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水産業の歴史

更新日:2020年10月1日 ページID:005864

1 まえがき

長崎市が、我が国における水産物の集散地として重要な位置を占めていることは、その第一条件として近海に優良な漁場を有していることがあげられるが、その他に旧幕時代、この地だけが水産加工品の独占的な集散地であったこと、浦賀や横浜などとともに長崎も捕鯨船の基地に適していたこと、トロール漁業の成功と発達、次に機船底曳網漁業の出現、近海に多産するイワシ・アジ・サバ等捕獲のために離島及び長崎市近傍を基地とするあぐり網の水揚の中心地となったことなどが、その条件としてあげられねばならない。
そしてそれらの発達により、長崎市が水揚物の搬出、漁船・漁具の修理、経営に必要な資材の供給、消費地との連絡等に便利となり、今日の基礎を築いたものであろう。
しかし、日本漁業の発達過程には、種々の問題があった。沿岸漁民の貧窮化、郷土漁業資本の倒潰、戦争による打撃―郷土漁業の近代化は当然に中央資本の滲透の過程であった。

2 原始的漁業

天然の良港であり、その名が示すように長い岬の長崎は、近海に好漁場を有することから、漁舟の碇地であり、漁獲物の水揚もなされていた。
記録を総合すれば、この長崎の湊の中で、一本釣漁業はもちろん、延縄漁業も、手繰りのような海底をひく漁業も営まれ、しかもまた近海に来遊する鯨をねらう舟もいたが、そのすべてが、紀州熊野の漁民や大村領の家船などによって先鞭をつけられた漁舟や漁民たちであった。
元亀2年(1571年)に長崎が開港され、やがてキリシタンの町となったが、それと同時に、ポルトガル船の乗組員が教えてくれたものに航海術があった。当時においては今日のような書物があるわけではなく、まったくポルトガル人からの聞き覚えで勉強していたのである。特記すべきことは、長崎の喜蔵町(現在の桜町の一部)に住んでいた池田与右衛門入道好運という人が、マノエル・ゴンサロ船長とともにルソンやインドシナに航海して、みずから航海・運用術を書いたことである。これが我が国における天文学及び航海術の発達上貴重な史料となった『元和航海記』である。遠洋漁業に航海術が採用されたのは後々のことであるが、とかく漁業に必要な基礎学がこの長崎から広まっていったということを忘れてはならない。
当時の漁業はまことに幼稚なものであって、島影や風の吹きぐあいで漁場や舟の位置をきめるという方法であったと思われる。

3 近代水産業の発展

封建的漁業制度は、明治8年(1875年)の『漁業に関する布告』明治40年(1907年)の『漁業法』によって全面的に改められ、近代的漁業制度の体系がなった。
しかし、原始的な漁業生産の近代化は、明治後期に入らなければ見られなかった。
すなわち、明治30年(1897年)にはじまる捕鯨業がそのかわきりであったが、トロール漁業が明治40年(1907年)、機船底曳網漁業は大正2年(1913年)である。このうち、捕鯨業の歴史は、他の漁業史にくらべてすこぶる華やかな色彩をもっていた。すなわち、長崎捕鯨組にはじまり、ホーム・リンガー商会長崎捕鯨合資会社、日諾捕鯨会社などの活躍は、長崎の近代水産業史の劈頭を飾るものであろう。しかし、他の諸企業がそうであったように、捕鯨業もまた中央の大資本に圧倒され、あるいは合併されていく、企業の集中独占という資本主義の原則は、近代資本制水産業の初期において早くも表面化していることを知る。
近代的漁業は、捕鯨業についでトロール漁業となってあらわれ、ついで機船底曳網そして片手廻しあぐり網漁業が沖合漁業の中心となった。

