長崎市へのご意見・ご提案等の紹介

これまでに寄せられたご意見・ご提案等の内容をご紹介します。

年代:【60代】  【2018年04月受信】

ご意見(要旨) 【原爆遺構の防空壕保存について】
先日のテレビ報道で新幹線開業における工事で戦時中の防空壕の遺跡が見つかったということで地元の天神町の自治会のかたが長崎市役所を訪れて担当部署の部長等に保存の要請をしている箇所が映っていましたが、その中で担当部署の部長の発言には全く驚かせられました。全く感覚を疑います。
それは「先方の工事業者に保存の件で要望したのか」という質問に対して、その部長は「してない」と答えていましたが、地元のかたがその件に関して要望されたのはずっと以前のはずです。なぜ要望されないのでしょうか?返答として「無理だ」みたいなことを述べていましたが、このような大掛かりな工事を行う場合、通常は考えられる、予想されることに対しては事前の対応を考えているはずだし、もしそれが後になって起こった場合はその時にあらゆる手段を講じて対策を打つべきです。
今、問題になっている佐古小学校の件でもまったく同じ問題です。遺跡などいっぺん破壊してしまうと後には戻りません。後から残しておいたほうがよかったらといってその担当部長や担当者が戻せるのですか。もう少し当事者意識を持って考えてやって欲しいと思います。今みたいなことだと財務省みたいになりますよ?

【2018年05月01日回答】

回答 【被爆継承課】
長崎市では、被爆の惨状を後世に伝え、核兵器の廃絶を世界に訴えるため、被爆建造物等の保存・公開に取り組んできました。
平成28年10月には、爆心地をはじめ被爆の痕跡を顕著にとどめる遺構群が長崎原爆遺跡として国の史跡に指定され、今年度、保存活用計画の策定を予定するなど、なお一層の取り組みを進めているところです。
市政への提案の中で触れられているテレビ報道は、平成30年4月18日に「銭座防空壕群を保存する連絡会」から長崎市へ要望をいただいた際のものと存じます。この団体から出された要望の内容は、九州新幹線西九州ルート建設工事現場(天神町地内)で確認された防空壕跡が、爆心地から2キロメートル以内にあること、また、「福岡俘虜収容所第14分所」の捕虜の人々がトンネルの掘削に関わったり避難したと考えられるため、被爆当時の社会状況を示す戦争遺跡、原爆遺跡として保存すべきであるというものでした。
長崎市では、平成30年2月6日に地元関係者からの情報提供を受けて、ただちに現地を確認するとともに、事業者(鉄道・運輸機構)に協力要請を行い、防空壕跡の数、幅、高さ、奥行き等を計測し、壕外から写真撮影して現状の記録を行いました。
また、文献等を調査しましたが、原爆資料館で多数収集している写真の中に、当該防空壕跡に着目して撮影しているものはなく、戦後、原爆の影響について克明に調査した「米国戦略爆撃調査報告書」「日本学術研究会議 原子爆弾災害調査報告書」にこの防空壕跡についての記載は特にありませんでした。
さらに、当該防空壕への捕虜の人々の関わりについて「長崎原爆戦災誌」等、他の文献も調査しましたが、特定できる記述はありませんでした。
長崎市では、当該防空壕跡については、被爆の痕跡がなく、前述の調査の結果から、保存対象としての被爆建造物としては考えておりません。市内に数多く残る戦時中に造られた防空壕跡の一つと考えており、土地の管理者である鉄道・運輸機構への保存の要望は行っておりません。
なお、鉄道・運輸機構からは、当該防空壕跡については、斜面の安定を図り、新幹線構造物の安全性を確保するためには、15カ所全てを撤去する必要があるとの説明を受けております。
長崎市では、長崎県防空本部があった立山防空壕、軍需工場として使われていた三菱兵器住吉トンネル工場跡、山里小学校の防空壕を被爆の実相を伝えるものとして保存・公開しているほか、多くの修学旅行生等が訪れる平和公園・松山町防空壕群(跡)についても平和学習に役立ててもらえるよう、当時にできるだけ近い形で保存し、公開しております。
長崎市では、被爆の惨状を後世に伝え、核兵器の廃絶を世界に訴えるため、今後もなお一層、被爆建造物等の保存・公開に取り組んでまいりますので、ご理解とご協力のほどお願いいたします。 
関係所属 被爆継承課  【直通番号】:095-844-3913】

(注)掲載されている回答は回答時点のものであり、その後の社会情勢や制度の改変などにより、最新の回答と異なる場合があります。

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