借りながら、異国情緒あふれる舞台を作り上げたのです。さて、そんな日本に詳しいロングですが、実は一度も日本に行ったことはありませんでした。なのに、なぜ日本や長崎のことを知っていたのでしょうか。

<ロティの小説お菊さん>

 ロングの情報源は、お姉さんのジェニーでした。ジェニー・コレルは宣教師の夫、アービン・コレルと共に1891年から長崎に滞在していたのです。アービンは、鎮西学院の校長をしていて、自宅は東山手にある洋館「十二番館」にありました。長崎で聞き知った外国人士官と日本の女性の話を、国に帰った際に弁護士の弟のロングに聞かせたのです。趣味で小説を書いていたロングが姉の話を題材にして創作した作品、それが蝶々夫人だったというわけです。ロングがもう一つ参考にしたと思われる情報源があります。ピエール・ロティの「お菊さん」です。フランスの軍人で、長崎に滞在したことのあるロティがその体験を小説化したもので、1887年に出版されて世界中でベストセラーになりました。ロングの蝶々夫人には、随所にお菊さんの模倣が確認され、蝶々夫人の研究者ブライアン・バークガフニ氏は、映画で言えば「お菊さんⅡ」のようだと称しました。

<ロングの蝶々夫人を読んでみよう>

 ロティの「お菊さん」(1887)に影響されたロングが「蝶々夫人」(1898)を書き、ロングの小説を読んだベラスコが戯曲化(1900)して、その戯曲を観たプッチーニがオペラ化(1904)した、という風に創作が連鎖していきました。その連鎖が現在も続いています。1989年初演の「ミス・サイゴン」は1970年代のベトナム戦争を舞台にしたミュージカルですが、ピンカートンと蝶々さんを、アメリカ大使館運転手とベトナムの娘に置き換えて創作された作品です。このように明治時代から現在に至るまで、100年にわたって創作が連鎖し続けている普遍的名作、ロングの蝶々夫人ぜひご一読ください。

蝶々夫人ゆかりの場所

1、東山手十二番館

コレル夫妻が住んでいたとされる洋館。物語に登場する「ヒガシヒル」というのは東山手のことかもしれません。

2、十二番館からの景色

十二番館から港を見てみました。屋根越しに世界遺産になった150トンカンチレバークレーンが垣間見えます。

3、三浦環像(グラバー園)

蝶々夫人を演じる三浦環像です。1963年、プッチーニの肖像(環の指先にある白い円板)とともにつくられました。

4、プッチーニの立像(グラバー園)

1996年、イタリアのルッカ県とマダム ・バタフライ・コンクール協会から寄贈されました。三浦環像のすぐ側にたっています。

5、旧リンガー邸(グラバー園)

大正から昭和にかけて、蝶々夫人を演じてヨーロッパで名を馳せたオペラ歌手「喜波貞子(きばていこ)」の生涯を紹介するコーナーが旧リンガー邸にあります。

【参考文献】
『原作蝶々夫人』ジョン・ルーサー・ロング著古崎博訳(学校法人鎮西学園・長崎ウエスレヤン短期大学/1981)
『プッチーニのすべて』宮澤縦一(芸術現代社/1990)
『蝶々夫人を探して』ブライアン・バークガフニ(かもがわ出版/2000)
『オペラ蝶々夫人のことが語れる本』金子一也(明日香出版社/2004)
『魅惑のオペラ蝶々夫人』池辺晋一郎他(小学館/2007)