4 第二次世界大戦後の水産業

戦時中、軍の漁船徴用やその他の事情によって日本漁業はいちじるしく荒廃した。戦後はまた、連合軍の漁区制限や船舶建造制限によって、その順調な立ち直りは困難だった。しかし戦後、深刻な食糧難におちいったことは、当然に漁業資源に大きな期待を寄せ、連合軍においても漁区制限や造船制限の枠をゆるめねばならなかった。昭和20年(1945年)には捕鯨漁業の許可を通告し、同21年11月に日本南氷洋捕鯨船団が戦後初の出漁となった。
以西底曳網漁業を営む大資本の水産会社は、戦後いち早く再建され、漁場は沿岸から近海へ、さらに遠洋へと離れ、機動性のある漁労方法が採用され、漁業無線の拡充と利用、さらにレーダーなどの応用・漁船漁具の設計・構造の研究などを活発にした。この発展の反面では、資金力の弱小な漁村では、従前の漁業を経営する能力を失い、資材入手の困難から、わずかに老朽化した漁船漁具を使用して、辛うじて生計をたてている状況であった。その一方で、戦後新興の群小漁業者も続出した。なかでも揚網漁業・定置網漁業・底曳網漁業などをはじめる業者が多かった。この傾向はとくに昭和22年末あたりに顕著であった。
戦後漁業の特徴の一つとして、漁労の機械化があるが、昭和24年頃には魚群探知機が普及されはじめ、これは漁業における新しい産業革命的な意義を持った。
また戦後の漁業のもう一つの特徴は、新たな漁場を積極的に開発し始めたことで、昭和25年(1950年)1月に男女群島へ第一次開発隊が出発し、徐々に漁場を拡大するにいたった。
日本の漁業は、明治末期から近代化し始めたが、それにはわが長崎が重要なる歴史的場所となっており、日本漁業技術史上忘れることはできない。漁業史上に大きな役割を果たした長崎は、近代的漁業へと脱却し、徐々に全国有数の水揚を誇る水揚地への地位を占めていく。

1~4:『市政六十五年史』より抜粋

5 水産業の現況

長崎市の漁業は、広大な大陸棚を有する東シナ海・黄海を主漁場とする以西底曳網漁業、大中型まき網漁業を中心とする遠洋漁業と、一本釣、延縄、刺網、小型底曳網、中小型まき網、定置網、海面養殖業などの沿岸漁業に大別される。
遠洋漁業は、以西底曳網漁業及び大中型まき網漁業に代表される会社組織により経営されるもので、農林水産大臣の許可に基づき、九州西海域、東シナ海・黄海を主漁場として操業している。
遠洋漁業は、新日中・新日韓漁業協定が発効し(注記1)、EEZ水域の設定(注記2)など操業における新たな局面を迎えているが、東シナ海・黄海の資源減少が著しく、加えて魚価の低迷など厳しい漁業経営が続いている。
沿岸漁業は、個人船主の漁業者と一部会社組織の漁業者とにより営まれ、そのほとんどが長崎市内の沿岸海区の漁業協同組合の組合員となっている。
長崎市の沿岸漁業は、五島灘に面した西彼海域と橘湾に面した橘湾海域でそれぞれ営まれている。このうち、西彼海域は、対馬暖流系外海水の影響が大きく、外洋性海域としての性状を呈し、中小型まき網、刺網、一本釣、延縄、定置網、採貝・採藻など多種多様な漁業が営まれ、アジ類、サバ類、マダイ、アマダイ、イトヨリ、レンコダイ、イセエビ、アワビ、ウニなどが生産されている。
一方、橘湾海域は、湾口部において対馬暖流系外海水の流入があるものの、湾奥~湾中央部は湾内水及び有明海沿岸水との混合水で占められ、内湾性的特徴が強い水域で、小型底曳網、曳縄釣、刺網、延縄、採貝・採藻などの漁業が盛んで、クルマエビ、ヒラメ、タチウオ、ハモ、マダイ、アマダイ、フグ類、イセエビ、ウニ類などが生産されている。また橘湾中西部の牧島周辺においては、波静かな入江等を利用しトラフグ、マダイ等を中心とする海面養殖業が営まれている。
沿岸漁業においても、漁業資源の減少、魚価の低迷、漁業就業者の高齢化、漁業就業者の減少など困難な問題に直面している。また、近年、長崎市の沿岸部では、水産生物の産卵・生育の場である藻場の減少・消失する磯焼けが見られ、藻場の回復が沿岸漁業振興上重要な課題となっている。
このように、長崎市の水産業は今日大きな転換点であり、経営基盤の強化はもとより、獲る漁業からつくり育てる漁業への転換、消費者ニーズを捉えた水産物の高付加価値化、地産地消による水産物の安定生産・流通・消費体制の確立が最大の課題となっている。

(注記1)新日韓・新日中漁業協定
日本と韓国間において平成11年1月に、日本と中国間において平成12年6月に発効された漁業に関する協定であり、それぞれ両国間の漁業秩序の安定のために、操業条件等について定められたもの。

(注記2)EEZ(排他的経済水域)

沿岸国の領海基線から200海里(約370キロメートル)までの海域であって、この海域における生物資源の採取や管理等に関して、当該沿岸国の主権的権利が及ぶとされる海域。

5:「長崎市の水産業」より抜粋

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水産農林部 水産振興課 

電話番号:095-820-6563 ( 直通 )

ファックス番号:095-827-6513

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(14階)

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