長崎市へのご意見・ご提案等の紹介

これまでに寄せられたご意見・ご提案等の内容をご紹介します。

年代:【不明】  【2023年07月受信】

ご意見(要旨) 【公然と行われる歴史の粉飾について】
令和五年広報ながさき7号の5ページ「潜伏キリシタンが信仰を告白した〜大浦天主堂〜」コラム中において、大浦天主堂が「殉教地の方角を向いて建てられています」という根拠のない表記は、教会史を正しく学習しようとする者に対し誤謬を誘導しかねない
26聖人殉教地はあくまで推定地であり確定した場所ではないし、大浦天主堂建設時のフューレやプチジャンらMEP自体、殉教地を特定できておらず立山(黙想の家地所)を想定していた
大浦天主堂の方位は、獲得すべき信徒の存在を把握していた神父が、浦上に向けてアプローチしたものだがそれでは信徒発見の奇跡がすっきりと成立しないので処刑場や殉教地といったあやふやな方角を仄めかしているにすぎない

【2023年08月10日回答】

回答 【世界遺産室】
 ご指摘のとおり「二十六聖人殉教地」については、様々な説があります。
 大浦天主堂を建設したフューレ神父とプチジャン神父は当時殉教地を茶臼山(現在の立山あたり)と想定しておりました(マルナス,1896,日本語訳1985・浦川,1927)。その後、二十六聖人殉教地については、史料をもとに法泉寺説・西坂説などが様々な学者により唱えられています(純心女子短期大学,1991)。
 戦後、昭和22年に長崎県戦災復興委員会の文化厚生専門委員会が西坂に仮記念碑を建て、昭和31年、長崎県史跡指定の際に、ディエゴ・パチェコ神父によって、二十六聖人殉教地が西坂である根拠となる史料が整理されております。その後も、多くの史料等の確認が進み、それらから考察すると、二十六聖人殉教地は西坂であるとして研究者間では異論がない状況にあります。
 また、当時の神父たちは、茶臼山を殉教地だと想定し、「教会は(中略)聖山の正面に見えます」(前掲マルナス)と、大浦天主堂を長崎で殉教した26人のキリシタンに捧げるため、その殉教地(「聖山」)の正面に建てたという認識をもっていました。
 以上を踏まえますと、広報ながさき令和5年7月号(5ページ)の大浦天主堂の紹介にあたり「殉教地(現在の西坂公園)の方角を向いて建てられています」の記述については、表現が不十分でした。今後は読者の皆さまに誤解を生じないよう、より一層注意してまいります。ご指摘ありがとうございました。


参考文献
フランシスク・マルナス(1896)、久野桂一訳(1985)『日本キリスト教復活史』
浦川和三郎(1927) 『切支丹の復活 前編』 株式会社 国書刊行会
純心女子短期大学(1991) 『長崎のキリシタン使徒たち』 聖母の騎士社 
関係所属 世界遺産室  【直通番号】:095-829-1260】

(注)掲載されている回答は回答時点のものであり、その後の社会情勢や制度の改変などにより、最新の回答と異なる場合があります。

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